黄昏の少女
お題 ☆サムライ
◎ガールズバー
△パソコン
明助は放課後の教室が嫌いだった。いや、赤という色自体が嫌いだった。紅く染まった教室は、明助の目にはまるで大量の血をぶちまけたかの様に醜悪に写り、己がしでかした過去を否が応にも思い出させる。
だから出来る事なら一秒たりとも居たくはない。普段なら逃げる様に家路に着くのだが、今日は違った。普段は暇な美化委員の仕事が長引いたのだ。
理由は、目の前に座っている少女にある。
小西 雪菜。『小雪』とあだ名とされる程、肌は白く身長も小さい。明助が178センチあるのに対し、彼女の身長は140センチ前後。明助の胸ほどしか無い高さではあるが、肩上まで伸びた黒髪と、整った顔立ち。おしとやかな性格に優秀な成績により、校内の男子はもちろん校外の男子にも抜群の人気を誇っている。
毎週水曜の放課後、美化委員は会議を行いクラスが担当している清掃場所の班毎の割り振りをしている。
明助は早朝、クラスの花瓶に自分の店から持ってきた華を生けるだけで、他の仕事は総じて彼女に任せっきりだったが、今日ばかりはそうはいかなかった。
小雪は今朝から体調が悪いらしく、四時間目の授業から保健室で休んでおり六時間目にようやく復帰するも、顔色も悪く、足取り不確かという状態。それでも任された仕事に対する責任感から、定例の会議は予定通り開くと言い、自分だけさっさと帰るワケにも行かず、会議が少し長引いてしまったのである。
「よし……。こんな感じかな」
各班の清掃地区の割り当てが完成し、見直しとばかりに端から端まで目を通す。満足がいったのか、「はい」と明助に手渡す。
「ああ。こんな感じでいいと思うぜ。個人的には友彦んとこの班は永久便所当番でいいと思うんだけどな」
「ええっと、土田君だっけ。彼本当に覗きなんかしたの?」
「さぁね。真偽は定かじゃないけど、あいつの目、男の俺から見てもヤラシーんだよ」
応答しながら割り当て表を返す。少し力を入れた為、頬を撫でるような微風が明助の腕から生まれた。
「あれ、夜向君。香水……してる?」
「ん?ああ、まぁブルガリを少々。よく気付いたな。全然強くしているつもりは無いんだけど」
「私ね。昔から鼻は犬並みにきくのよ。これ自慢」
具合が悪い、やつれた笑顔で自分の鼻を指す。
つるべ落としというのだろうか、辺りは紅の夕焼けは既に沈み、深い群青色が支配していた。ダルそうに校庭に顔を向け、頬杖しているが目だけは小雪を捉えていた。
「…。まぁいいや。終わったんならさっさと帰ろうぜ」
「夜向君に合う香水は、ブルガリよりもサムライの方が似合うと思うよ」
「サムライ? あぁ……あれね。考えとく」
テキパキと筆記具をしまいながら適当に返事をする。小雪も合わせて帰り支度を整える。が、彼女にしては珍しく少し慌てたのだろう、バックからペンケースや財布や小物がバラバラと落ちる。落としたモノを庇う様に急いでバックに入れなおす。
「ほらよ。これで最後だ」
明助が持つ銀色のカードケースを慌てて受け取る。
「あ…ありがとう。あたし……先に行くね。教室の鍵お願い……」
「ああ。気をつけて。さいなら」
「うん。……さいなら……」
ピシャリと響く教室の引き戸が閉まる音が暗がりと同調し、この空間には自分しか居ないという孤独感を改めて認識させた。
「さて……。一体どんな事情があるのかね。ガールズバー シャンディのコユキさん」
銀色のカードケース、つまり名刺入れから密かに抜き取った『コユキ』と書かれた一枚の名刺を見つめる。
暗闇を切り裂くかの様に明助の携帯が着信を告げる。
「黒羽か。あぁ。当たりだよ」
既に月は煌々と。月影に映し出された自らの闇は、なおも深く、深く。
× × ×
暗い部屋の中で、パソコンのディスプレイがさながら夜光虫の如く怪しく光りを放っている。
小雪の部屋にはおおよそ女の子らしい品物は何一つ無く、あるのはパソコン一式。そして自分の趣味ではない色気を強調した化粧品のみ。
「おい。帰ってきたんならさっさと仕事に行け」
家の家主、義父の声がすぐ後方からする。
手には一升瓶。泥酔しているのだろう、酒臭さが『犬並みに良い』鼻に付く。
不愉快極まり無い。最低人間。死んでしまえばいいのに。
「おい、返事したらどうなんだ?それともそのパソコンぶっ壊されてーか? あぁ!」
それは嫌だ。これはお母さんの形見。
母が残した財産が、この義父の手で次々に売られていき、酒にギャンブルに換わっていく中で、唯一手元に残った遺品。思い出の品。
義父の前職はパソコンのインストラクターで、それがきっかけで母はこの男と付き合うようになったと聞いていた。
小雪が産まれてすぐ交通事故で死んでしまった父は、面影すら記憶していない。
シングルマザーゆえに母が苦労していたのは知っていた。だから、この男との結婚が決まった時は、心の底から喜んだ。
始めは幸せだった。何もかもが上手くいっていた。いくと思っていた。
しかし、母もまた小雪を残して死んでしまった。父と同じく交通事故だった。
それからは全てが一転し反転した。
明るかった家は暗くなり、真面目だった養父は酒浸りになった。
そんな義父が自分に乱暴を働くには、たいして時間が掛からなかった。
