奇談散歩【46】 能『 黒 塚 』
「黒塚」は、福島県二本松市(旧安達郡大平村)にある塚、及び、それに纏わる鬼女伝説で、安達ヶ原(阿武隈川東岸、或るいは安達太良山東麓とも)の岩屋には鬼女が住み、旅人を襲っては喰っていた、と伝わっている。
能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』も、この伝説に基づいており、この鬼女・鬼婆伝説を下敷きにした能を、観世流では『安達ヶ原』といい、他の流派では『黒塚』という。
『陸奥の安達が原の黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことか』(『拾遺和歌集』巻九・雑下)
歌の詞書には「陸奥国名取の郡黒塚といふ所に、重之がいもうとあまたありとききて、言ひつかはしける」とあり、これは平安時代、三十六歌仙の平兼盛が ( 同じく三十六歌仙の ) 源重之の妹たち、辺境の陸奥に住む息女を人目に触れぬ深窓の令嬢として、隠れて姿を現さない「鬼」に例えた歌という、
( 兼盛の時代以前より黒塚伝説が存在し、兼盛はそれを踏まえてこの歌を作ったという説と、歌の方が伝説より先に存在し、文字通りの意味に解釈され、黒塚の鬼女伝説が発生したという説がある )
能の『黒塚』は ※作者不詳だが、『道成寺』『葵上』とともに能の「三鬼女」に数えられる有名な作品で、見どころも多い。
( ※「黒塚」の作者は今春禅竹 ( 世阿弥の女婿 ) であるともいわれ ( 『二百十番謡目録』 )、『能本作者註文』には近江能とされている。また、世阿弥が作って近江申楽に遺したものであるともいわれ、はっきりはわからない。「鬼の研究:馬場あき子著」より )
あらすじは、歌舞伎の安達ヶ原とほぼ同じで、
熊野那智の東光坊阿闍梨祐慶は廻国修行の途中、陸奥に立ち寄り、安達ヶ原で行き暮れて荒れ野のあばら家に宿を乞うた。
あばら家の老女は一夜の宿を借りたいという一行の申し出に困惑するが、気の毒に思って一夜の宿を貸すことにした。
季節は秋、夜半の寒さが厳しくなる頃、老女は客人のもてなしに、せめて焚火をと、夜の山に薪を取りに入っていく。その際、老女は「決して奥の寝屋を見ないように」と言い残した。
ところが、能の『黒塚』でも一行に仕える能力(のうりき:従者・荷物運び)が寝屋を覗いてしまう。するとそこには山積みの屍体が ……
一行は「安達原の黒塚に、籠れる鬼の住処なり。恐ろしや、かかる憂き目をみちのくの、安達原の黒塚に、鬼籠れりと詠じけん、歌の心もかくやらん」と、取るものもとりあえず、這う這うの体で逃走。
秘密を見られたことに気がついた老女はこの仕打ちに怒り、鬼と変じて一行を執拗に追いかけるが、阿闍梨祐慶はその法力によって鬼女を祈り伏せ、難を逃れた。
「安達ヶ原の黒塚に隠れすみしもあさまになりぬ。あさましや恥ずかしやの我が姿や」
平安時代の歌では人目に触れぬ「深窓の令嬢」を「鬼(隠)」に擬えたものが、中世には人里離れた荒れ野に住む「孤独な老女」になり、さらに「鬼」に変じて異形の存在となった。つまり現代では『黒塚』『安達ヶ原』に棲むものは、見立てられた「息女」では無く、遣らわれる浅ましき「鬼」である。
さて、馬場あき子氏の ≪ 鬼の研究 P256 ‐ シカミ「黒塚」と般若「黒塚」 ‐ ≫によれば、能『黒塚』『紅葉狩』はポピュラーな演目で、どちらも面は<般若>をつける演目。
しかし、『黒塚』『紅葉狩』両曲ともに元来は<般若>をつける曲ではなく<シカミ>という鬼畜の面をつけるきまりで、後シテを<般若>にするか<シカミ>にするかで曲の解釈は大きく違ってくる。
<シカミ>の面をつける有名な曲は『大江山』『羅生門』『土蜘蛛』『雷電』( 『紅葉狩』『黒塚』 ) などで、<般若>は『道成寺』『葵上』『鉄輪』。
前者はシテ ( 主役の演者 ) を本性からの鬼畜・妖怪変化として扱っているが、後者は人が変貌した成れの果て、「鬼女 ※」として扱っており、後シテを「どちらの面にするか」が曲趣の重大な判断の決め手となっている。
『黒塚』に<般若>面を用いる解釈は古くから行われており、『黒塚』は鬼女の能として早くから位置づけられていたという。
※ <シカミ>と<般若>の違いは<般若>が女面であること、<般若>は<小面 ( 若い女面 )>と表裏一体、
また、『まんがでわかる 歌舞伎の名作名啖呵 いまいかおる著』で、いまいかおる氏は、
≪歌舞伎「黒塚」の章 : 歌舞伎には鬼の出てくる話がたくさんありますが、鬼に同情してしまったのはこの作品だけでしたね~。
ホカの話では退治する役が豪傑とか武将なので対抗上鬼も荒々しく怖そーに描かれているのかもしれませんが、とにかく性格は攻撃的で相手を倒すことのみ執着しているのがほとんどなのに比べて『黒塚』の鬼女は自分を客観的にながめて悩み苦しむという人間っぽさが残されています。
これはやはり生まれながらの鬼と、恨み・嫉妬・深い悲しみなどが凝り固まって鬼になってしまった人間という事情の違いなのでしょうか …?≫
と、作品によって異なる「鬼」の性質を語っている。
能『大江山』歌舞伎『大江山酒呑童子』や、平維茂が八幡大菩薩から下された神剣で鬼退治する『紅葉狩』など、最初から退治される怪物として描かれる荒々しい「鬼」とは違う、どこか もの哀しい「鬼」の物語。
鬼が人の “ 成れ果て ” で あるなら、
これからも、人の世のある限り「鬼」は幾度と無く境界の隠から立ち現れくるのでしょう。




