2話
「……ふむ、今日はこのくらいにしてやろうかの」
窓から射し込む朝日を見て、木ノ葉はそう言った。
「ほ、ホントに朝までだった……」
とたんにぐでっとテーブルに突っ伏す美都。
その横では日射が凝り固まった身体を伸ばしている。
「最後じゃ。日射よ、復唱」
「妖魔に近寄られない立ち回りをするべし」
「美都、復唱」
「……妖魔を日射に近寄らせることなかれ」
ほうほうの体で木ノ葉に答える美都を見て、日射は苦笑する。きっちり七時間睡眠を取る彼女には、徹夜は辛かろう。
「良かろう。次同じことをやらかせばまた徹夜でお説教じゃからな。それが嫌なら二度としないと心に誓うことじゃ」
「そうするぅ……」
今にも眠りそうな美都の声。
気が抜けているのか、帰宅したときは引っ込んでいた背中の黒い翼が今は生えている。
そこに気を遣う余裕が無い程度には参っているようだ。
「美都。寝てていいぞ」
「うぁい……」
おぼつかない足取りで、美都はソファーに身体を投げ出し、5秒と経たずに寝息を立て始めた。
シャツの裾がやや捲れてすべすべのお腹と小さなお臍が丸出しである。
緑が萌ゆる春先のこの時期、まあ暖かいし問題はなさそうだ。
押し入れから毛布を取り出した日射を見て、水を入れたやかんをガス台に置いていた木ノ葉が振り返る。
「子供に見えてそやつも一人前の烏天狗になるまでもうすぐ。人間がかかるような風邪など無縁じゃよ」
それは分かってる、と苦笑し、日射は美都に毛布をかけてやった。
「まあ、風邪を引かぬからと言って、毛布が要らぬ訳でもないがな」
嗜好品のたぐいである。人間社会で流通する毛布は、妖怪にとっても気持ちいいものであるのだ。
倒れるように寝たために変な形になっている漆黒の翼を整えてやると、美都は一瞬くすぐったそうに身をよじり、しかし目覚めることはなかった。
うーん、と伸びをして、日射は席に座り直す。
その前に、木ノ葉が淹れたお茶が置かれた。礼を言って一口すすると、甘味と渋味が舌を喜ばせる。
ただの急須で淹れられた高くはない茶葉なのに、味の違いは歴然である。年季の違いを思わせた。
舌に残る余韻を楽しみながら、春眠を享受する美都を見やる。
風馬 美都。種族烏天狗。
天空を我が領域として縦横無尽に駆け回り、風を生涯の友とする大妖怪。
そのスピードは目にも止まらぬものであり、機動力においては日本だけでなく世界においても有数である。
一度風を巻き起こせばそれは時に天候にすら影響を与え、烏天狗が全力を出せば、吹き荒れる嵐によってその地域に近づくことすら命懸け。
人間に対してはそれなりに友好的であり、実害を出すことは極めてまれであるため退魔師界隈でも危険度は低く設定されているものの、もしも退治する必要が出てきたとすれば甚大な被害を覚悟せねばならないだろう。
美都は烏天狗としてはもうすぐ成人、という、微妙に半人前認定をされている現状だが、それでも大妖怪としての資質は十分に秘めており、折に触れてその片鱗を見せ付けるようになってきている。
そのことから、強さの指標としては上級中位妖怪としてランクされている。一人前認定された烏天狗が平均で特級に達することを考えればまだまだだが。
幸せそうな寝顔からは想像もつかないが、美都は凄まじい力を持った高位妖魔なのだ。
「お、茶柱か。普段の行いがいいせいかのう」
おかわりを自身の湯呑みに注いだ後、湯気をたてるお茶を見てそんなことを言いながらふざける木ノ葉。
此花 木ノ葉。種族妖怪狸。
彼女もまた、強い力を持つ妖魔である。強さランクは中級中位。
ランクでみると美都に劣るが、彼女の真価はそこではない。
元々烏天狗として生まれた美都に対し、木ノ葉は妖怪化する前は動物としての狸だったのだ。それが化け狸として妖怪化し、長い長い時を経て妖怪狸に進化したと本人は語っている。
将門の乱は自我が芽生える前の話だそうだが、源平の争乱はリアルタイムで見てきたという。生きた年数の桁が違う上、どうも平穏無事に過ごしてきたわけではなく随分と揉まれて来たようで、経験値は半端ではない。
戦い方は老獪で搦め手が得意、扱える妖術も非常に豊富かつレベルが高い。しかも力押しも苦手ではない。
さらに特定条件下では地力を上げることも可能という、ある種反則的な存在だ。
先の戦いの通り日射と美都の指導者でもあり知恵袋でもある。
そもそも元が動物の妖魔が千年も生きることなど滅多にない。木ノ葉は大妖魔なのだ。
「なんじゃ、じろじろと。惚れたか?」
「ええ。今さらですね」
テーブルに肘を突いてニヤリと妖艶に笑う木ノ葉に、日射もまた余裕の笑みを浮かべて応じる。
「可愛げないのう。最初の頃は顔を真っ赤にしておったというに」
「散々からかわれてますからね……。耐性もつきますよ」
女性としては平均値に近い一六〇センチの身長に、細すぎず太すぎずで適度な、しかしメリハリのあるスタイル。全体的には二十歳前後に見える外見をしている。
美人と評して差し支えない顔には、人間の女性では到底出せない妖しい魅力が醸し出されていた。
「ほう。耐性か。では次からもう少しレベルアップしてやろうかの」
「ま、まだ上があったのか……!」
「くっくっく。青二才が、千年早いわ」
がっくりと項垂れる日射を上から見る木ノ葉。ここまでがテンプレ、というやつだ。
「さて。今日はどうするのじゃ?」
それまでのやり取りなどまるでなかったかのように座り直して茶をすすり、木ノ葉は日射に問いかけた。
「あー、午後から出てきます。夜には戻りますよ」
予定も特にないので好きにしていてください、と言いながら、日射は台所に立って冷蔵庫を物色し始める。それを見た木ノ葉は鮭をリクエストした。
「美都は連れていくのかの?」
「出掛けるまでに起きてて、ついてきたいと言うのなら、ですね」
炊飯器を見てもうすぐご飯が炊けることを確認すると、豆腐とわかめの味噌汁の下拵えを始める。炊飯器は、オハナシの最中に少し時間を取って準備していたのだ。平行して鮭の切り身を魚焼きに置き、隣のフライパンには油を塗って火にかける。
「起こしてやらんのか? こやつまた拗ねるぞ?」
「今日行くところに、彼女がいないと困る用件は基本無いですからね」
冷蔵庫から小分けにしてあったたくあんと茄子の漬け物を取り出す。片面が焼け始めた鮭をひっくり返し、温めておいたフライパンにはベーコンを三枚置いて卵を落とす
木ノ葉は戸棚から食器を出した。
「それに、あそこの悪意は、美都には毒でしかありませんし」
「……」
日射は手際よく準備を終えて、出来上がった朝食をテーブルに置いた。
軽く手を合わせ、出来立てのベーコンエッグをご飯に乗せて醤油を一回し。
そんな彼を見ながら、木ノ葉は「だからこそ、なんじゃがな」と呟き、鮭を箸でほぐした。
朝は静かに過ぎて行く。