36.初めてのお誕生会
八月に入って一週間ほど過ぎた、とある日。
いつものように午前と午後の時間を使って総一郎と亜矢子の授業を受けた。
授業といっても、諒一と涼葉は学校に行く目標ができたので実際に行われている授業との差異を埋めるように指導をしてくれていた。
長い間不登校だった諒一と涼葉はまともな授業を受けておらず、いざ登校して勉強について行けないなんて事にならないよう、実際に行われている授業に合わせて学習して、不足している知識がないようにと気を使ってくれているのだ。
特に英語や数学は基礎的な学力や方程式などを理解していないと、この先確実に躓く事になるので重点的に時間を取ってある。
そのせいで舞香は時間をずらし、個別に授業を受ける事になってしまっているのが、面倒をかけてしまい申し訳なくあるのだが……
この日の授業が終わり、教科書やノートをまとめていると、「あ」と隣の涼葉が小さな声をあげた。
どうしたのかと、諒一が涼葉の方を見ると彼女はスマホを取り出し画面を真剣に見ている。
「涼葉?何見てんの」
諒一が声をかけると、涼葉はスマホを諒一に見せてくる。そこにはいつも行くスーパーのチラシが表示されていた。
「今日からお盆に向けてのセールやってるの忘れてました。ほら、お醤油とお砂糖。それと私がいつも使うシャンプーがとても安くなってるんです。特にお醤油は数に限りがありますって書いてあるので……」
行かないと。と呟いてふんすと気合を入れている。
話している間もテキパキと荷物を片付けたあと、諒一に渡していたスマホを返してもらうとポケットにしまう。
「なので、ちょっと行ってきます。急がないとあのスーパー主婦の方が多いので、目玉商品すぐなくなっちゃうんですよ」
諒一の脳裏に以前遭遇した事のある、主婦達の戦場が思い出される。目玉商品が積まれて「今からセールを……」とマイクを手にした従業員の言葉は続かなかった。「あの、ゴッ!皆さ、ガン!もご…うっ、」キーンというハウリング音が響くなか、ワゴンに群がる主婦の皆様を見て、とてもじゃないがあの中には入って行けないと思ったものだ。
その中に入っていこうとしている涼葉を畏怖の眼差しで見つめていたが、やはり少し心配ではある。
「…………俺も行こうか?」
押し合う主婦達にもみくちゃにされる自分を想像して身震いしたが、なんとか口にする。
「涼葉ちゃん、もう行ったわよ」
そこには、にまにましながら俺を見ている亜矢子がいるだけだった。
「……見ないでください」
赤くなった顔を見られたくなくて、そらしながら言ったのだが亜矢子はますます楽しそうに見ている。
すると、亜矢子は何かを思い出したように真面目な顔つきになり口を開いた。
「そういえば、諒一くん聞いてる?あさって。」
「あさって?何かあるんですか?」
少し考えたが、何も心当たりがなかったから普通に聞き返すと、亜矢子は苦笑いをしながら「やっぱり言ってないか……」とガッカリしている。
「え、何かあるんですか?」
「実はね?あさって誕生日なのよ。涼葉ちゃん」
「え?」
誕生日などの話はした事がない。そういえば誕生日の話題になりそうになると話を逸らされていたような気もする。だから俺の誕生日も言ってなかったはずだ。
「その、誕生日……何かあったんですかね?」
聞いていいのかわからなかったが、気になった。だから口にしたけど、亜矢子が困ったような顔になるのを見て聞いては行けないのかもと悩む。
でも、できれば涼葉の生まれた日なのだからちゃんとお祝いしたい気持ちはある。
「うーん……去年の今頃は涼葉ちゃん、もうここにいたからね。私達は書類で見るから知っていた事もあって、誕生日のお祝いをしようとしてたんだけど……すごく悲しそうな顔をされて、拒否されちゃったのよね。うん、遠慮とかじゃくて拒否」
去年の今頃を思い出しているのか、亜矢子は悲しそうにそう言った。
遠慮じゃなく拒否。
