患い毒
彼女には『毒』があった。
それは持病や菌の保有者といった喩えではない。
あくまで『毒』だった。
彼女が触れた物、口にした物、粘膜や皮膚から毒は分泌され、常に手袋やマスクで肌を覆い外部に漏れる事を気にしていた。
「私ね……毒があるの。」
彼女がそう告白した時も驚いてみせたものの心のどこかでは氷解していた。付き合っていくうちに自ずと彼女の噂を耳にし、それを問われる度に否定してはみたがやはり思い当たる節は否めなかった。
初めは潔癖症だと偽り手を繋ぐことはおろか隣に連れだって歩くことさえままならなかった。次第に二人の距離は縮まっていくが彼女はあまり喜ばしい顔をせず、言葉ばかりが先走りしている。
「色々と迷惑かけてゴメンね。」
ファミレスでテーブルを挟み向かい合わせに座る彼女は謝罪する。
今まで騙していたこと。
良い態度を取れなかったこと。
素直になれなかったこと。
信頼していなかったこと。
こうして喋る彼女の周囲の席は空席になるよう店側の配慮がなされ、被害の最小化をはかる。それぐらい彼女の知名度は高く、研究の対象としても注目を集めていた。
彼女の『毒』は薬にもなり得たからだ。
それも治療不可とされてきた難病にさえ効果を示すのだから彼女の存在価値は誰よりも高くどこまでも慈悲深い。当然、誘拐や拉致、強盗と悪事や軍事に利用されかけたこともあったがある環境下でしか綺麗な『毒』を抽出することは出来ず、いつも未遂に終わる結末だった。
ひとしきり言い終えると口をもごつかせ何か言い躊躇っているようでコップの縁を指でなぞり心の準備をしているようにも見えた。
「ありがとう。」
彼女は秀麗で賢才で性格もまた澄んでいた。それでも、彼女には友達とも呼べる人物は居らずいつも孤独だった。学校も彼らの策により一人きりで運動も満足に出来ない。隔離されさも学校の平和な生活を維持出来てるのは私たちのお陰だと鼻にかける先生たちに嫌気が差した。
そんな彼女に言い寄る人は愚かか強欲かのどちらかだった。
僕は愚かな奴だった。
世間様に興味のなかった僕にとって彼女は単純に綺麗な女性としか認識しなかった。あんなにもしっかりとした人なのにいつも一人で、平気な顔をしてるけど時々物凄く寂しそうな表情をしてるのに誰も何もしてあげないなんてオカシイ。
それが彼女と初めて会話した時だった。
驚いた顔をして、でも何だか嬉しそうで僕自身も幸せな気分になれた。
「友達になってくれて。恋人になってくれて。」
彼女は改めてお礼を言った。
失礼だと感じたのか手袋を取りマスクを外し三つ指をつきテーブル越しに律儀にお辞儀した。
涙腺が溜まり溢れだすのを堪えているのか表情はぎこちなかったがそれでも彼女が至福に満たされているのが分かる。
「だから……」
彼女は僕に別れを告げるのだと感じた。今までを清算するかのような発言がそう思わせた。
でも、違う。
「これからも私の支え人になってください。」
彼女は僕に求婚した。
僕は何を言えば良いのだろうか、分からずにずっと視線を泳がせていたがはたと握られた手の感触は柔らかくそれでも決意のかたさは感じられる。『毒』のことなど忘れ、今は彼女の感触をひたすらに感じ取りたかった。
皮膚は赤みがかり、斑点も散在しはじめる。
異変に気付いた彼女は即座に手を離しテーブルの下へと隠した。痺れや目眩が襲い、上手く思考が回らなくなってきた。まるで酩酊したような気分だ。
言葉を出しようにも呂律も回らず、呼吸は荒れるだけ。
当の本人は照れ笑いしながらも返事を待っている。
蝶のように振る舞っていながらも蓋を開ければその姿は蛾のようで嫌な感覚が今の彼女には伝わってくる。
「ねえ、どうなのかな?」
彼女の口から言葉が発せられる度にピリピリと皮膚は痺れる。
マスクは今も取り外されたままで。
「何も心配要らないよ。」
次第に体は言うことを利かなくなっていって。
「お金ならあるし。」
隣に座り身体を寄せて。
「家に居るだけで良いんだよ。」
手を繋ぎ、指を絡ませ、次第に二人の唇は近付いて。
「ずっと私の傍に居て、夫婦生活を送って、それで……。」
触れ合う。
途端に瞼は重くなる。
「大丈夫だよ。」
暗闇の中から彼女の声は響いてくる。徐々に遠退いていく意識なのに、それでも彼女の存在は輝いていて。
「私ね、恋をすると気持ち良い『毒』しかでないから。」
見えなくても分かる。
彼女は笑っている。イヤらしく。嬉しくて。
「だから、死なないよ。」
言わなくても知っている。
彼女には『毒』がある。
「好き。愛してる。」
思わなくとも感じていた。
初めて会った時から。
僕は彼女の『毒』に当てられたんだ。