猫と男
私の主人は人間である。
名前を、苦沙弥という。
苦沙弥は変わり者である。
どこが、といえば私を拾った時点からもうそうだが、行動といい物言いといい、他の人間とは何か違う。
近所のミケなどは、主人の教え子であるクセに『それは気のせいだ』『あんな糞教師たいしたことない』などとわめくがそれは間違いだ。
あの男が尋常だというならば、世の中事態がおかしいのだろう。
げんに、ほら私を抱き上げて目をほそめる男は『変』としかいいようがない。誰よりも優しい手も、そっけなくともあたたかい言葉も、みんなみんなどこか『変』だ。他と違う。
人間は総じて妙なものだがあの男はその筆頭だと、私は思う。
そして類は友をよぶ、はきだめには掃き溜めというのだろうか。
妙な男には、妙な客がやってくる。
「Nice to meet you. lady.」
「…………………。」
差し出された手をみて、私は沈黙した。
少し上を見上げると、ご主人が渋い顔をして私と客の様子をみている。
……また差し出された手をみる。
――こいつは一体何者なのだろうか?
いやに古臭いパノマ帽に、仕立てのいい小奇麗なスーツ。
顔は整っているものの、どこか信用ならない酷薄そうな唇。
金縁眼鏡ごしに、うさんくさい笑顔を浮かべるその男は、迷亭と名乗った。
「苦沙弥、君のとこの猫は握手を知らないのかい?」
「何を言ってる、猫が握手するわけがないだろう。」
ふんっと見下したように吐き捨てたご主人は、迷亭を無視して私になにか、と尋ねた。
あぁ、そうだった。
私は昼寝するためにわざわざ居間に――主人のところへきたのだった。
思いたったが吉、主人にその旨を伝える。
すると座布団の上で正座していた主人は、足をくずしてあぐらをかいた。
私はその上に座り込み、足を伸ばす。
これがいつもの昼寝の体勢であり、私のくつろぎ時間だ。
縁側で丸くなるのもいいが、人肌も心地よい。
ふと絡みつく視線に、客の前だったことを思い出した。
もしかしたらこれは無礼だったかもしれぬ、が、私は猫だから人間の都合でモノを言われても困る。
困るものは知らぬ。
ので、視線には答えずそっぽをむいていたら、迷亭は何を思ったか勝手に笑い出した。
なんなのだ、一体。
「はははははっ!く、くしゃみ、君、ふ、ははっ、ははははっ」
「どうした、気でも狂ったか。」
狂ったか、といいながら主人はどうでもよさそうだ。
その手は私の毛並みを乱暴に撫でている。
「いや、君もたいそうな猫を飼っていると思ってね。このご時勢にそんなものをよく持ち込んだねぇ」
「やらんぞ。」
「いらないよ、鼠もとれないんだろ?」
「鼠など何匹いてもかわらん。」
どうせここはボロ家だ、なぁ?とふいに母国語で話しかけられて、にゃぁと曖昧に鳴く。
先ほどからわざわざ英語で喋っているのは何故なのだろうか。私のせいか。
迷亭は別にそんな気を遣う男にもみえないのだが、どうも五月蝿い。眠れない。
「君は知らないだろうが、昨今は鼠を捕って交番にもっていくと一匹あたり都度五銭で買い上げるというのがあるんだよ。何とも鼠はペスト菌を媒介するから、その予防のために東京市がお金を出しているんだ。」
「ほぉ。」
それはいいな、とご主人が唸る。
私はぼんやり聞き流しながら、鼠を取る時は食事がなくなったときしかないと思う。
そして何となしに上を見上げて迷亭の顔色を伺った。
………にやりと持ち上がった口端に、寒気がした。
「――なぁ、君。そう置いておいても何の役にたたないんだろう。もしよかったら僕にくれないか。」
「君はさっきいらないといっただろう。」
「いらないさ。あぁ、確かにいらないとも。だが君、陸河豚というのを知っているかい?あれは猫を玉葱と一緒にして鍋にしたものでね。たいそう美味しいらしい。」
「ふぅん……」
それもいいね、と笑い声なんだか喉がひきつったんだかよく分からない音をたてご主人は言った。
勿論迷亭氏のは冗談だ。冗談にきまっているが、ご主人の私を撫でる手は止まっていて、その代わりにぎゅっと握った拳が置かれていた。
ちらりと上を見上げると、薄く開いた口によだれがたまっているようにみえる。……・まさか。
しかし結局それっきり迷亭が私を喰いたいと言わなかったので、その話はそこで終わった。
主人が「それで、何のようだ?」と聞くと、迷亭は今度こそ異国語で話しだし、主人もそれに乗ったのだ。
どうやら先ほどの冗談は、私の無礼に対する意趣返しらしい。
あやうく一世一代の危機に晒されかけたわけだが、どうも実感がなかった。
むしろ中途半端に参加させられ、そして終わった会話に、もどかしさを覚えた。
無論気になったのは迷亭ではなくご主人である。
彼の財布は私の財布。彼の命は私の命同然である。
いうまでもなく逆はないので、飼い主との信頼関係は1番大切……らしいし。
「……ご主人。」
迷亭が帰った後、そっとご主人を呼んでみた。
見上げていた視線が重なり合う。私と違う、色素の濃い深茶の瞳。
少し考えて、率直に「私を食うのか」と聞いてみる。腹芸は好かなかった。馬鹿と呼ばれようともかまうまい。だって私は猫なのだから。
「お前を喰ったら、うまいだろうな。」
きっと幸福に似た味がするのだろう、と主人は目を細めた。
怒り以外では表情筋の動きが少ないこの人の、唯一の微笑みである。
はて何故今この人は笑ったのだろう?
わからない私は、首をかしげた。
どうしてだろう。私の味を思い浮かべてるのか。それは随分グロテスクな悪趣味だと思うが。
単に冗談のつづきとは思えない、楽しそうな笑顔。
何故?
答えの返せない私に、「だからお前は所詮畜生なのだ」と主人は言った。
急に立ち上がられたせいで私はころりと前へ投げ出される。
温かかった背中に風を感じて、寒々しかった。
「ご主人、昼寝は。」
「一人でしろ。」
「さむい。あたためてくれ。」
「………………………。」
しばらくして、眉間にしわをよせた主人が戻ってきた。
どうやら未だ何事か気に食わぬようだが、それは私の知ったことじゃない。
勝手に笑って、勝手に怒って、あぁ、なんとも人間は忙しいものだ。
くわぁと私が欠伸をすると、つられたようにしばらくして欠伸の音が聞こえた。
やがて上から聞こえてくる寝息に、私もゆっくり目をつむった。