【30】
え?
エレナ?
ここに居るのは、アトレイシア。エレナの娘。
いくら二人は似ているからと言って、この人が間違えるなんて有り得るの?
「……――っ!」
言葉を発しようとした所でアトレイシアが片手を上げ、私の動きを止める。
「――ロイ…」
優しく囁くように、愛しさを込めてその名を口にするアトレイシア。
そして、深緋色の瞳を菫色の瞳に向ける。
ただ、見つめ合う。
なのに菫色の瞳の動きが少しおかしい?もしかして見えていない?
だからエレナじゃないと気付かない?
でも、どうして?
アトレイシアはエレナの振りなんてするの?
「さぁ、行こう」
再び、そう言ってロイは右手を差し出す。
アトレイシアは佇んだまま、瞳を伏せ、口元には僅かな笑み。
私は動けない。まるで、金縛りにでもあったかのように。
この場に居る誰もが動けない!動かない!
でも、私の視界の中に唯一動く影が一つ…。
―――!!!
何が起こったのか、頭の中で今見たばかりの映像が何度も何度も繰り返されている。
そう、あの影はエレナ。
そして、エレナはロイの頬を打つ。
驚きの表情で叫ぶのは大巫女の娘。
「ど、どうして?母上は神殿からは出てはならないはずっ!!」
「貴女の考えなど分からないとでも思って?」
「でも、大巫女を失う訳には…。それに、私は母上を…!」
「この母が、身代わりに貴女を行かせるなんて出来ないわ!」
エレナは母としての優しい顔を見せたかと思えば――。
「ロイのバカーっ!!」
白金の髪の男に、ここぞとばかりに――。
「わたくしとシアの区別も付かないなんて~!もう、大っ嫌い~!!」
アトレイシアも私の側に来たグリンダリアも、そして私も呆気に取られてしまった。
こんな時ですら、緊迫感の欠片も無いこの大巫女は。
口では怒ってみせても顔は少女のような微笑を浮かべて、ふわりとロイの首に両腕を回して抱き付く。
「連れて行って、ロイ。貴女とアルスが居ればどこだって構わない」
「――エ…レナ…」
微笑み合う二人。
この一瞬が、二人が待っていた最も幸せな時間なのかもしれない。
抱き締め合う二人の足元から炎が螺旋状に舞い上がる。
やがて赤き炎に包まれ、エレナとロイはその炎の中に消えてしまった。
そして、残るのは――『魔獣』。




