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どこか遠くのほうから、自分の名前が呼ばれているような気がした。
肩を揺さぶられていることに気付いて、ようやく目が覚めた。しかし、瞼を動かしてみても、暗闇の中に取り残されている。
顔全体にかかる圧迫感。紙とインクの匂い。こそばゆい肌触り。
これは……。
顔にのしかかっているそれを手で払うと、ようやく視界が明るくなった。とは言え、すっかり暗闇に慣れた眼球は、侵入してきた光に対応することができず、全ての輪郭がぼやけた状態だった。
何度も目を瞬かせると、ようやくピントが合い始める。そこで俺の傍に立っているのが英介だと認識できた。
視線を落とすと、床に本が落ちていた。俺が読もうとしていた、例の推理小説だ。落ちた拍子に帯がずれて、皺になってしまっている。
やはり、読んでいる最中にそのまま眠りに就いてしまったようだ。
「やっと起きたか、もう夕食の時間だぞ」
「もう夕食?」
それで窓から外を見てみると、陽はすっかり落ちて、完全に暗くなっている。ガラスに反射した自分の顔を見てみると、寝癖で頭が爆発していた。
「電話しても出ないから、呼びに来てやったんだよ。もうみんな集まってるんだからな。早く来いよ」
英介に引っ張られるようにして、ベッドから身体を起こされ、寝癖を直す間もなくメインのコテージに連れていかれた。だが、無理矢理歩かされたのは、寝ぼけ頭にはいい刺激になった。
夜になったとはいえ、暑さや湿気は留まることを知らない。ねっとりと纏わりつくような温い空気に、顔を顰めずにはいられなかった。
英介に連れられ、俺は夕方に見た、コテージの広いダイニングに通された。
既にロングテーブルは色鮮やかな料理の数々で装飾されていて、俺と英介とお手伝いの二人以外の全員が席に着き、食事にありついていた。
「わっ、なんだその頭」
俺たち二人に気付いた瀬堂が、俺の寝癖の酷さに目を見張る。それで一同の視線を集めてしまい、気恥ずかしくなって頭を掻いた。
「ったく、遅えから先に食っちまったぞ」
夕月がチキンの刺さったフォークを軽く持ち上げて示す。
「ああ、いいよいいよ。構わないで。こいつが悪いんだから」
英介は俺の肩を小突いた。確かに寝坊した俺が悪いのだが、嫌味ったらしい口調で言われたものだから、つい売り言葉に買い言葉になってしまった。
「はいはい。俺が悪うございました。どーもすみません」
丁度そこへ、飲み物を運んできた凛と不入斗がダイニングに入ってきた。俺と英介の姿を認めると、
「あっ、槻さん、すみませんでした。呼びに行かせてしまって」
「いえいえ、全然大丈夫ですよ」
英介は凛に人のよさそうな笑みを浮かべて、
「悪いのはこいつなんですから」
と、また俺をなじる。
「うっせえよ」
二度も謝るのは癪だったので、今度はそっぽを向いてやった。
そのやりとりを見ながら、凛はくすくすと笑って、
「まあまあ、お二人もどうぞ召し上がってください。席はこちらになります」
二人に席に座らせてもらって、ようやく俺も夕食を前にすることができた。
目の前の皿の上には、メインディッシュとなるチキンステーキが盛られていた。きつね色に焼けた皮に、ガーリックの香りの効いたソースがかかっている。そして、チキンの脇には彩りを加えるための緑黄色野菜とマッシュドポテト。その他にも、テーブルの真ん中のほうには、サンドウィッチやフライドポテト、ピザや野菜スティックと言った、取り分けられる料理が並べられていた。
あの二人はかなり料理の腕が立つようだ。どれもこれも旨そうな匂いを醸し出していて、それが胃袋を刺激する。車酔いや胸のむかつきもすっかり治って、腹の虫が鳴っていた俺は、ついつい食べ過ぎてしまった。
食事があらかた済んで、俺たちは凛と不入斗を交えて会話に花を咲かせていた。
凛と不入斗が別々ながらも、東京の大学に通っているという事から、自然と話題は大学の事に移っていた。
夕月が瀬堂を指さして、グラスに注がれたワインを一口飲んで言った。
「そうそう、こいつは元々国立の芸大志望だったんだけど、落ちて結局俺たちと同じ大学に来たってわけ」
「瀬堂さんは、絵がお上手なんですか?」
凛が尋ねると、瀬堂は顔の前で手を振る。
「いや、確かに絵もそうだけど、俺は色々と幅広くやってたよ。彫刻とか、デザインとか。まあ、今は少しでも学費を稼がないといけないから、やってる余裕もあんまりないんだけどね」
天司が瀬堂の肩に腕を回し、ほんのり赤くなった顔で昔を顧みながら、調子良さそうにへらへらと笑う。
