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午後七時半きっかりにコテージに電話が掛かってきた。
濡れた髪の上にタオルを乗せたまま、ソファでだらりとしていた俺は、連絡が来ることをすっかり忘れていて、ひっくり返りそうになりながら、受話器を取った。
聞こえてきたのは、はきはきとした凛の声だ。
また一旦メインコテージに集まってほしいとのことである。
それで慌てて髪の水気を拭い取ってやって来ると、天司と不入斗を除く全員が既に揃っていた。
不入斗は買い出しに出ているのだからわかるが、天司はまだどこかをほっつき歩いているのか。いくらマイペースとはいえ、これでは流石に呆れる他ない。かと言って、もしこの場にいたとしても、他人に迷惑をかけるようなことしかしないだろうが。
しかし、あの単細胞が夕食の時分になっても現れないとは、些か引っかかるところではあった。
「天司は?」
と、形式的に尋ねてみると、凛が怪訝そうに答えた。
「それが……、電話に出なかったので、コテージの方へ行ってみたんですが、もぬけの殻でして……」
「もういいっすよ。ほっときましょう。どうせヤニでもハッパでも吸ってるんだ。ガキじゃあるまいし、腹が減りゃあ勝手になんか漁って食べるさ。あいつに手を煩わす必要なんかない。もしひょっこり出てきたら、今回ばかりはきつくお灸を据えたほうが良さそうだけどな」
夕月も怒り心頭のようで、険しい顔つきで天司への悪態を並べ連ねている。しかし、最後の一言を発した時は、口元をにやりと歪めていた。心の中の言葉が、ふっと口から漏れてしまったようだった。見てはいけない、彼の醜く歪んだ内側を見てしまったような気がして、薄ら寒さを感じた。
「食材や道具を運ぶ必要があるんですが、今は私一人しかいないので、皆さんに手伝って貰えると助かるんですけど……」
凛がそう願い出ると、瀬堂が動き出した。
「じゃあ、俺は食料を運ぶよ」
「俺も手伝うよ」
「じゃあ私も」
英介と乃亜も彼を追いかけようとする。
残った俺たちは何をしたらいいのかわからず、手持無沙汰に取り敢えずついていくと、英介がこっちを振り返った。
「こっちは四人で大丈夫だから、そっちはバーベキューグリルとガス、持ってきて。外の物置にあるはずだから」
そういうわけで、結局残りの全員でメインのコテージに戻り、食料やら道具やらの調達をすることになった。
物置から俺と八逆とで、大きなグリルをひいこら言いながら、ふらふらした危うい足取りでどうにか運び出した。夕月はと言うと、重労働はちゃっかり避けて、ガスボンベを両手に持っているだけだった。それに気付いて、八逆も何か言いたげに彼を横目で見ていた。
グリルを櫓の傍に運び込んで、痛めた腰を慰めるように伸びをする。夕方の丸太運びもあって、疲労の蓄積していた二の腕を震わせて、筋肉の硬直を少しでも和らげようとした。
その時だった――。
「ひえっ」
八逆が短い悲鳴を上げた。
「どうした?」
と彼に駆け寄ってみると、八逆は木のテーブルの上を眺め、わなわなと身体を震わせている。口もまともに利けないようなので、一体何事かと肩越しに覗き込んでみると、さっき見たときにはなかったはずの物体が、そこに転がっていた。
首が胴体から引き離されているばかりか、手足も無残に切断されている。苦悶に歪んだ顔は白目を剥いていて、口からだらりと真っ赤な舌が垂れていた。周りには、黒い鳥の羽が散らばっている。しかし、思いの外、血は流れていない。
どう見ても、何者かの手による惨殺死体に違いない。どこか別の場所で殺したのを、ここへ運んできたのだろう。
「い、一体誰がこんなことを……」
「おい、何かあったのか?」
俺たちがその死体を半ば呆然と見つめていると、異変を察知した夕月が近寄ってきた。
「うわ、マジかよ」
夕月はテーブルの上に転がった、その死体の胴体を指先でつまみ上げた。
とそこへ、クーラーボックスを担いだ四人がメインコテージからやってきた。
「おい、そんなところで突っ立って、何してるんだ? 暇なら――」
英介も近寄ってきて、何か言おうとしていたが、途中で口の動きが止まってしまった。
夕月の持っているそれに気付いてしまったからだ。
「きゃっ、な、何ですか、それ」
凛も気付いて小さく悲鳴を上げる。
「見ればわかるだろ、カラスの死体だよ」
死体をつまんでいる夕月の顔は、冷ややかなものだった。
それとは対照的に、瀬堂のほうはすっかり怯えてしまっている。
「なんでそんなものがここに……」
「や、野生動物の仕業でしょうか?」
俺はカラスの死体を注意深く見て、凛の考えを否定した。
「いや、この切り口は多分、人間のものだと思うけどね」
「に、人間って……一体誰が?」
乃亜が眉を顰めた。その人物への嫌悪感や恐れを目の奥に宿している。
「こんな事をやりそうなのは、一人しかいないだろ」
カラスの死体をテーブルの上からどかしながら、夕月がボソリと言った。
「え?」
「天司だよ。あいつがやったに違いない。どうせ、俺たちを脅かして、どっかで隠れてその反応を見て笑ってんだ」
