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トーンの高い叫び声。女性の発したものだ。
山の中に轟いた、鳥の断末魔のようなその声は、俺たちを一瞬で非日常の世界へと引き剥がした。
「あれ、初刈の声か?」
気付いた瀬堂は、一体何事かと怯えている。
「キャンプファイヤーの方からじゃないか? 何かあったんだろう。行ってみよう」
俺は慌てて、声のしたほうに駆け出していた。
気の強い乃亜が悲鳴を上げることなど、普段ならまずない。もしもあの悲鳴が、本当に彼女のものだったとしたら、何かしら尋常ならざる自体が起こっているに違いなかった。
走っている最中、突如として不安に駆られた。しかし、他のみんなもそれは同じようだった。一様に顔を強張らせている。
だが――。
キャンプファイヤーの許へと駆けつけた時には、その顔からさらに血の気が失せ、完全に蒼白になってしまうことになる。
そこは――、まさに地獄絵図であった。
焚き火の揺らめく不安定な明かりに照らされた木のテーブルに、歪んだバスケットボールのようなものがごろりと転がっている。今度のそれは、鳥の死体などではない。
明らかに人間の頭部である。
そしてそれが、今まで姿をくらませていた、天司徹の頭部であると認識するのに、それほどの時間はかからなかった。
見開かれ、血走った両眼。苦悶に歪む眉。だらりと舌を垂らした口。重力に逆らえずに、下に向かって垂れた頬の筋肉で、まるで別人のような表情に変貌しているものの、見覚えのある派手な金髪に耳のピアス。これは間違いなく、天司である。
不気味なほどの静けさの中に、ぽたりぽたりと雫が垂れる音。赤く染まった雫がテーブルから垂れているのだ。恐らくはそれが、彼の頸動脈から溢れ出た血液であろう。
更に視点を移してみると、残りのパーツもすぐに見つかった。
焚き火の傍らに胸部、腰部、両手足。すべてがバラバラに切断されていたのである。天司の服を纏ったそれらは、まるでごみの様に、無造作に投げ出されていた。ぐちゃぐちゃの切断面。筋肉の繊維や、骨や脂や皮。身近に存在しているものであるが、普段直接目にすることのないそれらが、俺たちの精神を抉り取る。
生温かい風に乗ってツンとした鉄の臭いと、肉の生臭さが鼻腔を刺激した。その刺激は、さらに食道から胃へと移動し、内容物を押し上げようとする。胃液が逆流してきた。俺はすんでのところでそれを押さえて、再び飲み込んだ。口いっぱいに酸い味が染みわたり、また吐き気。その繰り返しである。
英介や瀬堂も口元を押さえて、込み上げてくる吐き気を抑えている。
しかし、それができなかった八逆は大木の幹に手をついて、食べたものを全て戻してしまっていた。
凛などは、ショックで膝からくずおれた。発見者の乃亜が、その彼女を気丈にも支えようとしている。
「これは……一体……」
全身の力を振り絞って発した声は、たったそれだけだった。
しかし、一度声を出せると、金縛りから解かれたように、喉が自分の意思で動いてくれると感じられる。
お陰で少し冷静になることができて、周りをよく見ることができた。
紙皿や割り箸などを纏めたゴミ袋が破けて、中身が散乱している。クーラーボックスもいくつかひっくり返っていた。保冷剤や解けた氷がぶちまけられている。テーブルに置いておいた飲みかけのペットボトルは、どれもこれも横倒しになっていた。バーベキューグリルも倒れていて、支柱が歪んでしまっている。
まるで動物が暴れまわったように、荒らされていたのだ。
「と、とにかく、一旦コテージに戻ろう。それから、それから……」
英介はすっかり動転して、呂律の回らない舌でぶつぶつと言っているが、誰の耳にも届いていない。皆、どうにかして平常心を取り戻そうと必死になっているのだ。
「まず警察を呼ぼう。話はそれからだ」
俺はきっぱりとそう言い放った。警察という言葉に、ぴくりと瀬堂や八逆が反応する。
「け、警察……。でも……」
