S21 異変
その日、コミュニティルームに現れたリンスはいつものようにただ皆の他愛も無い話に耳を傾けて微笑みを浮かべていた。
その様子はとても自然で、とても彼女がそんな深刻な事実を隠しているようには思えなかった。
――本当に彼女は――
クラインの言葉を頭に浮かべたエルツはそれを振り払うかのようにただ頭を振った。
そんな様子を隣で見ていたドナテロがエルツに向けて口を開く。
「何だお前、大丈夫か?」
「え? いや、はい。大丈夫です」
エルツの言葉に一同が笑いを漏らす。その中にはリンスの微笑みも含まれた。
「何だお前、今更リンスに惚れたのか。遅すぎるんだよお前。あいつはスウィフトのもんなんだからな」
ケヴィンの言葉にドナテロがエルツの肩を掴む。
「いや、略奪愛か。俺は応援する。行けエルツ!」
「行け! って行きませんよ」
そして場には再び微笑みが漏れる。
そこにはいつもの変わらないコミュニティの様子が映し出されていた。
いつものように皆が酒に酔い始めると、リンスは一人席を立った。
「それじゃ、私は今日はこれで失礼します」
「あ、おつかれさまです」
リーベルトが即座にリンスに挨拶すると続けて酔っ払い達が別れを告げ始める。
「こんな夜に女の子だけで夜道は危ないだろ、エルツ送ってけ」
「え? 大丈夫です。ここからB&Bまですぐですし」
リンスの言葉にドナテロはブランデーグラスを口にしながら首を横に振る。
「リンスちゃん、これはこいつにとっても重要な時期なんだ。頼む、一緒に帰って上げてくれ」
ドナテロの言葉にリンスが当惑する中、エルツはすかさず立ち上がった。
「送るよリンス、ドナテロさん達の言う事は気にしないで」
エルツのその眼差しにリンスは何かを感じ取ったのか優しい笑みを浮かべた。
「それじゃあ、お願いします」
ソファーからはケヴィンが「ヒューヒュー」と茶化す声が聞こえてきたが、エルツにはもはやどうでもいい事だった。
今はとにかくリンスに対して何が出来るのか、その事だけを必死に頭に巡らせていた。
コミュニティセンターを出た二人は煌びやかな電飾の施された夜の広場を歩きながら笑みを交わす。
「本当に良かったのにエルツくん。ありがと」
「いや、いいんだ。最近物騒だし、このくらいは」
エルツはただ口から出る空気のような言葉を吐きながら、必死に彼女への切り出し方を考えていた。
広場の外周にそって歩き、繁華街通りの入り口前を通り過ぎるとふとエルツは彼女と並んで歩いていたその歩みを止めた。
「あのさ、リンス」
「ん、なに?」
振り返ったリンスは今までとどことも変わり無く優しい表情をエルツに向けていた。
いつもと変わり無いその様子だからこそ、尚更エルツは彼女に掛ける言葉が見当たらなかった。
「最近さ、何か変わった事無い?」
「最近? う〜ん、ないけど。どうして?」
エルツはリンスの返答にただ笑顔を返す。
「そうか、そうだよね。何か変な質問してるな自分」
「変なの、エルツくん」
そう言って笑みを浮かべるリンス。二人は静かに再び歩み始める。
――聞けない……聞けないだろこんなの――
エルツはただ黙ってB&Bへと向かってその歩を進める。
一体どんな顔をしてこんな状況で彼女の身の上の話をする事が出来るのか。
仮に真実だったとして。必死に隠してる彼女を問い詰めるというのか?
――出来るわけない――
エルツがふと顔を上げたその時だった。
何やら背後では人のざわめきが聞こえてきた。同時に隣に居た筈のリンスの気配が消えていた。
「女の子が倒れたぞ!」
――女の子が倒れた?――
慌てて振り向いたエルツは一目散に人込みを掻き分け倒れている人影に向かって走り寄る。
「リンス!」
リンスは俯き、焦点の合わない虚ろな視線で息を切らしながら、しっかりとその左胸を抑えていた。
「リンス……待ってろ今GM呼ぶからな」
その言葉に、リンスのか細い手がエルツの袖を掴む。
虚ろなその視線の訴え掛けにエルツは何故リンスがこの世界へ今やって来ているのか。
その理由を思い出した。
――現実で七時間でも、この世界ならば七日間生きられる――
もし、ここでGMを呼んだら。そこで彼女は現実へと戻される事は間違いない。
このARCADIAという世界にとっても、ゲーム中にもし死傷者を出したとなったら、それは責任問題になる。
「おい、誰かGM呼べ早く!」
「待って下さい!」
咄嗟にエルツはそう叫んでいた。
「GMは呼ばないで下さい! ただの貧血なんだ。これからB&Bへ連れて行きますから。行こうリンス。ほら、しっかり肩に掴まって」
そうして、周囲の視線を撥ね退けエルツはリンスを負ぶってB&Bへと入ると、そのまま自らのマイルームへと彼女を連れて行き、ベッドに寝かせた。
自分が今何をしているかは分かっている。これで、もしリンスが死ねばその責任は自分にも降りかかってくるかもしれない。
だけど、理屈じゃない。彼女のためにあの時、何をして上げれば良かったのか、その答えは今考えたって出やしない。
ベッドの上で静かに目を開いたリンスは、エルツに向かって呟いた。
「ありがとう、エルツ君。私……貧血で倒れちゃったみたい」
「貧血であんな倒れ方しないよ……リンス、隠さないで本当の事話してくれ」
エルツの真剣な眼差しに、リンスは全てを隠し切れないと悟ったのだろうか。
彼女はベッドの上で静かにその全てを語り始めた。
彼女の容態も、彼女の想いも。そして……ここへ来た理由も。