27.お人形
季節が夏に足を踏み入れようとしている気配を感じるある日、諒一の部屋のリビングでは、テーブルに向かって教科書を開く姿が三つあった。
「お二人は、その……いつ頃から学校に戻るって考えとかあるっすか?」
いつもの事になりつつある諒一宅での勉強会で、舞香にしては珍しく、言いにくそうな雰囲気を出して突然聞いてきた。
「いきなりだね……行かないといけないとは思ってるけど、やっぱりまだ少し抵抗はあるんだよな。でも、一応もうすぐ夏休みだから二学期からなんとか……とは考えてる」
諒一がそう言うと、舞香は意外そうな顔をしている。
「意外としっかり考えてるんすね。三年くらい行ってないんでしょ?学校……」
「うん。でもここに来て学区が変わったから転校生として、一からスタートできる。自分なりに頑張ろうかとは思ってるところだな」
その通りできるかどうかはまだ分からないけどな、と笑うと舞香だけでなく、涼葉も意外そう顔で少しポカンと見ていた。
「ジブンは……学区はそのままなんで、小学校の時のクラスメイトも同じ中学だし……結構抵抗あるんすよね……だいぶ騒がれましたし」
どうしても学校の話題になるとみんな沈みがちになる。行かないといけないという強迫観念のようなものと、行くべき学校に行ってないという罪悪感。そういうのが織り混ざってのしかかってくるのだ。
普通に通っていれば気にもしない事だと思うが、それを考える事で余計に進めなくなるというのもある。
舞香は父親が学校に行かせなかったと聞いている。学校と揉めたとも……
「ジブンはまる二年くらいっすかね行ってないのは。オヤジ……中学校にも行ったらしいっすから。」
「中学校にも?」
「はいっす。小学校で揉めて言い分が通らなかったからそのまま中学校に行って同じ事を言ったらしいっす。亜矢子さんが教えてくれました。なんで余計に行きづらいんすよね」
クルクルとシャーペンを手の中で回しながら舞香はため息混じりに言った。
「どうして……そこまで、子供の邪魔を……」
涼葉はまるで自分のことのように悲しそうに俯いてそうこぼした。その言葉の中には自分の父親の事もまじっているんだろう。
「まぁ……分かりたくないっすけど、少しだけ理解できる所はあるんすよ。ジブン、姉と妹がいるんですけど、姉が高校に入る時に、ねだってスマホを買ってもらったんすよね?」
今時の高校生なら、そう珍しくない事だろう。全員がそうではないにしても友人が持っていれば、自分も欲しくなるだろうし……。
「オヤジはだいぶ渋ったんすけどね。仕方なくOKしたんす。それはいいんですけど……姉が友人に誘われて出会い系まではいかないけど、交流を目的としたサイトにハマって……あとはよくある話です。騙されて、会ったら脅されて……オヤジがあんな感じっすから、家族にバレたくなくて姉は言われるまま、お金とかも渡していたらしいっす……それで相手は調子乗って……色々姉に要求するようになって……」
「あ……」
舞香の話し出した内容に唖然としていると、突然声を出した涼葉が諒一の袖を引いた。その目は舞香を見ている。
諒一が見ると、いつからか暗い目をしながら、舞香は我を忘れたように喋っていた。おそらくそんな事まで話すつもりはなかったに違いない。ただ我を忘れて吐き出しているんだと思って、諒一は舞香の腕を掴んだ。
「諏訪崎さん!落ち着いて。一度止まろう、ね?」
腕を揺すりながら声をかけると、ハッとした様子で口を閉じた。
そこには、いつもの飄々とした舞香ではなく、悩んでいる女の子がいた。
舞香は深く俯いたが、すぐに顔を上げるとほんの少しだけいつもの飄々としたものをまとっていた。
「すいませんっす。つい話しすぎちゃったっす、一応言っときますけど、姉はもうそいつから解放されて元気に暮らしているっす。取られたお金は戻ってこなかったそうっすけど……まぁそんな感じでオヤジはスマホを持ったばかりにって、ネットなんかやるからって。そんな感じになっちゃったんすよね。元々昔堅気の頑固者だったっすけど……」
最後は普段に近い姿を装っていたけど、途中見せた姿は、姉を襲った不幸とそれによって異常に頑なになってしまった父親に翻弄されているただの女の子の姿だった。
異常な早さでここに入ってきたわけが、少しわかった。きっと周りも本人も限界だったのだろう。
