【エピソード】墓参り
夕暮れの空の下に広がる霊園。幾つもの墓石が立ち並ぶ合間を縫う様に敷き詰められた石畳の小道を進んだ一角でその青年は佇んでいた。
僅かに空から降り注ぐ明りを受けて、その冷たい輝きを返す墓石の前でまだ年の若い墓守はただ静かに祈りを捧げていた。
「今日も収穫無しだった……こんなにふわついてちゃ心配だよねきっと。どんな顔して僕を見てくれてるのかな。なるべく心配は掛けないように生きて行きたいんだけど、なかなか世の中厳しいよ」
そう言って微笑みかける青年に墓石は何も語らない。
青年がこの墓石の墓守となったのはつい先月の事だった。両親が離婚してからまもなく母親が逝去した。一人娘だった母は逝去後、祖父方の墓に埋葬する事になった。祖父と祖母は既に亡くなっている為、一人娘だった母方の墓守は存在しない。つまり無縁仏となってしまう。ならば青年が墓守になるか。だが事態はそう簡単には運ばない。問題は青年もまた一人っ子だったのである。一般的な流れからすれば、青年は父方の墓守となるべきだった。だが、青年はそれを受け入れなかった。
両親が離婚してから母親が抱えた苦しみを青年はその傍でずっと目にしてきた。父親に捨てられた母親のその苦しみは想像を絶するものだっただろう。それでも、母親は父親に対して何一つ責句は愚か、愚痴すら零さなかった。母親はただ毎日、あなたの思う人生を一生懸命に生きなさい、とそう青年に言葉を掛け続けてくれた。日に日に痩せ衰えていく母親を見ながらも、行き所のない将来の不安を抱えながら青年は最後の母親の姿を見送る事になる。
母親の逝去後、青年の中に残った感情と言えば、言い様のない深い悲しみと、そして父親に対する激しい憎悪の感情だった。何故あいつは母さんを捨てたのか、あいつは母さんを見殺しにした、青年が抱えたそんな感情が、父方の墓守を拒否した青年の意志へと繋がったのだろう。
幸いな事に、父には妹が居た。妹の家庭には息子が二人。青年が墓守を拒否したところで、代わりの墓守は存在するのだ。心情的には父親にも、母が味わった絶望と孤独感を味あわせてやりたいという気持ちはあったが、故人に対して復讐心を募らせたところでそこには空しさしか存在しない。何より母はそんな事を決して望まないだろうと、青年は自分に必至に言い聞かせていた。
「少し風が出てきたな。それじゃ、僕はそろそろ行くよ」
肌を撫で過ぎる冷ややかな空気に青年はふと顔を上げて辺りを見渡し墓石に再び向き直る。
自分の向かう先が定まらない今、青年が抱えている靄は深かった。現実から必至に逃げようと、母がもし今の自分を見守ってくれていたならば決して笑顔は見せてくれないだろう。抱える深い闇から必至に逃げようと、理想世界へと走る青年の姿、母の瞳には逃げと映るかもしれない。
だが、青年は今たった一人で生きているのだ。誰かに相談すればいい。そう思うかもしれない。だが、実際にその状況に立たされた時、青年は誰にも相談する事が出来なかった。むしろ親しい友人とも今置かれている状況から、距離感を感じてしまい逆に自らを彼らから遠ざけた。それが現実だ。結局は、自分を理解出来るものは自分しかいない。その自分さえ、自分自身を見失っている今、青年はただ流れるままに生きる事しか出来なかった。
「また来るよ……母さん」
そうして青年は墓石に背を向ける。
夕暮れの霊園から消え行く小さなその背中には、誰にも話す事の無い青年の想いが込められていた。