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連作短編集「リセマラ」

パパと魔法の懐中時計

作者: 双瞳猫

魔法と科学が共存する、少し古風な港町。人々は蒸気機関の船や飛行船で移動し、街には錬金術師の工房が点在している。どこか懐かしいノスタルジックな雰囲気。

錬金術師のレオは、事故で亡くした娘アンナを救うため、禁術で「時間をやり直せる懐中時計」を創り出す。事故の日に戻り、アンナを家に閉じ込めて事故を防ぐことに成功する。しかし、アンナは別の事故で命を落としてしまった…

 序章 失われた光

 港町リューネブルクは、魔法と科学が琥珀色の夕暮れに溶け合う場所だった。石畳の路地をガス灯の柔らかな光が照らし、湾にはマストの代わりに蒸気機関の煙突を立てた船が停泊している。空には時折、鯨のような影、すなわち飛行船が悠々と雲を横切っていく。街のあちこちには錬金術師の工房が軒を連ね、奇妙な色の煙や、金属の混じった薬草の匂いを風に乗せていた。


 このノスタルジックな街で、レオ・シュタインは最も高名な錬金術師だった。彼の創り出す霊薬は難病を癒し、彼の精製する金属はどんな飛行船の装甲よりも強固だと謳われた。人々は彼を「賢者シュタイン」と呼び、尊敬と畏怖の念を抱いていた。

 だが、そんな名声も、彼にとっては娘アンナの笑顔に勝るものではなかった。


「パパ、見て! 一番星!」


 工房の窓から身を乗り出し、小さな指で空を指す娘。その瞳は、夜空で瞬き始めたばかりの星よりも強く輝いていた。十歳になるアンナは、レオのすべてだった。明るく、好奇心の塊で、父親の創り出す不思議な魔法が大好きだった。


「ああ、綺麗だな。あれは宵の明星だ。いつか、あの星まで行ける薬を作ってやろう」

「ほんと!? 約束だよ! パパ、あの星まで連れてって!」


 アンナはくるりと振り返り、レオの首に抱きついた。薬品の匂いが染みついた白衣に、小さな体温が伝わる。この温もりこそが、レオの世界の中心だった。

 あの日も、アンナは好奇心に目を輝かせていた。港で年に一度の「飛行船レース」が開催される日だった。街中が浮き足立ち、人々は空を見上げて歓声を上げていた。


「パパ、行こうよ! 一番近くで見たい!」


 アンナに手を引かれ、レオは研究を中断して人混みの中へ足を踏み入れた。娘の喜ぶ顔が見たかった。ただ、それだけだった。


 悲劇は、一瞬だった。


 レースの興奮が最高潮に達したその時、一隻の飛行船がバランスを崩し、大きく傾いた。観衆から悲鳴が上がる。船体から切り離された巨大な鉄製のバラストが、黒い凶星となって地上に降り注いだ。それが、アンナの小さな頭上に影を落とすのを、レオはスローモーションのように見ていた。


「アンナ!」


 叫びも、伸ばした手も、間に合わなかった。

 次にレオの目に映ったのは、人々の悲鳴と、石畳に咲いたおぞましい深紅の花。そして、その中心で力なく横たわる、小さな光だった。


 あの日から、レオの世界は色を失った。

 高名な錬金術師は工房に引きこもり、すべての依頼を断った。親友であり、ライバルでもあったギルバートが何度訪ねてきても、彼は扉を開けなかった。


「友よ、気持ちはわかる。だが、死者の領域に踏み込んではならん! それは神への、そしてアンナへの冒涜だ!」


 扉の向こうで叫ぶギルバートの声も、今のレオには届かなかった。


 彼の工房は、狂気の研究室へと変貌していた。壁一面に描かれたのは、生命を癒すための魔法陣ではない。時間を司る古のことわり、クロノスの名を冠した禁断の術式だった。床には賢者の石のなりそこないが転がり、フラスコの中では虹色の液体が不気味な光を放っている。

 レオは、時間をやり直すこと――死んだ娘を取り戻すことだけに、そのすべてを捧げた。眠りも食事も忘れ、骨と皮ばかりに痩せ衰え、ただひたすらに研究に没頭した。彼の心を支えるのは、たった一つの誓いだけだった。


