食堂2(僕はお釣りがほしいんです)
共感していただけると嬉しいです
僕は年に5~6回馬券を買う。回数から想像できるであろうが、競馬に関しては気が向いたときにふらっと買いに行く程度の正真正銘のど素人だ。数日後に大きなレースが予定されている場合などは、事前にテレビコマーシャルが流されるため、頻繁に通うファンではなくても競馬の開催情報が自然と目に入ってくる。そんな時に、
「話のタネにもなるので、せっかくだからちょっと参加してみるか」
といった程度の動機で参加している部類である。たいていは10・11・12と三つのレースで馬券を購入するのだが、素人競馬なので、儲かることは少ない。とんとんか、または残念な結果に終わる。
その日はたまたま三レースとも予想が当たってしまい、うれしい臨時収入を得ることができた。当てた満足感と、財布の中身が増えたことで、僕は気をよくして、自宅最寄りの駅にたどりついた。あたりはすでに夕焼けで満たされていた。
「腹が減ったな。そろそろ夕飯時だし、飯を食ってから家に帰るとするか」
僕は駅前に、以前から気にかかっていた定食屋があることを思い出した。まだ行ったことはないのだがそのうち行ってみようか、といった位置づけを自分の中でしていた店である。
「そうだ、今思い出したのはいい機会だ。あそこの店に行ってみようかな」
「今度行こう今度行こうと思っているうちに、ずいぶんと日にちが経ってしまったものなー」
「今日を逃すとまた、延び延びになってしまいそうだし。よし、これから行こう。決めた」
僕は店に到着すると、暖簾の隙間から中を覗いた。僕には、店に入る前に、中の様子を確認するという癖がある。店の雰囲気や客層が僕の肌に合う場合、合わない場合があるため、よく利用する店でも初めて寄ろうとする店でも、同様の行動をとる。入店前の一種儀式化されてしまった行為である。
たとえば、野球帰りの先客グループが打ち上げで盛り上がっていたりすると、僕は入店を躊躇してしまう。そのような賑やかな空気の中に自分が入ってしまうと、独身の身の上にさらにおひとり様の孤独感を上乗せされてしまい、無性にさびしくなってしまうからである。
「楽しそうだなー。うらやましいなー。こっちは一人で孤独だなー」
と言った心境で食べる食事は避けたいものである。
おひとり様の自分としては、おひとり様たちが多く利用している店の中にこそ、居心地の良さを感じる。
「世の中にはご同類がいるじゃんか。なにも自分だけが一人ぼっちなのではない」
といった安心感を覚えられるのである。
その店には四人座りのテーブルが八つ置かれていた。先客は六人で、すべておひとり様らしい。エプロンをつけた、二十代前半であろう青年店員が、手際よくテーブルを拭いているのが見える。奥にある厨房の中では五十台半ばといったところであろうか、店主らしき親父さんがてきぱきと動き回っている。自分にとって居心地のよさそうな雰囲気を感じ取った僕は、ここで食事をとることに決め、入店した。
「いやー、店の居心地もさることながら、料理も実にうまかった」
「いい店を見つけたな。今日はついているぞ」
「また来るとしよう」
満足のいく食事を済ませた僕は、
「いくらですか?」
と青年に料金を確認した。
「九百円です」
と青年が元気に答える。
その時の僕は競馬で儲けた帰りのため、気が大きくなっていたようだ。千円札を青年に指し出すと、
「お釣りは結構です」
と言ってしまった。
千円札を受け取りながらその言葉を耳にした青年が、僕に向かって笑顔で言った。
「えっ、お釣り、いらないんですか?」
「ええ」
「お客さんは、気前がいいんですねー」
「気前がいいなんてそんなたいそうな。少なくて申し訳ないんですけどね」
「金額じゃありませんよ、気持ちの問題です。どうもありがとうございます」
と言うと、青年は深々と僕に向かってお辞儀をした。
「じゃ、どうもごちそうさま」
「お客さん、ぜひ、またいらしてくださいね!」
「ええ、また寄らせてもらいますよ」
「お待ちしてまーす」
人に感謝されることは照れくさくはあるものの、悪い気はしないものだ。僕は実に気分よく店を出ることができた。
