S20 新世界への憧憬
夜の暗闇にレミングスの酒場から淡い光が漏れ始める頃。
蔓に吊るされたランプの明かりの元へ一斉に突き出される杯。
「それでは、試練の洞窟、無事突破を祝ってカンパーイ!」
ユミルの掛け声に一斉に声を揃える一同。
乾杯と同時に盛大にアップルジュースを零したチョッパーの服を拭きながらユミルは笑顔でエルツ達に初試練の感想を促した。
「初試練どうでした、感想は?」
「楽勝! 楽勝だったよなチョッパー」
エルツのその言葉にチョッパーは「ウン」と頷き手を下げたところで残りのアップルジュースをぶちまける。天然のチョッパーに対して「もう、自分で拭け!」とユミルが切れかかったところで、エルツは二杯目のビールを注文した。
「だから速ぇっつうの」
スウィフトの突っ込みを無視してエルツは二杯目のジョッキを手に取り、一人悦に呟く。
「人は何かに溺れたい生き物なんだよ、スウィフト」
「何か言ってるぞコイツ」
そんなスウィフトのつっこみもお構いなしにエルツは続ける。
「それも人の弱さが為す一つの真理。為らばそれに抗う事に何の価値があるんだ?」
エルツはその問い掛けに対する一つの答えを今出そうとしていた。
「そんな弱い人間を代表して、僕は宣言する」
エルツは高らかに宣言した。
「もう一杯」
空になった二杯目のジョッキを片手に、テーブル台座に突き出すエルツ。
その頭をスウィフトが心地よい音を立てて引っ叩く。
「でも、あの水球みたいの出された時はびびった」
「水球? ああ、Water Sphere[ウォーター・スフィア]の事ですね。そうですよね、初めて見たときはびっくりしますよね」
スウィフトの呟きにユミルが頷いた。
「あれそういう名前なんだ。何、あれ必殺技かなんか?」
「魔法だよ」
ユミルのその言葉に一同のジョッキを持つ手がぴたりと止まる。
「……魔法?」
「うん、この島ではあまり見ないと思うけど」
エルツは神妙な面持ちで呟く。
「魔法って……あの魔法?」
「あの魔法ってどの魔法だよ。酔っ払ってんのかエルツ」
小気味良いスウィフトのつっこみを受けエルツはそれからも「魔法……魔法?」と物々呟きを繰り返していた。
「皆さんがこれから向う大陸[レクシア]では日常的に見る光景ですけどね。多分皆初めて行ったら驚くと思いますよ」
「[レクシア]か、楽しみだな」
遠い目に憧憬を浮かべるスウィフト。
「あ、ちょっと席外しますね」
そう言ってユミルが立ち上がった。
「何、便所?」とエルツ。
「ちょっと、レディーに対して『何、便所?』ってそれ有り得なくないですか!」
笑いながら抗議するユミル。
「何、便所じゃないの?」
「違いますよ! ちょっと個人的な連絡事項があるから皆の前でPB開くのも何だなぁと思ったから席立っただけです」
エルツは納得したのか再びジョッキに手を掛ける。
ユミルが席を立った後で、エルツは神妙な面持ちで口を開いた。
「皆、もしかしたら自分すごい事に気づいたかもしれない」
「何?」とリンス。
エルツは少し間を置いて静かに口を開く。
「人間の最も、強い欲望って何だと思う?」
「何だよそれ。また下らない事だったら怒るぞ」とスウィフト。
「いや、スウィフト。真面目に聞いて欲しいんだ。なんだと思う?」
エルツの真剣な表情にチョッパーを覗く二人は顔を見合わせ、それぞれ思うところを口にする。
「う〜ん、わかんないけどやっぱ食欲とかじゃない。食べなきゃ生きていけないし」
「睡眠欲もそうかな」とスウィフトに続けてリンスが呟いた。
「他に性欲とかもあるけど、そんなのは無くたって生きていけるもんだしな。やっぱ食欲と睡眠欲は欠かせないもんだし、この二つのどっちかじゃないかな」
二人の答えにエルツは小刻みに首を振り頷いていた。
「確かに、その二つは重要かもしれない。けど、それよりも重要な事があるんじゃないか?」
エルツの言葉にスウィフトとリンスは顔を見合わせる。
二人にとって、それ以外にこの質問に相応しい答えが思いつかなかったからだ。
そんな二人を見てエルツは口元に笑みを浮かべて言った。
「排泄欲だよ」
その答えにスウィフトからエルツの頭目掛けて鋭いつっこみが飛ぶ。
「お前、ここまで引っ張っといて下ネタか。いい加減にしろよ酔っ払い!」
失笑する二人。チョッパーは内容は理解出来ていないようだったが、エルツが頭を叩かれた事が可笑しくて笑っているようだった。
「いや、皆真面目に聞いてくれ。排泄欲ってやっぱ一番この世の中で強いと思うんだよ。だってたとえどんなにお腹空いてても、どんなに眠たくても、たとえ目の前で仲間がメチャメチャ危機だったとしても、人間漏らす寸前までいってたら、我慢出来ないでしょ?」
「いや、ちょっと待てお前。大体それ欲じゃないだろ」
笑いながらエルツを制止しようとするスウィフト。
「折角今日一日、幻想的な光景見て、神秘的なモンスターと熱い戦いを終えて、最高の一日で終わるはずだったのに、何でその締めくくりに下ネタ持ってくるんだよ! 結局何が言いたいんだお前」
失笑に絶えない一同の前でエルツは一言こう呟いた。
「つまりさ、何が言いたいかっていうと、この世界トイレが無いんだよ」
その言葉に、皆の思考が一瞬停止する。
確かにこの世界へ来てから一同は一度も、もよおした事が無かった。食事はしているにも関わらず排泄という行為は愚か、そんな思考さえ過ぎった事は無かったのだ。
「食事をしているのに出るもんが出ない。つまりこれってこの世界では排泄に纏わる概念がきっとカットされてると思うんだよね」
意味不明だったエルツの言葉の一つ一つがここで意味を持ち始める。それは皆にとってまさに盲点だった。
どうだ参ったか、と言わんばかりの表情を浮かべるエルツ。
そんなエルツを見て、スウィフトは一言呟いた。
「でも結局、下ネタじゃない?」
「否定はしない」とエルツ。
テーブル上に再び乾いたつっこみの音が響く。
そして、他愛も無い談笑を楽しんだ冒険者達は、再びその瞳に新たな大陸への憧憬を浮かべる。名も無き小さな島での、旅立ちの試練を受けた今、冒険者達の心は次の大陸へと既に旅立っていた。ユミルから聞いた魔法という存在、そして一同を待ち構えているであろう様々なエリアとそこに蔓延るモンスター達。新たな装備に身を包むのもいい。
旅立ちの日は明日、そこからまた新たな世界が広がるのだ。
新世界への憧憬という最高の酒のツマミを手に、その日もまたいつまでも語り合う冒険者達の姿があった。