彷徨いの勇者
――病気にも怪我にも強い不老不死の完璧なチート持ち。
「この世界を救ってください勇者よ」
「畏まりました。必ずや身命を賭してお救いたしましょう」
ところが勇者は一向に魔物の多い場所へ行く気配すらなく、神々は戸惑った。
神々が遣わせた勇者は「彷徨いの勇者」と呼ばれるようになった。
たくさんの揶揄が通り過ぎ、それはやがて失望へ変わり、そして忘却された。
勇者はとりまくものの変化に動じることなく、ただ世界をくまなく彷徨った。
時に害獣を狩り、時に畑を手伝いもしたが、勇者はすぐに旅立った。
ご老体が生まれ変わっても、勇者はただ村から村へと歩いた。
その赤子がやがて年老いても、勇者は変わらぬ姿でまだ歩いていた。
やがて国が滅び、国々が生まれ、争いの時期が続いた。
勇者はその戦乱の跡地をただ歩いた。
腐り落ちる病み人に長年をかけて拾い集めてきた薬草を押し当てながら、疲れも病も知らない勇者はただ歩いた。
勇者にあこがれる年の子供が、墓の中で朽ちるまで、忘れられた勇者は彷徨いつづけた。
そしてその大きな戦いがやっと終わりかけたころ、忘れられた勇者はひとところに居を構えた。
神々は驚いた。
もちろん勇者が長き彷徨いを終えたことにも驚いた。
しかしそれ以上に、そこは瘦せおとろえた神の手がほとんど届かない地だったことに驚いた。
風土病の蔓延る飢えた地に、もはや勇者とは決して呼ばれもしない勇者は根を下ろしたのだった。
勇者は土を耕し始めた。
勇者は種を植えた。
長い間世界を歩きながら集めたものだ。
勇者は毎日遠くから水を汲んできた。
勇者は雨を貯め、やがてできた野菜を、風土病蔓延る飢えた街に売りに行った。
当然ながら飢えた地のものが、腹の足しにならない野菜を買うはずがない。
それでも勇者は育ちの早い野菜から順に街に持ち込んだ。
いくつかの株からは種を取り、また育て始めた。
勇者は膝を抱えて飢える子どもたちに、葉を毎日少しずつ配った。
ときには耕した地を狙った生き物の肉のかけらも配った。
やがて穀物も実り、勇者は種籾を売り歩いた。
勇者はコツコツと畑を拡げた。
勇者は野菜を根菜を根気よく配り歩いた。
劇的な変化はなかった。
しかしいつしか街からは皮膚が腐り落ちる風土病が消えていった。
その地を覆う靄が少しずつ晴れていき、蘇った気配に神々は振り返った。
神々の手はその地にも伸びるようになった。
そしてそのころには、野菜は売れるようになった。
勇者の野菜作りを手伝い、あるいは他の町に売りに行くことで賃金を得るひとも増えた。
勇者は野菜作りや行商を任せるようになった。
勇者の名を失った勇者は何人かの若者と井戸を掘りはじめた。
小さな行商はやがて大きな行商を呼び込んだ。
旅の間に摂取する野菜の重要性を、長く旅する行商人たちは経験で知っていたからだ。
この近隣では手に入れにくい野菜を、行商人は欲していた。
そうして、街の人たちが少しの豊かさと希望を得たとき、勇者は別の街へと旅立った。
街のひとたちは去りゆく彼を、我が街を救いた勇者よと崇めた。
神々は不老不死とした勇者が、長い時をかけて各地で全く同じようにしていく姿をしばらく追った。
神々が再び勇者のことを忘れてもなお、勇者は同じようにして彷徨い暮らした。
歴史には時折「彷徨いの勇者」が現れた。
彷徨いの勇者とは、豊穣の神が堕ちた姿であると断じる書物もある。
彷徨いの勇者とは、苦難のときには人の姿を借りて顕現する預言者だと語る聖伝もある。
いずれにせよ苦難に耐えかねるころ、彷徨いの勇者は腰を降ろすのだ。
彷徨いの勇者の善行を記した書物は、苦難にある人々における行動の指針として機能した。
旅人は彷徨いの勇者を守護者として崇めた。
有事に備えてできるだけ多くの種類の種を備えるようにもなった。
大きな争いは決してやむことがなかった。
それでも途方もない時が過ぎるころ、多くのひとが愚直に生きる彷徨いの勇者を心の片隅に置いた。
荒廃の地に撒かれた種が芽吹くように、それは音もなくただ静かに根を下ろした。
神々はひとを減らしあうような小さな争いごとが随分と減ったことにようやく気づいた。
神々がもたらした勇者は、そうして少しずつ武ではなくてひとびとの心に芯を授けたのだ。
争いは尽きなかったため、役目を終えた勇者がまた神々の許に戻ることはなかった。
だから決して神々がこう言って勇者を労う日は来ないのだ。
「彷徨いの勇者よ、よくぞこの世界を救ってくれた」
お読みいただきありがとうございました。