「今度こそ、お前を必ず守ってみせる」


 そして一年後。季節が巡り、再び飛行船レースの喧騒が街に訪れようとしていた夜。レオの工房で、ついに禁断の魔法が完成した。

 彼の掌には、銀細工の美しい懐中時計が鎮座していた。文字盤には数字の代わりに十二の星座が刻まれ、中央の時針と分針は、賢者の石から削り出した深紅の針。それはただの時計ではない。持ち主の記憶を標とし、望む過去へと精神を飛ばす、禁断のアーティファクト。


 レオは震える手で時計を握りしめ、アンナが死んだ、あの日の朝を強く念じた。

 カチリ、と竜頭を回す。

 世界が眩い光に包まれ、彼の意識は過去へと引き戻されていった。


 1. 時を歪める歯車

 目を開けると、そこは見慣れた工房だった。窓の外からは、まだ夜の気配を残した朝の光が差し込んでいる。壁のカレンダーが示す日付は、あの日――アンナが命を落とした、運命の日。

 本当に、戻ってきた。

 レオは己の手のひらを見つめた。そこには、あの銀の懐中時計が確かに握られていた。成功したのだ。


「パパ、おはよー!」


 階下から、世界で最も愛しい声が聞こえる。レオは階段を駆け下りた。そこにいたのは、パジャマ姿のまま食パンをかじっている、紛れもないアンナだった。生きている。温かい。


「アンナ……!」


 レオは娘を力強く抱きしめた。アンナは「どうしたの、パパ。苦しいよ」と笑っている。この温もりだ。この笑顔だ。もう二度と、手放してたまるか。


「アンナ、よく聞きなさい。今日は一日、絶対に家から出てはいけない」


 レオは娘の肩を掴み、真剣な目で言った。


「でも、今日は飛行船レースが……」

「ダメだ! レースには行かない。今日はパパと一緒に、この工房で過ごすんだ。いいね?」


 有無を言わせぬ父の剣幕に、アンナは不満そうに唇を尖らせたが、こくりと頷いた。レオは家の全ての扉と窓に鍵をかけ、さらに錬金術で創り出した封印の札を貼り付けた。これで完璧だ。どんな偶然も、どんな不運も、この結界を破ることはできない。

 時間は、ゆっくりと流れた。

 アンナはつまらなそうに床に絵を描いたり、レオの研究道具をいじったりしていた。外から聞こえてくる飛行船のエンジン音や人々の歓声に、何度も窓の外を気にしていたが、そのたびにレオが「こっちへ来なさい」と引き戻した。


 やがて、運命の時刻が近づく。午後三時。バラストが落下した、あの時間だ。

 レオは懐中時計を握りしめ、秒針の動きを睨みつけた。心臓が早鐘を打つ。外で、ひときわ大きな歓声が上がった。レースのクライマックスだ。


 三時一分、二分、三分……。


 何も起こらない。遠くでサイレンのような音が聞こえた気もしたが、この安全な城の中には、悲劇の影すら差し込まない。


「……終わった」


 レオは安堵の息を吐き、その場にへたり込んだ。やった。運命に、勝ったんだ。


「パパ、もういい? お腹すいたよ」


 アンナがレオの袖を引く。そうだ、夕食の準備をしなければ。これからは、失われた時間を取り戻すように、この子に愛情を注ぐのだ。


「ああ、今すぐ用意するよ。アンナの好きなオムレツを作ってやろう」

 レオは立ち上がり、キッチンへ向かうアンナの後を追った。


 その時だった。


「きゃっ!」


 アンナの短い悲鳴。そして、ゴトリ、と鈍い音が響いた。

 レオが振り返ると、アンナが階段の上から転げ落ち、頭から血を流して動かなくなっていた。彼女の足元には、レオが実験のために無造作に置いていた、ビー玉ほどの大きさの金属球が転がっていた。それに足を滑らせたのだ。


「アンナ! アンナ、しっかりしろ!」


 抱きかかえた小さな体は、みるみるうちに冷たくなっていく。呼吸が、止まっていた。

 なんということだろう。アンナは別の事故で命を落としてしまった。

 運命は、まるでレオの介入を嘲笑うかのように、別の形で娘の命を奪い去ったのだ。飛行船の事故という「原因」を取り除いても、「アンナの死」という「結果」は変わらなかった。


