奇談散歩【21】 栖岸院・お菊の墓
栖岸院・お菊の墓
「皿屋敷もの」の伝承は日本各地に類話が見られ、中には実際に起きた事件に伝承の発祥を見出そうとするものも有るようですが、すでに江戸の早い時期には、この怪談噺の発祥を特定することは困難だったようです。
ヒロインの名前も「お菊」に限定せず、小道具の「お皿」も「盃」「針」の伝承があり、プロットのズレも見られますが「使用人の粗相」「主人の虐待」「使用人の自死後に発生する怪異」「お家の没落という因果応報」は概ね共通しており、「使用人の粗相」「主人の虐待」という、近世社会では起こりがちな事件・ゴシップは、どのような地域・舞台でも成立し、好まれる物語だったことが伺えます。
江戸時代には、歌舞伎・浄瑠璃・講談等で人気を博し、明治に下ると、多くの作家の手によって怪談噺・怪異譚として発表され、特に、大正時代、岡本綺堂の戯曲『番町皿屋敷』は、この怪談噺を恋愛悲劇として描き、好評を得ました。
お菊さんの怪談「皿屋敷」ものと言えば、1758年 ( 宝暦8年 ) の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった江戸番町の『番町皿屋敷』と播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』が有名どころでしょうか、
【番町皿屋敷 あらすじ】
事件が起こったといわれるのは、牛込御門内五番町の火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷。承応二年 ( 1653年 ) 正月二日、下女の菊は主人の主膳が大事にしていた十枚揃い皿の一枚を誤って割ってしまいました。
菊は、怒った奥方にたいそう責められ、主人の主膳は欠けた皿の代わりと菊の中指を切り落とし、後で手討ちにすると監禁しました。その夜、菊は部屋を抜け出し、井戸に身を投げ自害。
その後、身投げした井戸から夜な夜な菊の亡霊が現れ「一枚… 二枚……」と皿を数える声が聞こえるようになり、奥方の産んだ赤子の右中指が欠けていた為、人々は菊の祟りを噂しました。
菊の祟りの噂は御公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収され、家督は断絶となりました。
しかし、その後も古井戸の怪異は続いたため、御公儀は伝通院の了誉上人に菊の供養を依頼。
その夜、上人が読経していると、皿を数える声が「八枚…… 九枚… 」と聞こえてきました。そこで上人が「十枚」と声をあげると、亡霊は「あらうれしや、そろうた」と言って消え、二度と現れなかったといいます。
≪ この時代考証にあたっては、青山主膳という火附盗賊改は存在せず (『定役加役代々記』による )、火付盗賊改の役職が創設されたのは1662年 ( 寛文2年 ) と指摘されている。その他の時代錯誤としては、向坂甚内が盗賊として処刑されたのは1613年であり、了誉上人にいたっては250年前の1420年 ( 応永27年 ) に没した人物である - Wikipedia「皿屋敷」≫
… と、江戸の「番町皿屋敷」ほぼ創作であろうとのことですが、都内には「お菊さん」ゆかりの場所がいくつかあり、江戸期、住職が将軍へ御目見えできるほどの寺格を持っていた古刹、永福の栖岸院 ( 浄土宗 ) に「お菊さんの墓」が存在しています。
お菊さんの墓は複数存在しており、平塚駅近くにも「お菊塚」と刻まれた石碑があり、以前は、この場所にお菊さんの墓があったそうですが、戦後、晴雲寺内に移転。1741年 ( 元文6年 )、平塚宿の宿役人・眞壁源右衛門の娘・菊が、家宝の皿紛失事件から主に手打ちにされ、亡骸が長持に詰められて返されたのを弔ったもの、と伝わっています。
また「塚」以外では、靖国通りから番町方面へ上る坂が「帯坂」と呼ばれ、この名称は、お菊が乱れた着物姿で帯を引き摺り逃げたという伝承に由来します。