惜しみなく愛情を向けてくれる亜矢子がそこまで言うのなら明確に嫌がられたという事なんだろう。
「諒一くんにならもしかしたらって思ったんだけと……いいの、聞かなかった事にしてくれる?」
困ったような表情のまま、亜矢子はそう言い残し教室がわりの部屋を出て行った。
諒一も勉強道具を片付けて席を立ち、部屋に戻ろうとしていたがどうしても気になる。
涼葉が嫌がるのであれば無理にやる事はない。が、気持ち的にはお祝いはしたい。すでに諒一の心の中では涼葉は特別な人になりつつある。
それがどういう特別なのかは、まだ自分でも計りかねているが……
涼葉が生まれてきてくれた事を喜んでいる人がいる事は伝えたいと思う。
部屋に戻っても何も手につかず諒一は悩んだ。悩んで考えて……スマホを手にした。
チャットアプリで涼葉にメッセージを送った。まだ涼葉は帰ってきていないはずだ。
しばらくすると、承諾のスタンプが返ってきた。それを見て手早く準備をすると諒一は部屋を出て行った。
その日の夕方。諒一が部屋で待っていると鍵を開ける音がして、買い物袋のカサカサという音と人の気配がリビングに近づいてくる。
それまで、やや緊張の面持ちでいた諒一はごくりと乾いた喉に唾を飲むと意識的に表情を取り繕った。
「や、ごめん涼葉。いきなり言って」
「いえ、いいんですよ?お料理を頑張る気になってくれて、教える私も嬉しいです」
今日はトンカツですよ。とニコニコしながらキッチンに入り準備を始めている。
誕生日の事を話したいと思った諒一は、最近よく料理を教えてもらっていて、その場合ここで調理をするのを利用した。
メッセージで送ったのは、また料理を教えてほしいという事だった。
疑う事もなく了承して、ご機嫌でキッチンに立っている涼葉の様子を見ながら、もしかしたら不機嫌にさせてしまうかもしれないと思ったら胃が痛くなる思いだったが、生まれてきてくれてありがとう。とそれだけを伝えて、純粋に受け取ってほしい。そう思う事を許してほしい。それが今の諒一の望みだ。
諒一もエプロンをして涼葉の横に立ち、調理の準備を手伝う。あらかじめ献立は聞いていたので、ネットなどで調べて大体の流れは理解していた。
涼葉は諒一が見たサイトよりも、色んな手をかけて調理を進めていき、時折諒一にもさせながら料理を完成させた。
たぶん諒一が自分でやったら絶対こうはならないだろうと思わせる見栄えのする料理が次々とテーブルに並べられていく。
「いただきます」
手を合わせて箸をつけると、これまで食べた事のあるものよりもうまい事に今更ながら驚く。
「いや、うまいなぁ」
「そんなしみじみと言われると面映いですね。でもありがとうございます。りょういちくんにそう言ってもらえるのが一番嬉しいです」
ニコニコと笑いながら安心したように言う涼葉を見て、また胸がチクリと痛む。やはり触れないほうがいいんじゃないか?という考えが浮かぶが、首を振ってそれを振り払う。
「りょういちくん?」
「え、なに?」
「……ううん。なんでもないです」
呼ばれたから返事をしたのに、涼葉はなんでもないと言う。不思議に思うがこの後の事を思うと、余計な事を考える余裕はない。
やがて食事も終わり、少しの間くつろいでいた。
「ちょっとお茶を入れ替えてくる。何がいい?」
何か飲む?じゃなくて飲む事を前提に聞いた諒一にすこし考えた涼葉は、じゃあコーヒーで……と返事をする。
コーヒー挽いてドリッパーに入れお湯を沸かしている間、どことなく涼葉も気になったような視線をチラチラと向けてくる。
きっと、何か諒一の態度に気になる所があったのだろう。もう後戻りはできない。
コーヒーを入れ、涼葉の前にも置く。涼葉は甘いコーヒーが好きなので、前に作ったカフェオレにしてある。
そっとカップに手を伸ばし、一口それを飲んだ涼葉が小さく「おいしい」と言ったのを聞いて諒一も一口飲んで喉を潤した。
コーヒーと共にためらいも一緒に飲み込む。
そして思い切って口を開いた。