「ああ……あああああああ!」


 レオの絶望の叫びが、静まり返った家に響き渡った。

 だが、彼の目にはまだ光が残っていた。掌には、銀の懐中時計がある。

 もう一度だ。もう一度やり直す。今度は、階段の金属球も片付けておく。床の僅かな染みも消しておく。部屋中のありとあらゆる危険因子を、すべて排除してやる。


「今度こそ……今度こそ、完璧に……!」


 狂気に満ちた瞳で、レオは再び懐中時計の竜頭を回した。

 運命との、終わりのない戦いが始まった。


 2. 錆びついていく心


「リセット」

「リセット」

「リセット」


 レオは、狂ったように時間をやり直した。


 二度目のやり直しでは、階段の金属球を片付けたが、アンナは古い燭台が倒れてきた下敷きになった。

 三度目は、燭台も片付けたが、彼女はアレルギー反応を起こすとは知られていなかった希少な薬草の粉末を吸い込み、呼吸不全に陥った。

 四度目、五度目……。運命は、レオが予測しえなかった僅かな隙間から、必ずアンナの命を奪いに来た。それはまるで、定められた結末に向かって、無数の川が必ず一つの海へ注ぎ込むような、抗いがたい世界の法則だった。


 ならば、とレオは考えた。

 危険が潜む「可能性」そのものを、すべて摘み取ってしまえばいい。

 十数回目のやり直しで、レオはついにアンナを「死なせない」ことに成功した。

 彼は事故の日に戻ると、アンナを連れて工房の地下室へと向かった。そこは、彼が錬金術の粋を集めて作り上げた、完璧な無菌室だった。空気は魔法のフィルターで浄化され、壁や床はあらゆる衝撃を吸収する特殊な素材でできている。食事はレオが成分を完璧に管理した栄養剤のみ。外部からの情報は一切遮断した。


 アンナは、世界で最も安全な鳥籠に閉じ込められた。

 その甲斐あって、アンナは死ななかった。

 十歳の誕生日を無事に過ぎ、十一歳、十二歳と歳を重ねていった。レオは安堵し、これが正しい選択だったと信じようとした。娘の命を守るためだ。父親として、当然の務めだ。


 だが、アンナは変わってしまった。

 地下室での生活が始まった頃は、泣いて外に出たがった彼女も、やがて何も言わなくなった。かつて星のように輝いていた瞳は、光を失い、濁った水面のように静かになった。彼女は一日中、部屋の隅で膝を抱えているか、虚ろな目で天井を眺めているだけだった。


 レオが話しかけても、生返事が返ってくるだけ。大好きだったはずの父親の顔を見ようともせず、その手を避けるようになった。

 レオは、娘の命を救う代わりに、彼女の魂を殺してしまったのだ。その事実に気づきながらも、彼はもう後戻りできなかった。この安全な世界を壊せば、またアンナが死ぬかもしれない。その恐怖が、レオを縛り付けていた。


 アンナが十五歳になった年のある日。レオはふと、親友ギルバートのことを思い出した。自分が狂気の研究に没頭して以来、一度も顔を合わせていない。彼なら、この息の詰まる状況を打開する知恵を貸してくれるかもしれない。

 レオはアンナに「すぐに戻る」と言い聞かせ、厳重に地下室の鍵をかけると、数年ぶりに外の世界へ出た。


 街の様子は、彼の記憶にあるものとほとんど変わらなかった。だが、ギルバートの工房に着いた時、レオは異変に気づいた。いつもならば錬金術の煙が立ち上っているはずの煙突は静まり返り、扉には錆びた鎖が巻かれていた。