「まぁ、そんな訳で行きづらいんすよねぇ」
いつもの調子に戻った舞香はヘラっと笑い、頭を掻いている。
「そっか……諏訪崎さんだけじゃなく、お父さんも辛かったんだな……」
自分や涼葉の父親の事があり、勝手に舞香の父親も悪者にしてしまっていた事に恥じて、諒一は思わずそう言ってしまった。
ただ、その言葉を聞いた舞香の反応は、意外なものだった。気まずそうに苦笑いを浮かべて目を逸らしたのだ。
「ん?諏訪崎さん……」
「いや、何と言うかっすね……この際言うっすけど、ジブンが衝撃を受けたのはそれだけじゃないっす。オヤジの本音を聞いたからなんすよ」
「本音……?」
首を傾げる涼葉に少し微笑んで舞香は話を続けた。
「端的に言うとオヤジにとって姉もジブンも道具だったんす。」
そう言うと舞香は机の上にあった自分のノートの名前をシャーペンで囲った。正確に言うと「諏訪崎」という名字を。
「「諏訪崎」ってなんか堅苦しい珍しい苗字じゃないっすか?苗字通りうちは結構な名家っす。それこそ何代も脈々と続いてきて、政財界にも顔が効くくらいの……」
珍しい名字とは思っていたが、舞香がそんな名家のお嬢様だったとは想像もつかなかった。
「オヤジは入り婿だったんすけど、そんな諏訪崎家にめっちゃ執着してて……姉はずっと家にとって都合のいい所に嫁に行く。そう聞かされて教え込まれて育ってきたっす。そんな姉が事件に遭ったのはネットが原因すけど、そもそも姉はオヤジの異常さにようやく気づいて逃れようとしていたんす。だから簡単に騙されて……」
「……ますます、そのお姉さんが不憫で仕方ない」
「そう言ってもらえてありがたいっすけど……そんな事になった姉をオヤジは突き放したっす。こんなんじゃ嫁に出せん。とか言って……で、オヤジは予備に目を向けたっす。まぁジブンっすね。だからこそ余計な知識を入れないように、情報を制御したくて、ネットを始めとしてテレビやラジオさえジブンの周りから消えたっす。オヤジは言ったっすよ。お前は「お人形」でいればいいって……嫁として恥ずかしくないよう、家事だけ覚えてればいいって……」
何と言うかやっぱり舞香の父親も最悪だった。少しでも同情したのが苛立たしくなる。
諒一は不機嫌さを隠しもしないでいたが、涼葉は違った。
「お人形……」
そう呟いた時の涼葉の表情は消えてしまいそうなくらい、はかないものだった……
「すいませんっす……こんな事話して。聞かされても困るっすよね?勉強どころじゃなくなったですし……」
しばらくして、いくらか落ち着いたのか舞香は困ったような笑顔でそう言った。ただ、諒一も涼葉もそうは思っていない。
「何を謝ることがあるの。諏訪崎さんは被害者だろ?聞かされて……悲しくはあったけどさ、困ったりしない。ここに来たからにはきっと少しずつ良くなると思う。その……俺たちも何かあったら手伝う、しさ」
涼葉と顔を見合わせながら諒一がそう言い、涼葉も諒一の言葉に深く頷いている。それを見た舞香は一瞬ハッとした表情になり、目の端に溜まった物をぬぐって笑った。
「ありがとうっす。そう言ってもらえるだけで……ここに来て良かったって思うっす。それに多分、そんな事を言ってくれるお二人だからこんな事話せたんだと思うっす。やっぱりお二人ともやさしっすね……」
真正面からそう言われ、諒一は少し照れたように口ごもる。
「そ、そうか?普通だろ……だれだって、助けようとくらいするだろ」
そんな諒一のそでをつまんだまま涼葉も何度も頷いている。
その様子を見た舞香は嬉しそうに笑った。
「ふふふ……そんなことないっすよ。ジブンはお二人に会えてよかったって思ってるっす……潤いも大事っすから」
最後に訳の分からない事を言って、舞香はまた笑った。ただ、何度聞いてもその意味は教えてくれない。
「ふふ……今日はもう勉強にならないっすね……ジブンは今日はもう帰るっす」
そう言って舞香は勉強道具をまとめだした。
「あ……」
その舞香に涼葉が手を伸ばした。
「?ああ……大丈夫っすよ?お二人に話を聞いてもらって、助けてくれるって言ってくれたっす。それで十分頑張れるっす」
しっかりした顔でそう告げると、バッグに道具をしまう。そしてさっさと立ってしまう。
とりあえず涼葉と二人玄関まで見送ったけど、その時にはいつもの調子に戻っていた。




