第3話 食卓を潤したい
「......いいか、盤古。俺たちは今、非常に深刻な危機に直面している」
換金所から戻ったアルトは、安宿の一室で真剣な面持ちで切り出した。
テーブルの上に置かれているのは、使い古された革の財布。中身をぶちまければ、数枚の銀貨と、数え切れないほどの銅貨が寂しく転がるだけだ。
先ほどレッド・ベアの素材を売って得た報酬も、宿代と装備の修理費、そして「あるもの」のせいで一瞬にして消え去ろうとしていた。
「えー、何? 改まっちゃって。私の美しさに改めて見惚れたとか?」
宙に浮きながら、盤古はアルトの顔を覗き込む。彼女の手には、先ほど「臨時収入だ」と言って買い与えたばかりのポテトチップスの袋が握られていた。
バリボリと軽快な音を立てながら、彼女は満足そうに足をパタつかせている。
「お前のその食費だよ! スキルのくせに何で実体化して飯食うんだよ! お前が食った分、俺の胃袋に入るはずだった肉が消えてるんだぞ!」
「失礼な。私は『概念』を食べてるの。このポテチに含まれる『ジャガイモが揚げられたという多幸感』を摂取して、私の神格を維持してるの。残った物理的なカスは後で消してるから、実質ゼロカロリーだし」
「財布の中身はゼロどころかマイナスなんだよ! そもそも、お前がその気になれば、金なんていくらでも作れるだろ!」
アルトの言葉に、盤古はポテチを噛み砕く手を止め、ジト目で彼を見つめた。
「アルト、言ったよね。私がこの世界の『因果』を弄って金貨を捏造したら、その瞬間にこの街の経済バランスが崩壊して、巡り巡ってパン一個の値段が金貨百枚分になるよ? それでもいいなら、今すぐこの部屋を金塊で埋め尽くしてあげてもいいけど」
「......それは、勘弁してください」
「わかればよろしい。だから、働け。アルト。稼げ、アルト。私に美味しいものを献上するのは、パートナーである君の神聖な義務だよ」
盤古はフンと鼻を鳴らし、最後の一片を口に放り込むと、空になった袋を指先一つで消滅させた。
アルトは盛大な溜め息をつき、ベッドに倒れ込んだ。
確かに盤古の言う通りだ。神域級スキル『盤古』の本質は「書き換え」にある。
彼女が本気を出せば、空気を金に変えることも、死者を蘇らせることも、大陸の形を変えることも容易い。しかし、それは世界の歯車を強引に破壊することと同義だ。
彼女が働かないのは、単に怠惰だからではない。この世界という繊細な器を、壊さないための「愛あるサボり」なのだ。......と、アルトは自分に言い聞かせている。
「......仕方ない。明日も早朝から依頼を受けるか。薬草採取か、それとも下水掃除か......」
「あ、それならいい話があるよ」
盤古が楽しげにアルトの背中に乗りかかってきた。質量はないはずなのに、彼女が望む時だけは、不思議と温かな重みを感じる。
「ギルドの掲示板の裏側に、変な依頼が貼ってあったでしょ。あれ、受けなよ」
「掲示板の裏? ......ああ、あの『迷い猫探し』か? 報酬が異様に高いやつだろ。怪しすぎて誰も手をつけてなかったやつだ」
「猫じゃないよ。あれ、この世界の『バグ』が漏れ出してる場所。私がちょっとだけ処理しやすいように調整しておいたから。そこに行けば、いい経験値と、何より私が食べたい『幻の果実』が手に入るはず」
「......お前の食欲が目的かよ。でも、バグってのは放っておけないな」
アルトは渋々起き上がった。
彼が「無能」と蔑まれながらも冒険者を続けている理由の一つがこれだ。時折、盤古はこうして「世界の不具合」を察知する。彼女が直接手を下せば世界が歪むが、アルトという「人間」が介入して解決すれば、それは正当な歴史として定着する。
いわば、アルトは神の尻拭いをする清掃員のようなものだった。
翌朝。
アルトは街の北端にある、通称「嘆きの森」へと足を運んでいた。
普段は低級のゴブリン程度しか出ないはずの森だが、今日はいやに静まり返っている。鳥の声一つせず、湿った空気が肌にまとわりつく。
「おい、盤古。様子がおかしいぞ。......盤古?」
