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奇談散歩【26】 早百合伝説 磯部の一本榎

磯部(いそべ)一本榎(いっぽんえのき)

 富山市の護国神社裏手。神通川堤防・磯部いそべ土手に建つ石碑「磯部のさくら」横の(えのき)、これは『磯部の一本榎』と呼ばれ、ある怪異が伝えられている。。

 ※ 初代は富山空襲で焼けてしまって、現在の榎の木は2代目。榎のそばに早百合姫の霊を慰霊する『早百合観音堂』がある。


『絵本太閤記』

≪ 今も猶、越中富山神通川の辺に、風雨の夜は、女の首をのきて、吊下げたるかたちの鬼火顕れ出づるを、土人號なづけてぶらり火と云ふ。又、風雨もなき夜にても、さゆりさゆりと大声に呼ば、此ぶらり火顕れ出づるよし ≫

 風雨の夜に、女の首に似た鬼火「ぶらり火」が現れる。雨でなくとも「さゆり、さゆり」と大声で呼ぶと出現する。


 ー あらすじ

 早百合姫は呉服村(富山県)の豪農・奥野与左衛門の娘。※1佐々成政が領内を巡視した際に、見初められたという。( 物語により、出会う切っ掛けや場所などは変わり、プロットのズレもあり )

 比類なき美女と謳われ『肯搆泉達録こうこうせんたつろく』に、≪ 誠に類少なき国色なれば、成政の寵愛深く、しばしもかたわらを放さず ≫ と記載がある。

 しかし、その寵愛ぶりが他の側室 ( 奥女中とも ) の妬みをまねき、側室の早百合姫が「小姓・竹沢熊四郎と不義密通、懐妊している」と、あらぬ噂を立てられることとなった。

 折悪しく、成政は「さらさら越え」の直後、家康の説得も不首尾におわり、精神的にも追い詰められていた。

 そして、富山に戻った成政は、早百合姫不義密通の噂を聞く。

 怒りに駆られた成政は熊四郎を斬り捨てると、早百合姫の髪を掴んで神通川ほとりの榎の下まで引きだし、髪を逆手に持ち上げてそのまま吊し斬りにしたという。( 一説では榎に縄で宙づりにして鮟鱇(あんこう)のように斬り刻んだとも )。無実の罪で殺される早百合姫は歯が砕けるほど歯噛みをし、血涙(けつるい)を流して「悪鬼羅刹となりて、子孫を殺し尽くし、御家名を断絶させましょう」と叫び「立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する」と言い残したという。


 その後、この(えのき)周辺に怪異・変事が起こるようになった。

 雨夜、この付近に女の生首と鬼火「ぶらり火」が現れ、「さゆり、さゆり」と呼ぶと早百合姫の亡霊が現れるという。


 佐々家は、早百合姫が斬殺されてから徐々に凋落。

 佐々成政は秀吉に降伏し、越中の太守から秀吉の御伽衆となり、後に肥後一国を与えられるものの、国人一揆を誘発した罪によって摂津の尼崎で切腹。これは天正16年(1588年)、早百合姫が亡くなって、3年後の出来事であった。


【黒百合伝説】

「立山に黒百合が咲いたら、佐々家は滅亡する」と言い残した早百合姫。

『絵本太閤記』に因れば、

 秀吉に降伏した後、大阪に移ってきた成政は、秀吉正室の北政所に黒百合を献上した。

 北政所は茶会を催し、黒百合を披露した。しかし、数日後、側室の淀君の茶会に招かれると、同じ黒百合が他の花に混ぜて無造作に生けてある。噂を聞いた淀君が内密に取り寄せた百合だったが、これを見た北政所は激怒し、不興をかった成政は、ついに肥後での失政を問われて切腹、あえない最期を迎えたという。


… と、有名な『黒百合伝説』ですが、

 淀殿が秀吉の側室となったのが天正16(1588)年頃。『多門院日記』によれば、天正17(1589)年3月に淀城( 京都市 )に入城。

 一方、佐々成政が切腹したのは天正16(1588)年5月14日。

 正室と側室の権力争いが激化する時期には、佐々成政は既に亡くなっており、黒百合伝説は、後世の創作とされています。

 また、 佐々成政は、地元富山では築城や治水事業などに長け、民衆のことを考えた名武将で、佐々成政を貶める伝承は、越中を引き継いだ加賀藩前田家が統治のため故意に流した噂との説もあります。


≪ 佐々成政の研究で知られる遠藤和子氏は、一族 ( 早百合姫 ) の子孫は生きており、成政としては無実を信じながらも、噂が広がった以上、法度の手前処罰しなければならなかったのだろうと述べている。また、故・廣瀬誠氏の「成政の後に越中を支配した前田氏が、善政をしいた成政を慕い懐かしがる民衆への人心収攬策の一つとして利用し、ことさらゆがめ誇張して流布したものでしょう」との推測も紹介している。ー月刊グッドラックとやま 2012年3月1日 ≫



※1【佐々成政】

 生年は1516年説、( 1539年説もあり )。 早くから織田信長に仕え、永禄年間の初め頃には信長親衛隊「黒母衣衆」の筆頭となる、武勇に優れ数多くの武功を挙げた。

 織田信長没後、信長の遺児・信雄が徳川家康と連合して秀吉と対立。1584年、小牧・長久手の戦いにて成政は信雄の要請に応じて味方した。

 しかし、信雄が秀吉と和議を結び、家康は撤退。成政は家康へ直談判を試み、厳冬の立山を秘密裏に踏破し浜松へ向かった(さらさら越え)。だが、その苦労も空しく、成政の再挙要請を家康は拒否。

 その後、佐々成政は豊臣秀吉に降伏、肥後一国を与えられたが、領内で「肥後国人一揆」が勃発。その責めを負わされ、天正16年(1588)年5月14日に切腹した。





佐々成政の子孫、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行あつゆき氏は、こんな佐々家エピソードを紹介しています。

亡き母が佐々家に嫁いだ折、姑から家訓を申し渡された。

曰く「佐々家では『百合』は禁花。庭に植えても生け花にさしてもいけない」と ー

亡き母が氏の奥様にも、この家訓を口伝し、奥様もたいそう驚いたとのこと、

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