初めて識った『男』は恐怖と痛み、そして畏怖。
蛇が全身を這いずりまわっているかのような感覚。
「あの飲み屋の稼ぎじゃ少ないってーから、ヤクの売人を紹介してやったんだ。しっかりやれよ。聞いてんのか! こらぁ!」
「聞いてるわよ。ちゃんと働いてくるから怒鳴らないで」
いつもの日常風景。劣悪な環境だとは認識している。
好き放題言って気が済んだのか、義父は奥の部屋でまた酒盛りを始めた。
その姿を蔑んだ目で見届け、重いため息を吐く。
「仕方が無い。仕方が無い」
誰に聞かれることなく、小雪はディスプレイに写る自分に言い聞かせる。自己暗示にも似た境遇への呪詛を繰り返すうち、不思議と心が軽くなる気がした。
現状から退避。精神を逃避させながら、小雪は『コユキ』へと変身し変心する自分に気付いていた。
『おはようコユキ』
『お休み小雪』
彼女の嫌いな化粧ポーチに入ったコンパクトを見る。
鏡の向こうの疲れきった自分の顔が、醜く歪んだ表情をした気がした。
× × ×
「いらっしゃいませ。ガールズバーへようこそ」
小雪がいつも通りの挨拶で、お客を迎える。本来なら席に案内し、注文を伺うところなのだが、その来客のあまりの以外さに絶句し、次に出る言葉を失ってしまった。
「よ……むかい……めいすけ……」
身に纏った漆黒のスーツのせいだろうか、明助の雰囲気は普段学校で見慣れているそれとは、まったく違う。別人と言ってもいい。
手から一枚のカードを取り出しコユキに投げつける。クルクルと回転しながらカウンターに落ちたそれは、間違いなく自分の名刺。
小さな店内で二人だけ取り残されたように、静かに時間が過ぎていく。
「別にお前がどんなところで働こうが知ったことじゃない。現に俺も『こんなバイト』をしているしな。だが、『それ』は辞めろ」
「それ……? 一体何のことかしら。用が無いならどうぞお取引を。あなたに構っていられる程、私は暇じゃないの」
雰囲気が違うのはこちらも同じ。今の私は小雪と呼ばれている大人しいガキではなく、夜の世界を生きる女、コユキ。
「俺は友達を捕まえるようなマネはしたくない。もう一度言う。今後一切、『麻薬』の売買なんてマネは辞めろ。今なら俺がどうにかしてやれる」
「麻薬?一体何の事かしら」
あくまで悠然に。不敵に。それがコユキの存在意義。創生目的。
「幸い、まだ自分では使ってないみたいだが、昼は学校、夜はバーテンやりながらバイヤーの三重生活は流石にきついんじゃないのか」
コユキは何も応えない。ただ明助の暗い瞳を睨みつけている。
奥のVIPルームで待機していた男が、ゆっくりと歩いてくる。
手には日本刀を携え、明助に向かってくるのは明らかだった。
「おい、そこのバーテンが言っただろ。用が無いなら……」
次に続く言葉は語られる事はなかった。
腰のホルスターから早撃ちの如く飛び出した、銃型スタンガン<テイザー>の有線式の電極が男の肉腹を刺し、けたたましいスパーク音とともに放たれた高電圧が意識を瞬時に刈り取っていた。
「ちなみに他の連中もこいつと同じように眠ってるぜ」
コユキの顔が屈辱に歪む。
「何者よ、あんた!」
少年は静かに目を閉じ、失われた『死神』の瞳で少女を見据える。
「特殊公安課<黒組> 夜向明助。お前を、助けに来た」
胸中に深淵を携え、暗黒の地獄を生きた少年はその表情を一切変化させる事なく、同じ闇を抱えた少女に、本当の自分をさらけ出した。
去来する想いは光か闇か。
どれだけの時間が経ったのだろう。十分、二十分、あるいはもっと。
その間微動だにしない少年に、ようやく言葉を発する事ができた。
「お願い……。助けて……」
その言葉は一体どちらのモノだったのか。
「判った」
明助は静かに目を伏せ、『普段』の笑顔を見せた。
× × ×
数週間後。
水曜日の放課後。紅く染まった教室には、小雪と明助の姿があった。
「夜向君。掃除の割り振りはこんな感じでいいかな?」
相変わらず気だるそうにA4の用紙を受け取る。
「夜向君……。あの人はどうなったの……?」
「小西 孝之の事か。ああ、俺の上司が良い様にコキ使ってるよ。なまじパソコンが出来るだけに、OSのアップデートやらウイルス対策やら上司の肩もみやら……。昼夜問わず働かされているよ。見てるこっちが可哀相になるくらい」
あの日、あの直後。警察の公安<黒組>を名乗る隻腕の女が小雪の義父を拉致し、強制的に警視庁へ連行し、そのまま働かせたという顛末を翌日明助から聞かされた。
最初は半信半疑だった小雪も一向に帰ってくる気配の無い様子に次第に安心し、今では多重人格障害の克服の為、サイコセラピストにかかっているのだという。経過は順調で、早い段階で意識は一つに統合され完治に至ると太鼓判を押されたと、自慢していた。
「こんな感じで宜しいかと」
紙飛行機のようにひらひらと宙を舞う紙を両手で捕らえる。
ふわりと、明助の着けている香水の匂いがした。
「あ、サムライの匂いだ」
「ああ、少し前から着けてみたんだ。なかなか気に入ってるよ」
そういって笑う少年の表情は穏やかで、出来る事なら今の自分の感情を、真っ赤な黄昏のせいだと勘違いしてくれればいい。そう思った。
☆おしまい☆