「仕方ないだろ。どう見てもこれは殺人だ。この場はこのままで、一旦全員でコテージに戻ろう。夕月も呼んできたほうがいいな」
「じゃ、じゃあ、私が……」
まだ貧血気味なのか、ふらふらした足取りの凛が言い出した。
「いや、無理をしなくても……」
「大丈夫です。何かしていたほうが、気が休まります」
彼女は聞く耳を持たず、そのまま一人で夕月のコテージに向かおうとしたが、流石にそれでは危険なので、英介に一緒についていってもらうことにした。
残った俺たちは、一足先にメインのコテージへと戻り、警察に電話をかけつつ、英介たち三人を待つことになった。
「ど、どうしてこんなことに……」
震える唇を動かしたのは八逆だ。嘔吐したせいもあってか、乃亜や瀬堂よりもよっぽど顔色が悪いように見える。もともと、神経質でグロテスクなものが苦手なせいもあるのだろう。青さを通り越して真っ白だ。半袖から伸びた腕には鳥肌も立っている。全身から血が抜けてしまったようだった。
「ま、まさか、例のバラバラ殺人の犯人が、本当にこの近くに潜んでるんじゃあ……」
吃りながら、青ざめた顔で呟く八逆。
それを聞いて、乃亜や瀬堂もギクリとしていた。あのおぞましい死体を見るまでは、余りにも荒唐無稽な話に聞こえただろうが、この状況ではとても、そんなバカなと一笑に付すこともできなかった。むしろ、今はそう考えるほうが至極自然とも言える。
「兎に角今は、誰がやったかよりも、警察に知らせるのが先だ」
俺は何とか、動揺している三人を落ち着かせようとした。
コテージまでの道のりが、そのたった数分の距離が、とても長く感じられた。頭の中では、いろいろな考えが止めどなく湧き上がり、渦巻いていたからだ。本当に逃走中の頭のイカれた殺人鬼がやったのか。だとしたら、早く逃げるべきではないのか。それとも俺たちの中に犯人がいるのか。だとしたら、それは誰なのか。まさか伝説の中の契鬼が、現代に姿を現したのではないか。そして天司のみならず、俺たちを一人ひとり――。
ありもしない妄想や雑念に惑わされ、まるで状況を整理することができなかった。
とにもかくにも、警察に電話しなければ。話はそれからだ。
コテージに着いた俺は、一目散にリビングの電話に手をかけた。落ち着いているつもりだったが、手が震えていて、何度か押し間違いそうになった。それでもなんとか110をプッシュした。
しかし――。
いくら待てども、受話器からはうんともすんとも音が聞こえてこない。何度掛けても、どこに掛けても、結果は同じだった。
繋がらない。それどころか、コール音さえしないのだ。
他のコテージに繋がる内線はまだ生きているようだが、外部に繋がらないのでは意味がない。
やられた。
これは、恐らく外線の電話線を切られたのだろう。天司を殺した犯人の仕業か。
苛立ちを抑えきれずに、乱暴に受話器を投げつけた。
「くそっ。ダメだ、繋がらない!」
「そ、そんな……」
愕然とする乃亜。脱力した彼女は、ソファに倒れ込むように腰を下ろした。
信じられないと言わんばかりの瀬堂が、受話器を手に取り、自分の耳で確かめた。しかし、彼がやっても結果が変わるわけではない。顔が余計に絶望の色に染まっただけだった。
その後すぐに英介たちがコテージに入ってきた。
「どうだった、警察は? なんて言ってた? どのくらいで来るって?」
矢継ぎ早に訊いてくる英介に、俺は肩を落として、ただただ首を振るしかなかった。そして、その意味を悟った英介もまた電話機に駆け寄り、自分でそれを確認した。
凛の方は、相変わらず不安に押し潰されそうな顔色をしているが、先程よりは少し落ち着いているようだった。
ここへ来る途中、あの惨状を目の当たりにしたのだろう。流石の夕月も、顔が強張っていた。
無理もない。
バラバラ死体はおろか、普通の人間の死体だって直接見たことのない、ただの大学生だ。耐性なんてあるわけがないのだから。
不幸にも何度か事件に遭遇したことのある俺だって、あんな酷い損壊を見たのは初めてだ。未だに、脳はショックを受けている。
「どうすればいいんだ……」
受話器を元に戻し、英介は頭を抱えた。