一週間後、僕はまた、その店に足を運んだ。初来店からまだそう日がたっていないせいか、あの青年はまだ僕のことを覚えてくれていた。水の入ったグラスを持って僕に駆け寄ってくると、
「先日は、どうもありがとうございました。また来ていただけて、うれしいです。」
ついでなのであろうが、そばのテーブルにいた常連さんと思しき人に、青年が僕を紹介した。
「こちらのお客さんは、このあいだ初めてお見えになったばかりの、新しい常連さんです」
変な日本語だ。
「ほお、そうかい」
「初来店の時に、なんとこのお客さんは、お釣りは結構です、と私に言ってくれたんですよ」
「わお、そうかい」
驚き過ぎのような気がした。
「あのときのお客さんの姿、実にかっこよかったなー」
などとほめちぎられてしまった。悪い気はしなかった。
食事を済ませた僕が席を立つと、青年は、
「あ、気前さん、お帰りですか」
と話しかけながら寄ってきた。
青年は僕の本名を知らない。まだ名乗っていないのだから当然だ。彼の遊び心からなのか、はたまた呼びかける必要に迫られてのことなのかはわからないが、この時僕には気前さんというあだ名が青年によってつけられてしまった。
「勘定をお願いします」
と僕が言うと、
「はい、九百円になります」
と青年が答えた。
千円札を渡した僕に対して、それを受けとった青年は無言の笑顔を返してきた。
しばらくの間、僕にとってはとても嫌な沈黙がその場を支配して、僕の居心地がすこぶる悪いものとなった。
「はやくお釣りをよこせ」
と僕は心の中で思っていた。
「ひょっとすると、こいつ、今日もお釣りをよこさないつもりなのかな」
といった不安が僕の胸によぎる。
双方が無言の状態で数秒がたった。耐えきれなくなった僕はしぶしぶ、
「お釣りは結構です」
と言わざるを得なかった。我慢比べは僕の敗北に終わった。先ほど青年と常連さんを交えてかわされた会話の流れからいって、まさかお釣りをくれとは言えなかった。悔しい。
青年は、待っていましたとばかりに、
「いつもありがとうございます」
と、やっと声を発した。
先ほどの気まずい空気は晴れたのだが、僕の心は曇っていた。
僕としては、本当はおつりが欲しかったのである。けれども僕はそれをこの場面で青年には言えなかった。あの時、そう、初めてこの店に来たあの時に発した「お釣りは結構です」の軽い気持ちから出た一言が、いまも尾を引いてしまっている。放っておけば、今後もこの状態が続いていくのかもしれない。
「僕はこれから永久に、この店ではお釣りをもらえないのであろうか」
そんな不安が僕を支配した。
「そんなのは嫌だ。僕はお釣りが好きなんだ」
といった感情もわく。
「いや、お釣りが好きというよりは、あってほしいという表現の方がいいのか。お釣りは本来あって当たり前のものなので、ああっ、うまく言葉では言い表せないよ」
苦悩しながら僕は家路についた。
料理の味が気に入っているので、お釣りをもらえない不満を抱えつつも、僕はその店に通い続けた。
「なんとかお釣りをもらう方法はないかなー」
と、日々漠然と思っていた僕に、ある日名案が閃いた。
「そうだ、一万円札だ。一万円札を出せば、さすがにあの青年はお釣りをくれるだろう。彼にだって血も涙もあるはずだ」
「いまのいままで、なんでバカの一つ覚えみたいに、千円札を出してきてしまったんだろう」
「冷静に考えてみれば、千円札は実に危険な代物だよな。お釣りの百円くらいは貰ってもかまわないだろうと思ってしまう人も世の中にはいるさ」
作戦決行の日の朝、財布の中を僕は覗いた。
「よし、この一万円札作戦に賭けよう。一万円札よ頼んだぞ、どうか僕を助けてくれ」
僕は手にした一万円札にお願いした。
「まてよ、支払いの時、青年に財布の中を覗かれてしまう危険があるよな」
「財布の中に千円札があることを発見されたら、そっちを出せと言われかねないぞ」
「そんなことになっては作戦が水の泡だ。そうだ、一万円札以外は、家に置いて行こう」
僕は入念に作戦を練り、家を出た。
その日の夕方。
「それにしても僕はいったいなにをしているんだろう」
「定食を食べるために、なんでこんな下準備をしているんだろう」
