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さらに山道をひた走ること一時間弱。
やっとバスが動きを止めた。森の中にこじんまりと作られた停車場に到着したようだった。しかし、別荘のようなものの姿は確認できない。ただただ自然あるのみ。
「こっからは歩きだから、みんな荷物持って降りてくれ」
英介がシートベルトを外しながら、振り向いた。
「歩きだって? 一体いつになったら着くんだよ。ここからまた一時間も二時間も歩くとか言うんじゃねえだろうな?」
不機嫌そうに苛ついている天司は舌打ちをした。
しかし、英介はちっとも気にせずに、フロントガラスを指差した。
「なに、そこの橋を渡ればすぐそこさ」
ガラス越しにロープと丸太で作られた吊り橋が見える。
「他にルートはないのか?」
青褪めた顔をどうにか持ち上げて、英介に訊いたのだが、彼は首を振った。
「悪いけど、別荘に行くにはこの吊り橋を渡るしかないんだ」
荷物を持って車から降りると、流石に山の中とは言え、強烈に射し込む日差しとその熱に、せっかく治りかけていた体調がまた悪化してしまった。五月蝿いセミの鳴き声や、生い茂る草の青臭さもその一因を担っているに違いない。
九月に入ったというのにこの残暑。陽はもう傾き始めているが、二、三歩歩いただけで脂汗が全身の汗腺から滲み出た。込み上げてくる酸い胃液を必死で飲み込みながら、重い身体を引きずるような足取りで木陰に入り込むと、木の幹に身体を預けた。
泰然自若とした大地の上に立っていると、不思議と安心感が込み上げてきた。気持ちも楽になる。
ふうと息を吐くと、少し身体が軽くなったように感じた。
「この車は?」
天司が黒い軽自動車を指さして、英介の方を見た。
軽自動車と言っても、タイヤは普通のよりも大きいし、見た目もごつい。あの山道を通って来れるのだから、四輪駆動のものだろう。
「ああ、それはさっき言ってたお手伝いさんのだよ」
自分で訊いておきながら、ちゃんと聞いているのかいないのか判然としない、気の抜けた相槌を打ちながら、天司はその車を眺めていた。
その時、
「手伝いましょうか?」
と声が聞こえて、今度はその音源に目を向けると、マイクロバスからクーラーボックスを下ろそうとしていた瀬堂に、八逆と乃亜が近付いているところだった。
「ああ、悪い。頼むよ」
バスの後ろに積まれていた大きめのクーラーボックスは、全部で五つはあった。参加者は七人もいるのに加え、三泊四日はこの山の中だ。わざわざ何度も買い出しに行くのも大変だろうという事で、これだけの量のものを持ってきたのだろう。
乃亜はそのうちの一つを開けて、中を覗き込むと、目を輝かせて歓喜の声を上げた。
「うわあ、アイスですね! 一つ貰ってもいいですか」
彼女がボックスから取り出したのは、高級路線で打ち出しているブランドのカップアイスであった。
どうやら男勝りな彼女も、甘い物には目がないようだ。
「いいけど、向こうに着いてからね」
瀬堂が蓋を閉めて、乃亜の視線を遮ると、彼女は「ええ〜」と恨めしそうに瀬堂を見返していた。
その瀬堂は、大して気にもせずに、ボックスの一つを八逆に手渡した。受け取った八逆は、予想外の重さに顔を顰めた。
「重っ……」
「だらしないわね、あんた」
それとは対照的に、乃亜の方は平然とした様子で、二つのクーラーボックスを肩に提げても軽い足取りだ。
それに負けじと、八逆もふらふらしながらも彼女に付いていく。
ひいこら言いながら橋を渡るその八逆の後ろに付いて、俺も橋に足を乗せた。八人が同時に乗ったところで、吊り橋はびくともしない。風が吹いても少し揺れるだけだ。これ一本しかない別荘への道ゆえ、頑丈な造りになっているのだろう。
しかし、体調の悪さに立ち止まり、思わず下を見てしまった。
かなりの高さだ。
落ちたらひとたまりもないであろうその高さに、また目眩がしてきた。谷底は遥か眼下に潜んでいて、殆ど直角の切り立った険しい崖に挟まれている。底の方には、急流が流れていて、水が岩に衝突し砕け散る音が、ここにまではっきりと聞こえてきている。ロープや木の板でできたこの橋が、途端に心細くなって、俺は身震いした。知らず知らずに、足が竦んでいた。
「なんだ、ビビったのか?」
既に渡り終わっていた天司がその様子を見て、唇を吊り上げ嘲笑する。
その口調にむかむかして、
「こんなんでビビるわけ無いだろ」
と強がりながら、必死で吐き気を堪えて、歩を進めた。
ようやっと吊り橋を渡りきり、また未舗装の山道を少しばかり歩くと、唐突に視界が開けた。
「ここが俺の別荘だよ!」
先導していた英介が振り返って、掌で見せびらかすように示した。
俺たちの前に立ちはだかるように聳える大木の傍に、丸太で作られたテーブルと椅子。その向こうに、彼が示した別荘が建っている。
皆、彼の身体越しにその別荘を見て、嘆息を吐いた。これまでの旅路の疲れなど、吹き飛ぶ様な壮麗な光景だった。
長年放っておいたと言うから、どんなおんぼろ別荘かと想像を巡らせていたのだが、予想を遥かに超える大きなコテージが、そこにはあったのだ。外観は異国情緒漂う立派なログハウスで、壁には檜皮色の丸太が連なり、屋根は臙脂に染め上げられ、石積みの煙突が突き出ている。向かって正面には壁一面に嵌めこまれた大きな窓ガラスがあり、中の様子が窺える。その窓からデッキが伸びていた。
これだけでも相当なものだが、さらにこれを少しばかり小さくしたようなコテージが何棟か見える。奥の方にはテニスコートやパターゴルフのコース。さらにその向こうには、澄んだ水が周囲の山々を逆さに映し出す、穏やかな湖面が広がっていた。
個人の別荘というよりも、まるでリゾート施設のキャンプ場さながらの規模と設備だ。
英介はほったらかしの別荘だと言っていたが、見たところ蜘蛛の巣が張っていたり、木材が朽ちてしまっている様子もない。あれは方便で、実際には年に何度かのメンテナンスくらいはしているのだろう。さっきの八逆の心配も、ただの杞憂に過ぎなかったようだ。
ようやくほっと一息吐くことが出来そうだった。