S2 香煙草
バージョンアップが行われた夕方、コミュニティルームにていつものメンバーが集まっていた。だが、そこにコミュニティのリーダーグループの姿は無い。彼らはまた今朝から旅立ったようだった。今だ見ぬ世界の最前線へ。そんな未知の世界への憧憬に想いを馳せるエルツの前ではというと、また騒がしい日常が繰り広げられていた。
「ウガガ、ウガガガ!」
カルーアミルクで酔っ払ったウィルが奇声を上げながら、コミュニティルームを縦横無尽に駆け回る。そんなウィルを止めようとシュラクとチョッパーが追って走り、泥沼化する事態にコミュニティメンバーは顔色一つ変えず平然と眺めていた。
バージョンアップしたところで変わらない日常がここにはある。
「そういえば、スニーピィさんの姿見えないですね」
「あいつは、Lv上げだな。場所的に当分戻ってこないだろ。俺も明日から当分姿消すから、コミュニティの留守は預けるぞ。あいつらだけじゃ不安だからな」と走り回る子供達に視線を向けるドナテロ。
ここ暫く静観してたスニーピィとドナテロの二人にも、オルガの引退によってちょっとした心境の変化があったようだった。何しろ、オルガから直々に跡継ぎを頼まれてしまったのだ。積極的にゲーム攻略に乗り出し、オルガに残された言葉通り、抜けた穴を埋めるために奮起したのかもしれない。
「おい、お前等。バカはほっといてそろそろ止まれ。シュラク、チョッパーなんか飲むか?」
ドナテロの言葉にピタリと止まり、ソファーに寄って来る二人。
「じゃあホットミルク」
「ボクも」
シュラクの言葉にチョッパーも続ける。それを聞いたのか、今だ走り続けている馬鹿者もピタリと動きを止める。
「ほっとみるくだとくぉら!」
呂律もろくに廻らない状態で「この軟弱者、裏切り者!」やらと叫ぶウィルは、そのまま飛び上がりシュラクとチョッパーのフライングラリアットをかまして三人は縺れ合う。
「なんだうるせーな。お前も何か飲むのかウィル?」
ドナテロの言葉によろよろと起き上がるウィル。
「だれがなんじゃくものだくぉらら!」
そう言って地団駄を踏むウィル。
「軟弱者なんて一言も言ってねぇだろ。何か飲むかって聞いたんだよ」
「じゃあ、ほっとみるく」
鈍い音と共に、直立不動のウィルの首元にシュラクとチョッパーのダブルラリアットが炸裂する。再び縺れ合う三人を前にドナテロははぁっと溜息をつき、腰を上げると鉄の容器に牛乳を注ぎ込み始める。
子供達の身体を張ったコントを見つめながらエルツ達は今回のバージョンアップについて語り始めた。
「今回のバージョンアップ、随分CITY BBSで話題になってますけど。まさかあんなに混んでるとは夢にも思わなかった」
「バージョンアップの時なんざ大体いつもそんなもんさ。新しいもんに群がるのは人間の悲しい習性だな」
ドナテロの言葉にふっと微笑むリーベルト。
「そういうドナテロさんだってシガレット買ったんでしょ?」
「え、あの長蛇の列に並んだんですか!?」
ドナテロは一枚のアイテムカードをパーソナルブックから取り出すと、器用に手先で回して見せた。
「Realize」
ドナテロの宣言と共に小さな光が輝きアイテムが具象化される。現れたのは小さな香煙草のケース。モノクロで幾何学的なデザインがされたパッケージには「Diabolo」と記されていた。余談だが、アイテムはRealizeというVoice Commandによってカードから現物に具象化する事が出来る。
「へぇ、なんか格好いいデザインですね」
「まともに吸えそうなのが他に無かったんだよ。ハーブ系がやたらと多くてな、ペパーミントやらローズマリーやら、中にゃストロベリーなんて甘ったるいもんもあったな」
ドナテロはケースから香煙草を一本抜き取ると、エルツとスウィフトに向かってケースを差し出してきた。
「あ、僕ら吸えないんです。すいません、ありがとうございます」
ドナテロは無言で頷くと、興味深そうに見つめていた向かいのリーベルトとフランクに視線を送る。
「貰ってもいいですか?」
リーベルトの言葉にケースを放り投げるドナテロ。リーベルトとフランクは香煙草のケースを受け取ると、一本ずつ抜き出して口に加えた。
「二人ともまだ高校生ですよね」とフランクから手渡されたケースのパッケージを見つめながら呟くスウィフト。
「酒と同じ理論さ。この世界じゃ規制されてないからな。もっとも規制されたところで吸う奴は吸うさ」とドナテロ。
酒も煙草も自由か。なんか現実での法律に頭が縛られているせいか、これはこれで問題な気がしてしまう。だが、この香煙草が含有するニコチン0mgだというし、それもそうだろう。あくまでこれは脳の中でのシミュレートなのだから。スウィフトから手渡されたケースのパッケージには、少なからずその事について記されてあった。
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本製品において主流煙による喫煙被害、また副流煙(喫煙者が直接吸う主流煙に対し、たばこの先から自然発生する煙。及び、喫煙者の吐き出す煙)による受動喫煙(二次的喫煙)被害はございません
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要は喫煙による被害が無いとパッケージにはそう書かれていた。成る程、身体に害が無いから誰が吸ってもいい、この場合そう考えていいのだろうか。なんとなく頭に引っ掛かるこの想いは多分モラルから来るものだろう。だが、こんな理想の世界に来てまでモラル云々は興醒めする話に違いない。エルツは手にしていたケースをドナテロへと返した。ケースを片手で器用に持ち直すドナテロ。
「Materialize」
消費アイテムの多くはMaterializeというボイスコマンドによって再びカード化する事が出来る。マテリアライズの回数には基本的に制限なく、消費材の場合、使いきった時点でそのアイテムは自動消滅する。
「結構いけるなコレ」
今、手の中でカード化した香煙草を見つめながら呟くドナテロ。
結局はドナテロが言った言葉に全ては集約されている。規制されたところで、吸う奴は吸うし、吸わない奴は吸わない。個人の趣向、自己管理の問題に口出すのはそれこそお節介というものだ。もっとも、こんな事を考えている事自体、非喫煙者のただのエゴなのだろう。喫煙者からしたら鬱陶しい事この上ない。
そんな思考を過ぎらせながら、エルツはこの葉煙草のモラルに関する思索を打ち切る事にした。同時に、自分は喫煙にはおそらく今後も縁は無いだろう。そんな結論を導き出してもいた。