などと疑問をぶつぶつ自分に対して言いながら、いざ出陣、僕は店へと向かった。
僕は出された料理に食らいついた。意識のほとんどが、この後にもらうお釣りのことに占領されているため、料理の味なんぞは二の次で、とにかく急いで食べ物を腹の中に流し込んだ。来店の目的が食事ではなく、お釣りをもらうことというのも珍しい話であろう。食事が終わり、とうとう精算の時が来た。いよいよ作戦決行だ、僕は青年に一万円札を指し出して、言った。
「申し訳ない、あいにくこれしか持ち合わせがないんだけど、いいかな」
「一万円ですか。いやー、いくら気前のいい気前さんからでも、こんなにはもらえませんよ。でも、せっかくのご厚意ですから無下にはできませんね。じゃあ、五千円だけもらっておきましょう。どうもありがとうございました」
と、青年は息を継がずに言いきると、僕に五千円のお釣りをくれた。取りつく島もない、わずか十秒間の出来事であった。作戦は失敗に終わった。成功を信じていた僕は、思いもよらぬこの結果に愕然とした。なんと千円札を使った時よりも多い、五千円の出費となってしまったのである。
僕は家に帰ると、めげることなく次の作戦を考えた。
「よーし、今度は九百円丁度を用意していこう」
「そもそも値段ぴったりにお金を渡せば、お釣りの問題は発生しないわけだよ」
「こんな簡単なことに気づかなかったとは、よっぽど頭がお釣りをもらうことに執着していたんだろうな」
翌週、僕は九百円を用意して、店に意気揚々と行ったのである。
僕は今回の作戦で勝利することを確信しながら食事をしていた。笑いながら食べていた。はたから見ると、気味が悪く映ったかもしれないが、そんなことには気が回らないほどにうれしくて仕方がなかったのである。
店の隅では青年と常連さんが、僕の噂話をしている。ひそひそ話ではあるが、店が空いていて静かなため、こちらにはまる聞こえであった。
「気前さんは、生まれてから今までお釣りをもらった経験がないんじゃないですかねー」
「まさかー」
「お釣りの意味すら知らないかもしれませんよ」
「大げさだなー、そんな人いるかなー」
「きっと、お札しか持ち歩かない主義を貫いているに違いありませんよ。小銭は持ち歩いたことがないんだと思うなー。わたしにはわかるんですよ」
二人は勝手な憶測で、言いたい事を言っていた。
「ふーん、世の中には本当に気前のいい人ってのがいるものなんだな」
「いるんですよ。それに、名は体を表すって言葉もありますしね」
こんなことまで言っている。
「それはお前が付けたあだ名だろうが」
と僕は思った。
精算の時が来た。この期におよんで、僕は用意をしてきた九百円を出すことができず、やむなく千円札で精算した。今しがた聞いてしまった二人の話が僕の行動に影響を与えたのである。まるでこっちの腹の中を読まれてしまっているような会話であった。結局この日もお釣りはもらえずじまい。勝利を確信してやって来たはずなのに、僕は敗れた。無念であった。
ある日、駅前の薬局で買い物をしていると、あの青年と、ばったり鉢合わせをした。
「気前さーん、こんにちわ」
青年が声をかけながらこちらに寄ってくる。
「あー、こんにちわ」
「お買い物ですか」
「ええ、ちょっと胃の調子が悪くて」
店内の通路でとりとめのない会話をしていると、白衣を着た初老の男性がそばを通りかかった。青年は、男性とは面識があるようで、呼び止めて気さくに話しかけた。
「あっ、店長さんこんにちは。お客さんを紹介しますよ。この人は、気前さんと言って、うちの店の常連さんなんです。お釣りを受け取らない主義の人だから、レジではレシートを渡すだけでいいですからね。お釣りを渡すことは、気前さんに対しては失礼にあたるから、くれぐれも気をつけてくださいね」
どのお店に行っても、青年と鉢合わせになると、大きな声で「気前さーん」と呼ばれた。そのうえ、あだ名のいわれまでをお店の人たちに説明してしまうのである。とうとう界隈の店では、僕はお釣りをもらうことができなくなってしまった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




