13.父親
諒一がラウンジに入った時には、普段は明るく落ち着いた印象のラウンジが、重く暗い雰囲気が支配していた。
その中で涼葉は涙を流す寸前のような顔をしている。諒一が足音をさせて入ってきたからか、さっきまで涼葉の肩に回していた手は降ろされていて、涼葉の父親は諒一の動きを意識しているように見える。
涼葉は諒一の顔を見た瞬間、何か言いたげな顔をしたが、すぐに諦めたような表情になり今は俯いている。子供にそんな顔をさせる親に怒りが沸くが、諒一ができる事は少ない。他人の家庭の事に首を突っ込む権限はないし、涼葉と親しくしているわけでもない。
−−それでも、優しい卯月さんにあんな顔をさせていいわけはないし、なんか……他人事とは思えない。
まだ付き合いは浅いし、ほとんどまともに話した事もないが、涼葉は心優しく真面目な少女というのが諒一の評価だ。
諒一と同じく引っ込み知りではあるが、諒一の部屋に知らずに入った時もすごく申し訳なさそうだったし、どうにかお詫びをしようとしていた心優しい子だ。
普段の態度も真面目だし、そんな子がなんでここに入る事になったのか少し気になっていたのだが、どうもあの父親が原因な気がしてならない。
「なぁ涼葉。父さんと帰ろうじゃないか。……父さんはお前の事が大切なんだよ。こんなとこにいつまでもいても何も変わらないだろう」
涼葉の父親は、話しながらもチラチラと諒一の方を見ている。
諒一はそれを直接見ないようにしながら、わざとゆっくりした動きで自販機でジュースを買い、その場で開けてスマホを見ながら飲み始めると涼葉の父親は、だんだんと不機嫌な表情になっていく。
「なあ君」
苛立ちの混じった声で話しかけてくるので、諒一はわざとすっとぼけたような声で返事を返す。
「はい?」
「悪いんだが、少し込み入った話をしているんだ。部外者は遠慮してくれないかな?」
言葉はまだ丁寧だが、その顔はさっさとどっかにいけと語っている。ちらりとスマホに表示されている時間を見ると電話をしてから十分も経っていない。
亜矢子がどんなに急いで帰ってきてもあと二十分はかかるだろう。
表情に出ないように諒一は歯噛みした。もちろん意識的に邪魔をするつもりで諒一はラウンジに居座っている。他人がいればあんまりな事はできないだろうとかんがえたのだ。
なんとか亜矢子が来るまで時間を稼ぐつもりだったが、涼葉の父親は、さっさとあっちに行けと言わんばかりの顔をしている。
ただ、その父親の隣で目に涙を浮かべて、何かを訴えてくるような涼葉の顔を見た瞬間、胸の奥にカッと熱いものを感じた。
ちりん
最近よく聞くその鈴のような音は、まるで諒一の感情に同意しているように感じた。
「ふふ……」
「なんだ、何がおかしい!」
諒一が笑うと父親は苛立ったように食いついてきた。その焦り方が、何かやましい事があるのだと思わせる。
「ああ、すいません。いや、僕もラウンジでゆっくりしようと思って降りて来たんで……。でも、ここ公共の場ですよ?込み入ったお話があるなら、もっとプライバシーが確保された場所でお話ししたほうがいいんじゃないですか?」
そう言って周りを見る。今は誰もいないが、誰でも利用できるようにソファとテーブルがあるオープンなスペースなのだ。そういう意味合いを込めて。
これで、父親がそれなら涼葉の部屋に行こうと言い出すと困った事になる可能性も考えたが、涼葉の様子を見る限り部屋には入れないだろうと思ったし、そうなれば諒一も邪魔をするつもりだ。
そしてさっき「ちりん」と音がした時、自然にスマホに目が行ってある事を思い出していた。
自分の言う事を聞かず、スマホをいじりだした諒一に涼葉の父親はわかりやすく舌打ちをして、苛立ちを向けてくる。諒一はそれをあえて無視して、触っていたスマホをテーブルに置くと思い出したように涼葉の方を向いた。
「あ、そう言えば卯月さん。亜矢子さんが呼んでたよ。何か用事があるんじゃないかな?」
父親の牽制になるかと思い、でたらめな話を涼葉に向かって言うと、父親がニヤリと嫌らしい笑みを浮かべ、涼葉は何か言いたげな顔になったが、口を開いただけて言葉は出てこなかった。
そして父親が鼻を鳴らして言う。
「ふん……何言ってるんだ。今日この時間はあいつらは市役所に行ってるはずだ。こっちはちゃんとわかってるんだよ。いいからさっさと……」
父親か、そこまで言ったところでテーブルに置いていた諒一のスマホが鳴り出す。着信を知らせているスマホに、全員の視線が集まるなか、諒一は何食わぬ顔でスマホを取って通話をタップする。
