敷島 侑子
「へくちっ」
小さなくしゃみを一つする。
「お?風邪でもひいたか?お嬢ちゃん」
隣を歩く須藤が冷やかし混じりに声を掛けた。
「ちがわぃっ!それにな、ウチにはちゃん敷島 侑子って名前がちゃんとあるんや!ええ加減覚えぇ!」
はいはい、と須藤が笑いながら応える。
先程の一件の後、軽く自己紹介を終えた二人は、敷島の案内で須藤の当初の目的地であった時計台へと向かっていた。
「所で…」
不意に須藤が切り出す。
「なんや?」
大きく綺麗な瞳が振り返る。
「さっきのヤツに、データがどうとか言ってたけど、一体何だったんだ?」
「………」
敷島が押し黙る。
「何かヤバいってのは分かるけど、何やらかしたんだ?」
敷島は答えない。
「そもそも…」
「そっ、そんな事どうでもええやろ!」
無理矢理流れを断ち切る。やや面食らった須藤が今度は黙る番だった。
「………」
「………」
「……まいっか」
しばしの間の後、須藤がポツリと漏らす。
「そうそう。女に秘密は付き物や」
フフンと、自分では艶っぽく笑っているのだろうが、実際は引きつっているだけの笑いを敷島は浮かべていた。
「………」
須藤が苦笑する。
「何苦笑いしとるんや?ほれ、着いたで?」
…目の前に、小さな塔が建っている。外壁には時計が据えられており、上部には鐘が備えられていた。
カンコーン…カンコーン…。
時刻は夕方五時を指していた。
「もうこんな時間かぁ~」
時計台を見上げながら敷島が呟く。
グゥゥ~。
「…う。…腹減ったな…」
「…クッ」
「くっ?」
須藤が訝しげに敷島を見やる。
「アッハッハッハッ!」
敷島が腹を抱えて笑う。
「何だよー。笑い過ぎだぜ」
「ア、アカン…腹が捩れる…クックックッ」
須藤がむくれるのを見て、更に敷島が笑う。
「ハッハッ…ハァ~。しゃあないな~。とっておきの店、案内したる」
ニヤリと笑い、こっちや、と時計台の脇にある路地に須藤を引っ張る。
「お、おいおい…」
「エエからエエから」
路地に二人の姿が消えていった。
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ガララララ。
『ラーメン屋 ヤマオカ』と書かれた暖簾の奥の引き戸を開けると、ラーメンの良い香りが漂う。
「らっしゃい!」
と同時に威勢の良い店主の声が響く。
「おっちゃん、また来たで~」
敷島が手をひらひらと振る。
「おっ!侑子の嬢ちゃんか!良く来たな!…そのあんちゃんは?彼氏か!」
「ちゃうわ!」
二言三言店主とやり合うと、手近な席に陣取る。
「おっちゃん、いつもの頼むわ~」
「あいよっ!あんちゃんはどうする?」
「おっと。んじゃあ…」
須藤がメニューに目を通す。
「これだ!…『海鮮塩ラーメン時計台風味』!」
「あいよっ!」
「いきなり冒険やな…」
敷島がぼそりと呟く。
「ん?」
「いや、何でもあらへん。水持って来るわ~」
タタタ…。
訝しげにその姿を見送ったが、やがて気を取り直し再度メニューに目を通す。
コトン。
直ぐに目の前へと水の入ったコップが置かれる。
「んんん?」
テーブルの上には、コップが三つ。
「頑張ってな!」
ビシィッ!
力一杯親指を立ててはにかむ敷島。
…その理由は直ぐに分かった。
「ヘイ!お待ちぃ!蟹ラーメン一丁と海鮮塩ラーメン時計台風味一丁!」
ごゆっくり~、と店主がそそくさと厨房に戻っていく。
「………」
「いただきまーす!」
パチンと割り箸を開き、麺を啜る。
「うんま~!…ん?食わへんのか?」
「………」
今、須藤の眼前にはカオスが鎮座していた。
器から飛び出す、蟹の脚。
器の縁から垂れ下がるゲソ。
スープに横たわる分厚い鮭の切り身。
其処までは良かった。非常に盛りの良いラーメンと言えるだろう。
…だが。
「…。何?この一面赤いの?と言うか具も赤いぜ?」
「何て…。唐辛子やろ?」
「…いやあのこれ塩ラーメ…」
「ここのおっちゃんな…残すと恐いで~」
ニヒヒヒ、と敷島が意地悪く笑う。
「く…やられた」
パチンと割り箸を開き、意を決して箸を赤い海に沈める。
………
…………
……………
「ごっそさ~ん」
敷島が手を合わせ、食事終了を告げる。
「ぐ……ごチソうさマでシタ…」
顔中から汗を噴き出しながら、須藤が告げる。
「さて、行こか~」
敷島はやおら立ち上がると、レジへと向かう。その後をよろよろと追う須藤。
ガララララ…。
「ありやとやんしたーッ!」
入ってきた時同様、威勢の良い声に見送られ、二人はその場を後にした。