S33 語られる真実
夕方になるとコミュニティルームはたくさんのメンバーで賑わう。その中にはオルガの姿もあった。
今日ログインしたドナテロはオルガの引退をメールで知っているのかいないのか、相変わらず独特の陽気な口調で、コミュニティの会話を盛り上げていた。酒も入り、一同に酔いが回り始めたところで、スニーピィが口を開く。
「いつ頃戻ってくるんだろうシンさん達」
「何でシンさん達戻ってくるんですか?」とケヴィン。
何も知らないケヴィンにとってそれは純粋な疑問だった。その質問に、自分の台詞が余計な一言だと気づいたスニーピィはその場で色々悩んだ挙句、静かにケヴィンに耳打ちをする。
その内容にあからさまな驚きの視線をオルガに向けるケヴィン。そのリアクションの大きさに項垂れるスニーピィ。そんな様子を見てウィスキーを口にしながらオルガはふっと微笑した。
「すまんな、皆に気を遣わせてしまって」
オルガのその言葉に慌ててスニーピィが言葉を返す。
「いや、そんな事ないですよ。すいません」
そう言って自らの失言に、頭を下げるスニーピィ。
そんなスニーピィをフォローするかのように切り出したのはドナテロだった。
「皆寂しいんですよ。オルガさん居なくなるのが」
「おい、ドナテロ」
制すべきか、当惑の色を浮かべながら呟くスニーピィ。
その言葉に俯くオルガ。
「野暮だとは分かって聞くんですが、オルガさん。何故です?」
何故引退するのか。ドナテロの言葉に静寂する。それは皆が知りたい疑問ではあった。だが、言葉に出来る者は居なかった。
そんな空気にオルガは今静かに口を開く。
「すまない、説明するべきだったな」
そう言ってオルガさんは手に持っていたグラスをテーブルに置いた。
「しかし、実際に辞める身になると、どうも口に出しづらくてな」
今静かにその想いを語り始めるオルガ。息を飲むメンバー達。
それから、オルガが語り出したその内容に、皆は驚きと同時に喜びを隠せなかった。
オルガが語ったその内容。それは……
「子供が生まれた!?」と一同。
「オルガさん! なんでもっと早く言ってくれないんですか!」とスニーピィ。
一同の緊張が一気に解れる。緊張していた分、何だか肩透かしをくらったような気分だった。
子供が生まれたから、暫くは仕事と育児に専念したい。それが、オルガがこのゲームを引退する理由だった。
「確かに、そりゃこんなゲームやってる場合じゃないですね」とリーベルト。
「でも、それならたまにログインとか出来ないんですか?」とケヴィン。
ケヴィンの言葉にオルガは再びウィスキーを口に含み、自らの想いを語り出した。
確かに、ケヴィンの言う通り、時折こちらの世界にログインする事は可能だろう。だが、それではオルガが今自分自身抱える問題を解決する事は出来なかった。
ここARCADIAにはオルガが求めていた理想の世界が広がっている。理想の世界で生きる事は何よりの喜びを齎してくれるが、同時にオルガは自分がこの世界に依存し過ぎている事に気づいていた。現実に戻れば、この世界での記憶は消える、だがそれはこの世界への憧憬が消える訳ではない。むしろ楽しかった理想の世界というイメージだけが自分の中で高まり、日に日にこの世界への依存心は高まっていった。
現実世界とARCADIAを両立する。そんな器用な事が出来る人間でない事は薄々自覚していたのだ。いつかは、必ずどちらを選択しなければならない時がやってくると。そして、その時がやってきた時の答えは前々からオルガの中にあったという。
「……なるほど」
オルガの想いにドナテロはただ一言そう呟いた。皆掛けられる言葉が見当たらず、ただただ、そのオルガの言葉を自分の中で消化しようと努めていた。
そんな折、オルガは静かにまた一言呟いた。
「人は理想の世界では生きられない」
何故だか、理由は分からない。そのオルガの一言がエルツの胸に深く、そして重く胸に響いた。頭の中で反復されるその言葉を、エルツはただずっと噛みしめていた。
それから、会話はいつものコミュニティルームの陽気な空気感が戻ってきた。
「ったく、勝ち逃げか」
と、責めるドナテロにオルガが「すまんな」と微笑みを返す。
「ご祝儀包みたいんですけど、現実戻ったら覚えてないのが厄介ですよね。どうにか方法ないかな」とスニーピィ。
「純粋な疑問なんですけど、赤ん坊生まれた時ってご祝儀って出すんです?」とリーベルト。
「あ、出さないか。なんか結婚式と今勘違いしてた。ていうか、オルガさん結婚してた事も知らなかったし」
そんなスニーピィとリーベルトの会話にオルガは「気持ちだけありがたく受け取らせてもらおう」そう微笑んだ。
それは、なんとも微笑ましい光景だった。
今、解けたエルツの疑問。一人の冒険者がこの世界から去る理由。それは、確かに納得のいく理由があった。人が現実に生きる以上、優先されるべきは現実なのだ。それは今のエルツにとって少し耳に痛い言葉ではあった。そして、オルガが呟いたあの一言。
――人は理想の世界では生きられない――
その言葉が示す、その言葉の重みをエルツは未だ量りきれず頭の中で繰り返していた。