32.夏休み
明日から八月。世間の学生は夏休みである。外ではそんなものは関係ないとばかりに、出番が来た蝉が激しく鳴いている。
諒一たちも同学年の生徒からあまり遅れないようにと授業を受けているが、時間は数時間しかないので、あまり実感はない。
「りょういちくん、冷凍庫のアイス食べていいですか?」
「あーうん。」
「あ、これ私が入れたやつだ。」
午前中にある亜矢子の授業を終えてお昼ご飯を食べた後、涼葉と一緒に予習をしていたのだが、今は休憩中だ。
少し前にお互いに親近感を覚えている、という話をした。家族のように思っていると言って、呼び方も変わった。少しだけお互いの間隔が近くなった。近頃一緒に行動する事が多くなった涼葉は予習をするために諒一の部屋に来る事が増えた。それも大きな変化だ。
なぜ諒一の部屋かというと、女の子の部屋が気づまりな諒一と、涼葉は最悪諒一がいなくても部屋に入れる謎の鍵をもっているからだ。
「……確か今日、亜矢子さん家にいますよね」
アイスを食べながらチラシなどを見ていた涼葉が突然そんな事を言い出した。
「え?今日は俺たちの授業をした後……ああ、今日は家にいるからって言ってたな」
「ちょっとお出かけしてきます」
「え、何いきなり?」
急に出かけると言い出してびっくりしていると、涼葉はしばらく諒一を見てふいっと視線をそらした。
「ちょっと、です。」
「ああ、うん」
そこは別に自由だから行けばいいんだけど……
涼葉はさっと勉強道具をまとめて諒一の部屋を出て行った。
「お出かけかあ……」
そう呟いて、ふと思った。学校に備えて予習はしている。しかし、諒一は近所のスーパーに行くくらいでほとんど遠出はしない。涼葉が座っていたソファに座り、そこに拡げられていたチラシをなんとなく眺めていると、近所にできたプールのチラシが目についた。夏休みに合わせてオープンするらしいプールのチラシには健康そうな少年少女が遊んでいる写真がある。
諒一はおもむろにTシャツを脱いだ。
…………白い。細い。やばい、これ学校で馬鹿にされるやつじゃないか?
ちょっと鍛えた方がいいかもしれない。
そう思った諒一は熱中症対策をきちんとして運動できる格好になると、熱気漂う外に出て行った。
「……やばい、まじでやばい」
あじさいがあるマンションは五階から下は普通の賃貸マンションで家族で住む人も多い。近くには公園もある。まずは体ならしに木陰も多い公園で軽く走ってみようとしたのだが……
息がもたないし、すでに足が痛いし。なんならちょっと頭がフラフラするまである。公園のベンチで息を整えようと座っているのだが、一向に復活する気配がない。
「ねー、おかあさん。あのお兄ちゃん公園を半分も走ってないのに死にそうになってるよ」
「こら、指ささない。きっと他で走ってからここに来たのよ。」
「ああ、なるほど~」
幼気な子供と母親の会話が聞こえていたたまれなくなって立ち上がった。他でなんか走ってません。ここだけでバテバテですよちくしょう。
だが、ここでムキになってもいいことはない。素直にウォーキングに切り替えた。
「少しづつ体力、つけていかないとな」
そう呟きながら。
◆◆ ◆◆
「ふう……もうそろそろ帰るか」
ウォーキングを始めて二時間ほど経った。わりと物事に集中できる諒一はやりだすと時間を忘れる事も多い。公園にある時計を見ると三時半を指している。
たくさん汗をかいたが、心地よい疲れが体にある。これを日課にできれば少しは鍛えられるんじゃないだろうか。そう思いながら帰路に就くと、公園の出口付近にあの親子がいた。親子も帰るのか子供に手を洗わせている。
諒一には味わう事の出来なかった光景をまぶしいと思ったが、今の諒一の周りが割と心地よいからか、寂しさは浮かんでこなかった。自然と口元が緩むのを自覚しながらマンションに向かって歩き出した時だった。
「うわああん!」
「きゃああっ!」
さっきの親子と思われる声が聞こえて振り返った。何事かとおもったら、手を洗っていた水栓が壊れたのか水が吹き上がっている。びっくりしたのだろう子供は泣いているし、母親は盛大に噴き出す水におろおろしている。
「ま、そりゃびっくりするか」
冷静にそう言うと諒一は親子のそばに寄って、水浸しになった地面にしりもちをついている子供を起こしてあげた。そして手で水を止めようとしている母親を止める。
「ああ、お母さんだめです。人力じゃ止められませんよ。水圧ってバカになりませんし、下手したら怪我します。近くに水道メーターがあるはず…………あ、あれか」
鉄のボックスが地面にあるのを見つけ、近寄ってみると案の定量水器と書いてある。
「りょういちくん?」
それを開けようとしたところで、最近聞きなれてきた声が聞こえた。
「涼葉。今帰り?」
「う、うん。何事?」
涼葉の視線はいまだ水を噴き出している手洗い場にくぎ付けになっている。
「なんかいきなり噴き出したらしい。よっと」
話しながらもふたを開けて、水道メーターと併設してある止水バルブを閉める。するとあれだけすごい勢いで噴き出していた水が何事も無かったように止まる。
「とりあえずこれでいいけど……」
そう言いながら手洗い場付近を調べてみる。涼葉も泣いている子供をあやしてくれていた。お母さんはすっかり動揺してありがとうございますを連呼しているから助かる。
「お、あった。よかったどっか飛んでなくて。パッキンも残ってるし……」
呟きながらさっきまで水が噴き出していた水道の所に行き、見つけた部品をはめて力いっぱい締め付けた。
「工具があればもう少しちゃんとできるんだけどな……」
そう言いながらメーターボックスまで戻って、ゆっくりとバルブを開く。全開にしても水が漏れていない事に安堵してふたを閉めた。
「もう大丈夫ですよ。一応応急なんで公園の管理者に連絡だけしてもらっていいですか?」
そう言うと母親は何度も頭を下げながら帰っていく。ふと見ると、泣いていた子供と手をつないで帰る親子の影が長く伸びている。しばらくの間、その光景を二人とも目を細めて眺めていた。
「俺たちも帰ろっか?」
そう声をかけると、涼葉が諒一の事をじっと見る。とても真剣な目つきで。しかし何も言わず諒一の横に並んで歩きだした。
「はい。何してたんですか?公園で」
「……ほら、俺って白い上に細いじゃん?さすがにちょっとって思って運動してた。」
諒一がそう言うと涼葉は眉をひそめる。
「……いきなり運動して倒れないでくださいね?」
「……倒れそうだったから、まずはウォーキングからにしといた。」
「もう!」
涼葉がぱしぱしと背中を叩いてくる。
「ああ、ほら汗かいてるから……」
けして痛かったりはしないのだが、結構汗をかいているのでそれを触らせるのは気が引ける。
「ほんとだ。いい運動できたんですね」
ところが、にっこりと微笑みながら涼葉は嫌がる事もなくぺたぺたと背中を触れる。
「いや、だから汗……」
「運動してかいた汗はさわやかな汗じゃないですか」
「そんなもん……なのか?」
そんなやりとりをしながらも、頭の中ではどう説明しようかなと諒一は考えていた。




