S30 別れ、そして旅立ち
肌を刺すような冷たい空気。そんな氷刻の外気は今のエルツにとって都合が良かった。凍てついた自らの心を否が応でも実感出来る。
麻布の旅人装備に身を固めたエルツはそんな冷たい夕暮れの草原を一人琥珀園に向かって歩いていた。
――氷刻か――
日は巡り、刻が過ぎ、そして月が替わり。
このARCADIAの世界に来ていつの間にか、季節は巡っていた。
双華という月は暦から剥がされ、洸玉という月が訪れる。
「双華の氷刻の始めは……そう、青の洞窟でシムルーと戦っていたんだ」
それは大切な仲間との思い出。
スウィフトにチョッパー、そしてそこにはリンスの姿も在った。
――もう二度とあの時には戻れないのだろうか――
そうしてエルツは首を振った。とりあえず今は何も考えるべきでは無い。
今は琥珀園に向う事が先決だ。
――スウィフトは僕に……一体何を伝えようとしているのだろう?――
セントクリス川を北上し、山麓の林へと辿り着いたエルツは、木々の合間を埋め尽くす枯葉を踏みしめながら、その先に存在する花園を目指す。
そこは、三人だけの思い出の場所。スウィフトはもうそこに居るのだろうか?
寂しげに僅かな葉を残した針葉樹の林を抜けると、そこには美しい白い花々が、その変わらない光景でエルツを出迎えてくれた。
そして、その花園の中で一人立ち尽くす人影。
「スウィフト……待たせてごめん」
そのエルツの言葉にスウィフトはゆっくりと振り向いた。
その表情はとても穏やかで、優しい表情だった。
「悪いな……こんなところに呼び寄せて」
「いや、いいんだ。それより話って……?」
エルツの言葉にスウィフトはその優しい表情を浮かべたまま静かに頷いた。
これからスウィフトが何を語ろうとしているのか。この時、エルツの中では何か胸のざわめきのようなものが湧き起こっていた。
「……実はさ」
そう言葉を切り出したスウィフトの次の言葉にエルツはその呼吸を止める。
「このゲームを止めようと思うんだ」
「え?」
スウィフトのその言葉に咄嗟にエルツは今彼が何を言ったのか飲み込めなかった。
そう、スウィフトは今このゲームを辞めると、そう言ったのだ。
――どうして?――
その言葉をエルツは飲み込み、俯いた。
スウィフトがそう思い立った理由にはエルツも心当たりがあったからだ。
彼女の事がもし、その理由となっているのであればエルツには今スウィフトに掛けて上げられる言葉は到底思い当たらなかった。
「ずっと考えてたんだ。彼女が居なくなったこの世界での在り方を」
――この世界での在り方?――
「短い付き合いだったけど……僕には彼女が全てだった」
到底自分には今のスウィフトの心情を理解する事など出来ないだろう。
安易な同情などこの場では何の意味も無い。彼の愛の深さを本当に理解出来る者は彼女だけだった。
「色々考えたんだ。この世界に残る事も」
スウィフトは、そう言ってふっと微笑した。
「僕にとっては彼女の遺言だからさ」
その言葉にエルツの中で想いが込み上げる。あの時、彼女がこの世界から消える間際にスウィフトに残した言葉。
――新しい恋……見つけてね――
最後の最後まで彼女はスウィフトの事を想っていた。
彼女が言う通り、それならこの世界にスウィフトが残る理由はいくらでもある。
「けど、ダメなんだ。この世界に居る限り……僕は彼女の事を忘れる事は出来ない」
断崖の遥か彼方に浮ぶ夕空に遠い目を向けながらスウィフトはそう呟いた。
「だけど……この世界から抜ければ、僕はもう一つの人生を送る事が出来る」
スウィフトの言葉にエルツは咄嗟に顔を上げた。
現実での生活に戻る。それはつまり、スウィフトは彼女の事を全て忘れると、そう言っている。
「それが僕の出した結論なんだ」
スウィフトのその言葉にエルツは何も言えなかった。
――スウィフト……本当にそれでいいのか?――
だが、この世界で彼女との思い出を引き摺り過ごすスウィフトのそんな辛い姿など、何よりリンスも望んで居ないだろう。
この世界に居る限り、二人はお互いの思い出に引き摺られる事になる。
「これは僕らにとって旅立ちなんだ」
スウィフトが告げた「旅立ち」というその言葉が、今の彼の想いを全て語っていた。
そんな彼の言葉にエルツは何も言えず、ただ何度もその言葉を心の中で噛みしめていた。
「エルツ……お前にだけはこの事どうしても話しておきたくてさ」
その言葉に溢れそうな感情を必死に押し殺すエルツ。
また一人、この世界から大切な友人が旅立とうとしている。
――ここは笑顔で見送るところじゃないか――
「皆には上手く……言っておいて欲しいんだ」
エルツの中で言葉が巡る。
そんなエルツに対して、スウィフトはその穏やかな表情を崩さぬまま言葉を続ける。
「色々迷惑掛けたけど、僕からの最後のお願い……聞いてもらっていいかな」
スウィフトのその言葉にエルツは抑えていた涙を振り払うように顔を上げる。
「……勿論」
大切な友人からの最後の願い。
そして、スウィフトは今静かにPBを開きその手を掛けた。スウィフトが今行おうとしているその行為は、以前にも見た事がある。
そう、あれはオルガさんが引退した時。
――『解約』――
エルツの胸の中で騒ぎ立てる様々な言葉。だが、その無数の言葉達は一つとして表に出る事は無い。
――スウィフト、止めないでくれ!――
言葉にならないその想いは、今ここで伝えなければもう二度と彼に伝える手段は無い。
巡り行くその言葉の数々を抱えながら、エルツは必死に自分自身に問い掛けていた。
輝き始めるスウィフトの身体、後戻りする事の出来ないその瞬間はもはや目前に迫っていた。
――ダメだ……ダメなんだ。何か伝えないと。これが最後なのに!――
その時、光の中でスウィフトが静かにその口を開いた。
「エルツ、お前自分の事で色々悩んでるみたいだけどさ」
スウィフトを包む輝きが強まる中、彼は優しい笑みをエルツに向けていた。
「僕から見たエルツって、充分過ぎるくらい魅力的なんだけどな」
――最後だって言うのに何言ってるんだよ――
「小さな事で悩まないでさ。お前はお前の道極めろよ」
優しい笑顔。スウィフトが浮かべたその表情は、次第に光の輝きに飲み込まれてゆく。
そして、光が完全に彼を取り込もうとしたその時だった。
「じゃあな……親友」
光の向こうのその声は震えていた。
その言葉の響きにエルツの中でまた抑え切れない感情の奔流が湧き起こる。
「スウィフト……! 絶対に忘れないから。絶対に僕は忘れないからな」
そのエルツの言葉に光から零れ落ちる僅かな雫。
そして光は空高く舞い上がり、夕空へと消えて行く。
エルツはその光の軌跡を最後までその目に宿していた。
「……忘れないから」
この世界で初めて出来た親友達との別れ。
けど、決して悲しくは無い。今、エルツの胸にはスウィフトが残した言葉が巡っていた。
決してこれはただの悲しい別れなどでは無い。
――そう、これは旅立ちなのだから――