「俺たちは高校の時から一緒だったけど、その時から美術の時間は目立ってたもんな」
「それでも落ちちまうんだから、上には上がいるってもんだよなあ」
という夕月の言葉に、瀬堂は軽く微笑を浮かべて、グラスの中の水を感傷的な目でぼうっと眺めた。
「ああ、本当にね」
場が少しばかりしんみりした空気になってしまったのを察して、凛が話題を逸らした。
「そういえば、皆さんはテニスサークルなんですよね? お上手なんですか?」
それを聞いて、英介が吹き出した。
「いやいや、テニスは全然だよ。このサークルは殆ど飲みサーみたいなもんだからね。上手いのはあの二人くらいで、他はもう、てんでダメ」
英介が乃亜と八逆を示す。
彼が言うように、二人はこのサークルでは珍しく、テニスが上手い。なんでも、中学の時にやっていたことがあるのだそうだ。わざわざこのサークルを選んだのが不思議なくらいだ。他にもっとまともなテニスサークルなど、ごまんとあるというのに。
「確か、兼人もテニスサークルだったよね?」
そこで思い出したように、凛が不入斗のほうに向き直った。
「あ、ああ、そうだよ」
唐突に話を振られて、不入斗は吃っている。
テーブルに乗り出すようにして、乃亜が興味津々に尋ねた。
「えっ、不入斗さん、テニスやるんですか?」
「こう見えて意外に小学校からずっとやってて、大きな大会にも出たことあるんですよ」
得意気にそう言ったのは、不入斗ではなく凛だった。
しかし、不入斗は不服そうに拗ねている。
「うっせえよ。意外って言うなよ、意外って」
「だって、そうじゃない」
凛の言う通り、俺もまた不入斗がテニスが上手であることを聞いて、意外に思った。失礼ながら、見た目にはイモ臭い学生といった風情の彼が、きびきびとした動きでテニスをやる姿を想像できなかったのである。
「じゃあせっかくだし、明日私たちと一緒にテニスやりませんか?」
危うく二人が口論になりそうなところを、良いタイミングで乃亜が割って入った。
「えっ?」
瞬間、八逆と不入斗は眉をひそめた。
不入斗は少し口籠りながら、
「あ……いや、遠慮しておきますよ。お手伝いとしてやらなきゃいけないことは沢山あるんで」
と、丁重に断っていた。
やはり、ここで出会う以前に、この二人の間に何かあったに違いない。
俺はそれがなんとなく気に懸かったので、後でそれとなく訊いてみようと考えていた。
いつまでもダイニングで喋っていると、凛と不入斗がいつまで経っても片付けられず、食事も摂れないというので、俺たちは一旦部屋を出た。とは言え、このままコテージに引き返してしまっても、この電波も届かない山中では、暇の潰しようがない。外にはテニスコートとゴルフコースがあるが、流石にナイターの設備までは整っておらず、この暗さでやっても話にならないだろう。
そこで俺たちは、夕方にちらりと見た遊戯室に入って、そこでだらだらと時間を過ごすことになった。
凛と不入斗は俺たちの食事の後片付けのついでに、遅めの夕食を摂るため、キッチンへと向かった。
瀬堂と夕月と天司はダーツを始め、すっかり酔いが回った乃亜は、嫌がる八逆を誘ってカラオケを始めた。英介も俺を誘い、二人の中に入っていこうとしたが、全力で断った。
乃亜の次に英介が歌い、八逆の番が回ってきたが、いざそうなると八逆は壮絶に拒否を始めた。
そんな八逆に無理矢理マイクを持たせる乃亜。逃げられないと悟り、仕方なく歌い始めた八逆は調子はずれな歌声を披露して、場を爆笑の渦に巻き込んでいたが、当の本人は顔を真っ赤にしつつも、こうなったらもう知ったことかと、半ばやけっぱちになりながら歌っていた。
俺はソファで一人本を読みつつ、それを横目で見て心底断ってよかったとホッとした。
俺もまた八逆と同様に、いやもしかしたら彼以上に、音痴なのである。
食事を終えた凛たちが合流して俺たちの中に加わり、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎの中、夜は更けていった。
日付が変わる頃、誰とはなしにそろそろ解散する話が持ち上がり、ようやくメインのコテージにも静けさが戻ってきた。
俺もまた、ほろ酔い気分で自分のコテージに戻り、またベッドの上に収まることとなった。夕食の前まで寝ていたから、もしかしたら今日は徹夜かもしれないと危惧していたが、それは杞憂に過ぎず、横になって間もなく夢の中に誘われていったのであった。
こうして、夏合宿と称した旅行の初日は、最初のうちこそ前途多難の様相を呈していたものの何事もなく終わり、二日目の朝を迎えようとしていた。