プロローグ
プロローグに出てくるクイズは、数学の有名な証明問題の言い換えになっています。数学が好きな人は知っているかもしれませんが、特別な知識は要らないので、知らない人も是非挑戦してみてください。
「夏合宿!?」
そんな思いもよらないワードが、学友の槻英介の口から飛び出てきたものだから、俺は眉を顰めて、思わず頓狂な声を上げてしまった。毎度の如く、実質暇人の溜まり場となっている部室のソファの上で寝そべりながら、新刊の推理小説を読んでいたのだが、驚きのあまりそれが手から滑り落ちそうになった。
「そう、ちょうど夏休みに入るだろ? で、俺の別荘を使うことになってさ」
英介の家はかなりの金持ちなのだ。その上この度、彼の祖父が亡くなり、彼がその資産の殆どを継いだことになったのである。
そんな彼のことだから、いくら別荘を持っていたところで、殊更驚くようなことではない。
「それにしたって、合宿なんて行く奴いるのか? 元々このサークル、只の飲みサーだろ? 何しに行くんだよ」
俺がそう思ったのも無理はない。なにせこのサークルは、夏合宿なんて一度たりともやったことはないからだ。そもそもまともなテニスの練習だってしたことはない。だから、テニスが苦手な俺が、今もここに籍を置いているのだ。
軽くあしらおうとしたのだが、英介は意に介さないようだった。
「だから行くんじゃんか」
「はあ?」
怪訝に顔を顰めた。
しかしやはり彼は、全く平然としたまま、いや、微妙に不敵な笑みを浮かべながら
「別に練習なんてしないよ。合宿ってのは名前だけ。まあ、遊びの小旅行みたいなもんさ」
と言ってのけた。
「部員の殆どは掛け持ちだろ? で、他のサークルと日程がなかなか合わないみたいでさ。あんまり人数が揃わないんだよ。だからさ、な? どうせ夏休みなんて、日がなそうやって過ごすぐらいしかないんだろ? だったらいいだろ?」
そんな煽りのような言葉を投げかけられても、何も言い返せなかった。彼の言っていることは紛れもない事実だし、俺の考えていた事も的中させている。
「当たりだろ? な、頼むよ。旨い飯も付いてくるし、自然がいっぱいで静かでいいところなんだよ。来ても損はないって」
ただの旅行みたいなものと言われても、元々出不精の俺にとってはあまり乗り気がしない。それに加えて、ついこの間当たった懸賞旅行でも大変な目に遭ったのだから、休みであろうとなんだろうと、見知らぬ土地に行くのは完全に億劫になっていた。
「う〜ん、でもなあ……」
などと曖昧な言葉で渋っていると、英介はポンと手を叩いた。
「よし、じゃあ、今から俺が出すクイズに答えられたら、今回は見逃してあげるよ」
唐突な申し出だったが、それよりも彼がそんなネタを持っていたことに驚きだ。彼はクイズだのなぞなぞだのと言った、頭の柔らかさを要求するような問題は苦手だからだ。
「クイズ? 出せるの?」
小馬鹿にしたようにそう言うと、英介はムキになった。
「な! 馬鹿にするなよ。いいか、答えられなかったら、来てもらうからな。じゃあ行くぞ。
A君には特異な収集癖があって、ありとあらゆる量が入るグラスを沢山揃えている。0.50リットルのグラス、0.01リットルのグラス、0.99リットルのグラス、ってな具合でね。一応、最大の容量のグラスは1.00リットルってことになってるんだけど、それ以下ならどんな大きさのグラスも所有している。A君は、これを整理したくなった。そこで、全てのグラス一つ一つに整数の番号を付けてやろうと考えたんだけど、さて果たしてそれは可能だろうか?」
「そりゃあ、0より大きくて1以下の実数は無限に取れるだろ? で、1以上の整数も無限に取れるわけだから、可能に決まってるさ」
英介の顔がみるみる崩れていく。笑いを堪えているのだ。それもそのはず、俺が答えたのは、甚だ見当違いの間違いなのだ。
彼は必死で笑いを噛み殺そうとしているが、俺のほうが堪えるのは大変だった。少し考えればすぐわかるようなクイズだったので、ちょっとからかってやろうと、敢えて間違えたのだから。
さて、おふざけもこのくらいにして、真面目に答えてやろう。
「……って言いたいけど、違うね」
「え?」
英介はキョトンとなった。その間抜けな顔に吹き出しそうになったが、何とか堪え切った。
「無理。その条件じゃ、全部に番号を振り分けることはできないよ」
「ど、どうして? そう考えた理由を答えてくれよ」
さっきまで余裕綽々で笑いを堪えていた顔は、今やすっかり焦りに消え失せてしまっている。
俺はテーブルの上にあった、駅前で変な宗教団体が配っていたチラシの裏に、ペンを走らせた。
「だって、整数でグラスの一つ一つに番号が付けられるってことはさ、番号とグラスの容量との対応は」
『1:0.12454536374...
2:0.34253675442...
3:0.98974259523...
4:0.46406132196...
...』
「みたいな感じで、どんどん書けるわけだろ?」
それを英介に示したのだが、彼の顔色は悪くなるばかりだった。どうやらこれは正答らしい。すぐ顔に出るからわかりやすいことこの上ない。
「こうやってグラスに最後まで番号が付けられたとする。でもこの時、例えば一行目からは小数点以下一桁目の1、二行目からは小数点以下二桁目の4、三行目からは小数点以下三桁目の9、みたいな感じで、斜めに一つずつ番号を取っていくと、0.1490...みたいな小数が作れる。この小数について、小数点以下で1の数字があったら、それを0に変換して、1以外の数字があったら1に変換してってやると、新しい小数、0.0111...みたいなのが作れるだろ? この小数は一行目、二行目、三行目……の小数から一桁ずつ持ってきて、それとは違う数字に置き換えて作ったものなんだから、番号を振り分けられた小数のどれとも絶対に一致することはないじゃん。ってことは、この0.0111...っていう小数の量が入るグラスはA君のコレクションにないことになるけど、そうなると彼がありとあらゆる量が入るグラスを持っているっていう前提が成り立たなくなっちゃうからね。とまあ、こういったわけで、番号を振り分けるのは無理」
英介は観念したように溜息を吐いて、肩を落とした。
「せ、正解だよ……」
「斜めに一つずつ値を取ってくるのがミソだね。こうすると、新しく作った小数と番号の振ってある小数とを比べると、必ず一致しない桁が現れるからね。縦に取ったりランダムに取ったりだとこうはならない」
「解き方を知ってたのか? カントールの対角線論法ってやつ」
聞いたこともなかった。講義もまともに受けていない、こと勉学に対して無関心な俺が、そんな論法など知る由もない。
「? いや、それは知らないけど、ちょっと考えればわかりそうなものじゃないか?」
「ああ……参ったな」
愕然としたように、英介は頭を抱えた。
そんな彼の様子を見ていられなくなって、結局俺の方が折れてしまった。
「ったく……。しょうがないなあ。行くよ、行けばいいんだろ。一つ貸しだぞ」
そんなこんなで俺は、その合宿――もとい、旅行に行く羽目になったのであった。