私は猫である
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私は猫である。
名前はまだない。
私がご主人と初めて出会ったのは船であった。
密航して捕まった私に、ご主人は目を細くして私をみた。
鋭く私を品定めするようなその視線に私は悟った。この男は危険だ、と。
しかし、私がそう悟った時には既にすべてが遅かったらしい。
男は、私を捕らえた船乗りに言った。これは自分の猫だと。
間違って檻から逃げてしまった猫だと、金を握らせながら言い放った。
そうして、私は野蛮な船乗りの腕からいまのご主人の腕へと住処が変わった。
特に意味もない。ただ自分から自由が失われたことだけは分かった。
ご主人はよく不遜な物言いをするくせに、胃弱の情けない男で、妻にも子にも逃げられたのだと言った。
死地を求め、船旅へ出たが体が弱かったためすぐ故郷へ舞い戻った。
当然飼い猫たる私もその貧相な腕に収まり、共に無駄に広く、そのくせに汚い一軒家――主人の家に住み着いた。
図々しいと言われた気もする。蜘蛛も茸も見た気がするが、慣れた。
最初の頃、ご主人と私だけではなく、家には何人かの掃除女もいた。しかしそのいずれも私とそりが合わず去った。どれもこれも異様にやかましく、五月蠅い女共で顔はもう覚えていない。
あぁ、でも一人だけ覚えている女がいる。たしかカヨという名だったが、これも私を嫌った。否、むしろ憎んだといってもよかった。
カヨは私が台所から何かしら盗み食いする度に、フライパンや包丁やらを振り回して怒り狂う面白い女だった。
しょうがないだろう、猫なのだから。私は気ままに生きるイキモノで、女の事情にはかまっていられないのだ。
しかしカヨはいくら私が繰り返そうとも、毎度同じように怒った。
私の知らない異国の言葉を操り、時には念密な罠をはり、私に復讐を誓った。
彼女との攻防戦は面白おかしく、愉快で、狡猾で、時には素早い私でさえも涙することとなった。
その最もの例が酒である。
ある日、私は彼女の罠にまんまと嵌り、それを酒と知らず飲んでしまった。
ひどく愉快な気分で自分は世界の英知を司り、万事を操る神のような気がした。
だから、というか、いつもと違うような気がした、というのか、泳げない私は愚かにも酔っ払った状態で風呂に入った。あげく、溺れた。
気がつくと、そこはご主人のベッドの中でカヨはいなかった。
同時にその日から女はもうこの家に訪れなくなった。遊び相手がいなくなることで私は嘆き、悲しんだが、ご主人はそんな私の様子を、ただただ目を細くしてみていた。
主人のその表情が、笑みの形をしていることに気づいたのはその時だ。私が悲しむのをみて、この男は愉快な想いをしていたらしい。やはりろくでもない男に捕まったと、その時そう思い知った。
ご主人は教師だった。そのくせ子どもが嫌いで、生徒が家へ訪れるたび追い返すのが常であった。
子ども達は一様に船乗りのごとく野蛮で汚かったが、私を好いていた。時折、私が異国からきた猫だと気付いた彼らは拙い英語で私に「はろぅ」と言った。
当然、すぐそれを見つけたご主人に烈火のごとく怒られるのだが、彼らは懲りなかった。きゃっきゃ、と猿のように笑い、鼠のごとく逃げていく。
彼らの笑い声はひなたぼっこに似ていた。あたたかく、ほんわりしていて実体をもたなかった。
ご主人の膝での居心地にも似ていたが、それは時折痛い現実(落とされたりとか踏まれたり)が待ち受けていたので必ずしもそうは言えない。
ただ、ご主人の背中や膝は子ども達の笑い声よりも確かにそこにあった。
いつからか、ご主人は彼の膝や手にまとわりついて昼寝をする私をみる度、目を細めるようになった。
その目は、ひなたぼっこよりも優しく、カヨの怒りよりも熱く、私を戸惑わせた。
――…ある夜のことだ。
ご主人が「シュッチョウ」とやらで出かけていた日のこと。
我が家に、泥棒が押し入ってきた。
勿論猫たる私は主人の為に応戦――…するはずもなく、押入れで隠れていた。
そのまま私は押入れで夜を明かし、しまいに熟睡していた。不実な猫だと?なんと失礼な。猫は猫だ。犬でもあるまいし、主人の為に命を尽くすなどバカバカしい真似をするはずがない。私は私の為に、自由に、楽しく生きていくのだ。
――だがそんな私も、押入れで目覚めた時、家中でどたんばたんと騒ぎまわっている主人をみて、さすがに青ざめた。
アレは私を探しているのだろう。もしや怒っているのか。ならば私を追い出すのか。明日から私はどうすればいい?飯は。家は?
ぽかぽかしたひなたぼっこや子ども達の笑い声。
朝焼けの街に、夕暮れに照らされたほこり臭い住みなれた家、ご主人の細めた瞳。
様々な映像が私の脳裏に現れては消えた。
がたがたと体が震え、寒気が止まらなかった。
そこで私はようやくこれが恐怖だと知った。私はご主人に見捨てられるのが怖かった。泥棒よりも、死の訪れよりも、ずっとずっと怖かった。
『××!××!』
その間も、ご主人は広く汚い家の中をばたばたと探し回っている。異国の言葉をわめきながら歩き回るその姿はさながら鬼のようにみえた。
――そして。
『×!』
がらっと勢いよくふすまを開けたかと思うと、ご主人はうずくまっている私をひきずりだした。
眩い光に目がくらむ。ぱちぱちとまばたきを繰り返して、ようやく光に慣れてきた頃、自分がおっきくて温かなぬくもりに包まれているのを知った。ご主人だった。
『×××………××!××××』
異国の言葉でしきりになにかを繰り返している。
私がこちらの言葉を知らないのは先刻ご承知の筈なのに、ご主人はながらくそのままだった。そうしてようやく顔を離した時には、あのそっと細めた目で私をみた。
私の肩口はびっしょりと濡れていたけれど、何故か私はほっと温かく感じた。
それからしばらくして、ご主人は私に名前をくれた。
聞けば私がまたいなくなった時に呼ぶ名が必要だと気付いたらしい。
なにを今更。やはりこの男はバカである。
私の名前はどうやら日本語らしく、意味があるらしい。
今度子ども達が来た時に教えてもらおうとおもう――………
私は猫である。
名前は、「アイ」とかいうらしい。