呼びかけるが、返事はない。
ふと横を見ると、盤古は「森のマイナスイオンを吸収中」という札を首から下げて、透明なハンモックで寝ていた。
「この野郎、肝心な時に......!」
アルトは腰の剣を抜き、慎重に草むらをかき分ける。
森の中央にある泉に辿り着いた時、彼はその光景に息を呑んだ。
泉の周囲の空間が、ガラスが割れたようにひび割れていた。
そこから溢れ出しているのは、この世のものとは思えない漆黒の泥。その泥が触れた草木は、一瞬にして枯れ果てるどころか、不気味な紫色の結晶へと変貌していく。
そして、その泥の中心に、一人の男が立っていた。
男は、昨日アルトを嘲笑った騎士・ジュリアスと同じ「金色の鎧」を着ていた。しかし、その輝きは失われ、鎧の隙間からは黒い泥が脈動するように噴き出している。
「......ア、ア......ル......ト......助......け......」
ジュリアスの瞳は白濁し、意識があるのかも定かではない。
彼の背後に宿っていたはずの上級スキル――光の精霊は、今や黒く濁った異形の怪物へと成り果て、主人であるジュリアスの肉体を侵食していた。
「スキルの......暴走か!? いや、これはもっと不自然だ。誰かが意図的に『汚染』してやがる」
アルトは直感した。これは単なる事故ではない。
昨日の盤古の「運勢書き換え」が引き金になったのかとも疑ったが、それにしては禍々しすぎる。これは外部から持ち込まれた「毒」だ。
「おい、盤古! 起きろ! これはお前の言う『バグ』の範疇を超えてるぞ!」
アルトが叫んだ瞬間、黒い精霊が咆哮を上げた。
かつて優雅だった光の翼は、鋭い刃の列へと変わり、猛然とアルトへ襲いかかる。
アルトは反射的に剣で受け止めたが、凄まじい衝撃に腕の骨が軋んだ。
「くっ......重い! スキル一個でこれかよ!」
「.......ふあぁ。......うるさいなぁ、もう。お昼寝の邪魔」
ようやく目を覚ました盤古が、欠伸をしながら戦場を眺める。
彼女はその光景を見ても、驚く様子はなかった。ただ、少しだけ不愉快そうに眉をひそめる。
「あー......やっぱりね。誰かさんが、禁忌の『概念抽出薬』なんて使わせたみたい。スキルを無理やり剥離して、純粋な暴力に変える劇薬。人間が扱っていいものじゃないのに」
「解説はいい! どうすればいい、盤古! 力を貸せ!」
「貸さないよ。そんなの使ったら、ジュリアスの肉体ごとこの森が消滅しちゃう。......でも、アルト。君の剣、さっき研いであげたでしょ?」
「はぁ!? いつそんな暇が......」
アルトが自分の剣に目を落とすと、そこには見覚えのない紋様が淡く浮かび上がっていた。
盤古が寝ている間に、彼女の「暇つぶし」として、剣の構造を一時的に『不浄を断つ』概念に書き換えていたのだ。
「今の君の剣は、あの黒いドロドロだけを斬れるようになってる。ただし、有効期限は三分。それを過ぎたら、君の腕があの泥に呑まれておしまい。......さあ、頑張れパートナー。私は特等席で応援してるから」
盤古は空中でおみくじを引きながら、「あ、凶だ」と楽しそうに呟く。
「......お前、本当に性格悪いな!」
アルトは毒づきながらも、唇の端を吊り上げた。
三分。十分すぎる。
彼は神域スキルの持ち主だ。たとえそのスキルが働かなくても、最強のパートナーが用意した「舞台」で、彼が負けるはずがなかった。
「行くぞ、盤古!」
「はいはい。行ってらっしゃーい」
黒い泥が渦巻く中、アルトは一筋の光となって踏み込んだ。
平民の少年と、怠惰な神。
二人の奇妙な戦いは、まだ始まったばかりだった。
一方、その様子を遠くの崖から見つめる影があった。
白装束に身を包んだ、正体不明の集団。その中心に立つ女が、冷たい笑みを浮かべて呟く。
「......面白い。神域級の適格者が、あんな泥臭い戦い方をするなんて。計画を少し変更しましょう。あの『アルト』という器、私たちが美味しくいただくことにしましょうか」
女の手には、ジュリアスを壊したのと同じ、黒く脈動する小瓶が握られていた。