夕月は軽く掘った土の中に死体を埋めた。
「あのクソ野郎ならおふざけでこれくらいやるよ」
すっかり食欲を削がれてしまい、しんと静まり返った雰囲気を切り替えるように、英介がポンと大きく手を打った。
「まあ、あんまりテーブルが汚れてなくてよかった。取り敢えず、俺はここを綺麗にするから、凛さんは食器とか持ってきてくれないかな?」
「あ、はい。わかりました」
「俺もついていきますよ」
凛と二人になれるチャンスだったので名乗り出た。
しかし櫓から十分距離が離れたのを見るや、意外にも凛のほうから先に切り出してきた。
「ちょっと、不躾な質問なんですけど、さっきの事と言い、皆さん、あまり仲が良くないようにお見受けしたのですが……。どうしてこの旅行に?」
「他の人は知らないけど、俺は英介に頼まれて仕方なくって感じかな。皆の仲が悪いって言うよりは、基本的にはあの二人――天司と夕月が和を乱しているんですよ。わがままというか自己中というか。正直、俺はあの二人がこの旅行に来るってもっと早く知ってたら、来てなかったと思います」
「そうなんですか」
「ところで、俺もちょっと訊きたいことがあるんですけど、不入斗くんと八逆って知り合いなんですか? コテージで初めて二人が顔を合わせた時、何か妙な反応をしてたので……」
「さあ……。私はそんな事、彼から聞いた覚えはないですけど」
「いや、ならいいんです。きっと俺の思い違いですね」
その場ではそう言ったが、本心から思い違いだとは思ってなかった。
二人の間に何がしかの因縁めいたものがあるのは、まず間違いないだろう。しかし、不入斗と親しい凛も知らないとなると、これはもう本人から訊くしかないと踏んだ。
頼まれた通りにキッチンに入って食器やら調理道具やらをあらかた持ち出し、両腕で抱えるようにして運んだ。
ようやく準備が整い、小さな櫓にも火がつけられ、いよいよ肉を焼き始めてバーベキューの始まりである。
クーラーボックスから肉やら魚やらを取り出し、熱せられた金網の上で焼き始めると、そのいい匂いが辺りに充満し始めた。こうなると、さっきまでカラスの死体で胃液が逆流しそうだったことなどすっかり忘れて、急激に腹の虫が食べ物を求めて暴れ出した。良い色に焼けた肉の香りは空っぽの収縮しきった胃袋を刺激し、口内は涎の洪水と化す。
やっと夕食が始まると、乃亜の食欲に驚かされることとなった。
いくら色々と身体を動かした後で腹ペコになっているとはいえ、彼女の小さな身体の、小さいはずであろう胃袋のどこに、これほどまでの量が入る余地があるのだろうという勢いで、網から皿へ、皿から口へ、胃へと食べ物が移動していく。みんながポカンと口を開けながら、彼女の食べっぷりに呆然としている最中、当の本人はそんな視線など気にもせずに、小動物のような愛くるしい幸せげな顔で、次々と肉を頬張っている。
パチパチと火の爆ぜる音。じゅうじゅうと水分の蒸発する音。愉しげに笑い合う声。
先程の珍事など、もう頭の隅に追いやられていた。
一時の心休まる時間だった。
しかし――、
「あっ」
地面に叩きつけられる音。ガラガラと氷がぶつかり合う音。唐突に起こった、その大きな音に、俺たちは束の間目を奪われ、会話が中断し、その場は静まり返った。
肉を焼いていた瀬堂が、足許のクーラーボックスに気付かず、それごとひっくり返ってしまったのである。その拍子でクーラーボックスは蓋が開いて、中身がぶちまけられてしまった。
辺りに散乱する氷や保冷剤。ところどころへこんだペットボトル。中のジュースは振動で泡立っている。どうやら中身は飲み物だけだったらしく、被害は少なく済んだようだ。
「あいてててて」
瀬堂の方は膝を擦りむいたらしく、ダメージ加工のジーンズの切れ目から露出した肌が、赤黒くなっていた。血が滲んでいるようだ。
最初に動き出したのは凛だった。
はっと我に返った彼女は、慌てて瀬堂に駆け寄り、心配の声をかけつつ、傷の具合を見た。
「大丈夫ですか?」
乃亜も立ち上がって、彼に近付いたが、凛がいればひとまずは大丈夫だろうと踏んだのか、とりあえず周りにばら撒かれてしまったクーラーボックスの中身を元に戻そうとした。キャンプファイヤーの熱気で、氷は僅かな時間で溶けかかっていた。拾おうとする乃亜の指先から、まるで生き物のようにするりと抜け出てしまい、悪戦苦闘していた。
英介や俺も手伝ってどうにか全部元に戻し終えると、凛の方も応急手当を終えたようだった。
「大した怪我じゃなくて、安心しましたよ」
彼女はほっと安堵の息を吐く。
その一連の様子を、八逆は遠巻きに眺めるだけで、何もしようとはしなかった。ちびちびと自分の紙コップに注がれた茶を飲んでいる。
再び食事が再開されようとした時、夕月がまた一悶着起こした。
「おい、俺が貸してやったクーラーボックスだぞ。大事にしろよ。ったく、どこに目つけてんだ」
びくっと身体を震わせ、瀬堂は頭を下げた。
「悪い」
またも静まり返ってしまった空気に、夕月は
「失礼。どうか気にしないで。さ、食べて食べて」
と途端に優しげな声色に変えて、皆に食事を促す。
しかし、瀬堂の顔色は優れなかった。