「ごめんください! ギルバートはいるか!」


 レオが声を張り上げると、隣のパン屋の主人が顔を出した。


「あんた、誰だい? ギルバートさんの工房は、もう五年も前に閉鎖されたよ」

「五年……? 馬鹿な、彼はどうしたんだ」

「おや、知らないのかい。可哀想に……。五年前の飛行船レースの日、実験室で大きな爆発事故があってね。彼はそれに巻き込まれて、亡くなったのさ」


 パン屋の主人の言葉が、レオの頭を殴りつけた。

 五年前の、飛行船レースの日。それは、アンナが死ぬはずだった日。

 自分がアンナを家に閉じ込めた、あの最初のやり直しの世界。アンナが死ななかった代わりに、親友が死んでいたのだ。


 世界の理は、奪われるはずだった命の代償を求めた。アンナの命が救われた分、別の誰かの命が天秤に乗せられ、奪われたのだ。

 しかしながら、やり直した世界では親友ギルバートが代わりに命を落とす運命に変わっていた。

 レオはよろめきながら、その場に崩れ落ちた。


 なんということだ。自分は、娘の命を救うために、唯一無二の友を殺したのか。

 娘の心を殺し、友の命を奪う。それが、自分の犯した罪の代償。自分が作り上げた「幸せ」の、真の姿だった。

 懐中時計が、鉛のように重く感じられた。これは、奇跡の道具などではない。持ち主の最も大切なものを、一つ、また一つと奪い去っていく、呪いの道具だ。


「ギルバート……すまない……」


 嗚咽が、アスファルトの染みになって広がった。


 3. 幻影の涙

 工房の地下室に戻ったレオは、抜け殻のようになっていた。


 壁に背を預け、ただ虚空を見つめる。アンナは、そんな父を一瞥しただけで、また部屋の隅の暗闇に溶け込んでいった。父と娘の間には、分厚く冷たいガラスの壁があった。

 罪悪感が、レオの心を蝕んでいく。

 娘の笑顔を奪い、友の命を奪った。自分は、世界で最も罪深い男だ。こんな幸せに、何の意味がある?


 レオは懐中時計を握りしめた。もう一度やり直して、ギルバートもアンナも救える道を探すか? いや、そんなことは不可能だ。運命の修正力は、そんな都合の良い奇跡を許さないだろう。何度繰り返しても、誰かの犠牲の上にしか、自分の望みは成り立たない。


 絶望がレオを飲み込もうとした、その時だった。

 目の前の空間が、陽炎のように揺らめいた。そして、そこから一人の少女が姿を現した。

 パジャマ姿の、十歳のアンナ。

 レオが愛した、星の輝きを宿した瞳の、好奇心旺盛なアンナだった。


「アンナ……? なぜ……」


 それは、地下室にいるアンナではない。時間軸の歪みが生み出した、過去の記憶の幻影だった。

 幻影のアンナは、泣きそうな顔でレオを見上げていた。


「パパ……どうして、私を閉じ込めるの?」

「それは……お前を守るためだ。お前が死なないように……」

「死ぬのが怖かったんじゃない!」


 アンナは叫んだ。その声は、レオの心の奥底に突き刺さった。


「私は、パパと離れ離れになるのが嫌だっただけ! パパと一緒にいたかっただけなの!」


 幻影のアンナは、涙をこぼしながら続けた。


「パパの作る、変な味の薬が好きだった! 失敗して、工房が泡だらけになるのも面白かった! パパの背中で星を見るのが好きだった! 『あの星まで連れてって』って言ったら、パパ、いつかって約束してくれたじゃない!」


 その言葉に、レオはハッとした。

 そうだ。アンナは、危険な冒険そのものを望んでいたわけじゃない。大好きな父親と一緒に、何かを体験すること。成功も失敗も、すべて分かち合うこと。その「時間」こそが、彼女にとっての宝物だったのだ。

 安全な長寿でも、完璧な未来でもない。ただ、父との何気ない、温かい日常。それこそが、アンナが本当に望んでいたものだった。


「私はね、パパ。あの飛行船レースの日、死ぬのは怖くなかったよ。だって、パパが隣にいてくれたから。最後に見たのが、私の名前を叫ぶパパの顔で、よかったって思ったんだよ」


 幻影は、そっとレオの頬に触れた。その手は実体を伴わなかったが、レオには確かにその温もりが感じられた。


「だからもう、やめて。私のために、パパが苦しむのは嫌。友達を失うのも嫌。私を、パパの悲しい思い出にしないで。楽しい思い出のまま、いさせて……」


 驚いたことに、アンナが本当に望んでいたのは、危険な冒険ではなく父との穏やかな日常だった。

 彼女は、自分の死さえも受け入れていた。ただ、愛する父が、自分の死によって不幸になることだけを、悲しんでいたのだ。


「アンナ……すまなかった……。パパが、間違っていた……」


 レオの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。娘を守るという大義名分を掲げ、彼はただ自分のエゴを満たしていたに過ぎない。死という別れを受け入れられず、過去に執着し、生きている娘の心を踏みにじり、友の命さえ犠牲にした。


 幻影は、優しく微笑んだ。それは、レオがずっと忘れていた、太陽のような笑顔だった。


「ありがとう、パパ。大好きだよ」


 その言葉を残し、アンナの幻影は光の粒子となって消えていった。

 静寂が戻った地下室で、レオは嗚咽した。

 部屋の隅で、生身のアンナが、怯えたような、それでいてどこか羨むような目で、レオのことを見ていた。

 レオは、ゆっくりと立ち上がった。そして、掌の懐中時計を固く、固く握りしめた。


 もう、迷いはなかった。


 4. 最後の時間と未来への誓い

 レオは、最後の時間遡行を行った。

 彼が戻ったのは、やはりあの運命の日の朝だった。しかし、今度の彼の顔には、悲壮な覚悟も、狂気じみた執着もなかった。ただ、穏やかで、深い愛情に満ちた表情があった。


 階下に下りると、アンナが「パパ、おはよー!」と駆け寄ってくる。

 レオは娘を優しく抱きしめた。


「おはよう、アンナ。今日は二人で、最高の冒険に出かけよう」

「ほんと!? 飛行船レース、見に行けるの!?」

「ああ。レースも見るし、市場で一番大きな綿あめも食べよう。丘の上に登って、一番近くで飛行船を見るんだ」


 アンナは「やったー!」と飛び跳ねて喜んだ。レオは、その心の底からの笑顔を、瞼に焼き付けた。

 二人は手をつないで、賑わう街へと繰り出した。


 レオは、アンナがやりたがっていたことを、一つ一つ叶えていった。

 港の市場で、虹色の綿あめを買い、二人で顔をべとべとにしながら食べた。怪しげな露店で、音の外れたオルゴールを買い、その不協和音に腹を抱えて笑った。丘の上に登り、寝転がって空を眺めた。頭上を通り過ぎる飛行船の影に、アンナは手を振り続けた。

 それは、レオが何度もやり直す中で、決して手に入れることのできなかった、完璧な時間だった。失敗も、危険も、すべてが輝かしい思い出に変わっていく、魔法のような時間。


 やがて、レースのクライマックスが近づく。

 レオとアンナは、人混みを少し離れた、港の見えるベンチに座っていた。


「パパ、楽しいね!」

「ああ、楽しいな」


 レオは、隣で笑う娘の頭を優しく撫でた。この温もりも、この笑顔も、あと少しで失われる。だが、もう恐怖はなかった。悲しみだけが、静かに胸に広がっていた。

 運命の時刻。午後三時。

 遠くで、歓声と、何かが崩れるような轟音が響いた。

 レオは、何も言わずにアンナを強く、強く抱きしめた。


「パパ、大好きだよ」


 アンナが、レオの胸の中で呟いた。


「パパも、お前を世界で一番愛している。ずっと、ずっとだ」


 レオは娘を抱きしめたまま、空を見上げた。もう、悲劇の現場に目を向けることはなかった。ただ、この腕の中にある温もりだけを、永遠に記憶しようと努めた。


 その夜、レオは一人、工房に戻った。

 彼は懐中時計を手に取ると、港の突堤へと向かった。そして、満月が照らす海に向かって、それを高く放り投げた。銀の時計は、放物線を描いて闇に吸い込まれ、小さな水音だけを残して消えた。

 もう、やり直しはできない。

 レオは、運命を受け入れたのだ。


 数年の歳月が流れた。

 港町リューネブルクの片隅で、賢者シュタインは再び人々を救う錬金術師としての日々を送っていた。彼の工房には、いつも花が飾られ、壁には日焼けした一枚の写真が掛けられている。虹色の綿あめを手に、満面の笑みを浮かべる十歳の少女の写真だ。


 娘を失った悲しみは、決して消えることはない。時折、胸が張り裂けそうになる夜もある。

 だが、レオはもう過去に囚われてはいなかった。

 アンナと過ごした、あの最後の一日。彼女がくれた、たくさんの温かい思い出。その記憶こそが、レオを未来へと歩ませる道標だった。


 彼は空を見上げる。一番星が、優しく瞬いていた。


「見てるか、アンナ。パパは、ちゃんと前に進んでいるぞ」


 悲しみを抱きしめて、それでも未来へ歩み出すこと。愛する者との思い出を胸に、誰かのために生きること。

 それこそが、レオが長い絶望の果てに見つけた、本当の幸せだった。


 彼の錬金術は、もう二度と、死者のための禁術に使われることはなかった。ただ、生きる人々を癒し、その未来を照らすために。彼の心には、いつまでも娘の笑顔が輝いていた。


この度は拙作を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


愛する娘を救うため、時を巡るレオの長い旅路。その果てに彼が見つけた小さな光が、皆様の心にも温かく灯ることを願っています。


この物語が、何気ない日常の中にこそ輝く、かけがえのない時間の大切さを改めて感じるきっかけとなれたなら、著者としてこれ以上の喜びはありません。


またいつか、別の物語でお会いできる日を楽しみにしております。

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