「はい……あ、いま一階のラウンジです。もうすぐ戻りますよ。はい、卯月さんもここにいるから一緒に戻ってきますね。あ、でもなんか卯月さんのお父さんって人が来てて……」
父親の方を見て、それらしく諒一が言うと、涼葉の父親は憎々し気に諒一を見てから、舌打ちを一つ残すと立ち上がり足早に歩き出した。諒一に肩をぶつけるようにしてラウンジを出て行った後、背後で自動ドアの音がしたところで話をやめる。
振り返って立ち去る涼葉の父親の背中が見えなくなるまで見てから、溜まっていた息を吐いた。
そして、怒りが恐怖かわからないが震えている手を、隠しながら涼葉の方に向き直る。
涼葉は立ち去る父親の背中をジッと見ながら、震える体を抱いていた。
「ごめん卯月さん。もしかしたら余計な事をしたかもしれない。他人の俺が立ち入って来るべきじゃなかったって思うし、卯月さんもプライベートな事に関わってほしくなかったと思うけど、なんか普通じゃなかったというか……黙ってられなかったから……」
とりあえず無遠慮にプライベートな部分に踏み込んでしまった事へのお詫びを言う。頼まれたわけでもないのに、それほど仲がいいわけでもないのに、勝手に介入されて気分を害していないか、心配になったのだ。
その言葉を聞いて、ようやく諒一の顔を見た涼葉は、涙を押し殺すように、喉を震えさせながら声を出した。
「あ、あの……いいえ。ほんとに助かったです。怖かった……」
そこまで言うと堪えきれなくなったのか、ポロポロと涙をこぼし始めた。きっと父親の前では弱みを見せたくなくて我慢していたんだろう。諒一はどうにかなぐさめたいと思ったが、悲しいかな手段が思いつかない。これが親しい間柄だったら頭や背中をなでてやったり、抱きしめたりするんだろうが、諒一が今それをしたら問題が増えるだけである。今の諒一には黙って見守る事しかできない。それでも涼葉はそれほど長くは泣かなかった。
「ごめんなさい。でも電話大丈夫ですか?」
涙を拭きながら涼葉は諒一のスマホを指して言った。さっき着信があってそのままにしているんじゃないかという事だ。
「ああ、これ?これ本当に電話がかかってきたわけじゃないんだよ。携帯で111って押して発信したらしばらくしてかかって来るんだ。確か回線の確認用かなんかだったと思うけど……不思議なんだけど、さっき急に思い出したんだ」
諒一がスマホの画面を見せながら説明する。スマホの画面は待ち受けの状態に戻っていた。少しでも気がまぎれたらなと思った諒一は実際に111と押して発信してみせた。着信テストをしますと言うガイダンスが流れ、電話を切って待っていると確かに電話がかかってきた。
「ほらね?こう、付き合いで仕方なく参加した集まりとか、早く帰りたい時にこそっとやったりする。意外と便利。卯月さんはあんまりこういう事しなさそうだけど……」
真面目そうだからと思ってそう言ったのだが、涼葉が微妙な顔をしている。何かまずいことを言ったかな?と思って様子を窺っていると諒一が見ている事に気付いた涼葉が少し慌てて言った。
「あ、ごめんなさい。その、お願いがある、というか……卯月って苗字、私嫌いなんです。あの人の苗字だから……戸籍上そうなってるから仕方ないんですが……」
諒一の顔をチラチラと見ながら、言いにくそうにそんな事を言った。
「ああ……卯月さんって呼ばない方がいい?でもそしたら名前呼びになっちゃうけど……」
諒一がそう言うと、涼葉は恥ずかしそうにだが頷いた。そう言われると呼び方を変えるしかないのだが結構恥ずかしいものがある。
「えっと……じゃあ涼葉ちゃんでいい?」
脳内で行われたオーディションでちゃん付けが勝ち残った。涼葉さんというとすごく親し気にというかなんとなく自分が落ち着かない気がするし、呼び捨てにするような間柄でもない。
諒一の言葉に若干不満げな様子を一瞬だけ見せたがすぐに笑顔に変わった。
笑顔を見せてくれた事に諒一はほっとした。さっきまでのおびえたような顔を思い出す。そんな顔を娘にさせるなんてあの父親は何をしたんだろうか……
わずかな憤りと共にそう思ったが、諒一が踏み込んでいい内容でもないだろう。とりあえず自販機で温かいココアを買って卯月……涼葉に渡すと、嬉しそうに受け取ったので、諒一はホッとしていた。
涼葉がそれを飲む間無言でそばにいたが、やがて激しくタイヤを泣かせながら一台の車が駐車場に入ってきた。どうやら亜矢子だけじゃなくて総一郎も帰ってきたようだ。
助手席から転がり落ちるように降りてマンションの中に駆けこんできた亜矢子は、ちびちびとココアを飲む赤い目をした涼葉とそばに寄り添うように座っている諒一を見て、一瞬ぽかんとしていたがやがて大きく息を吐いて笑顔を浮かべた。




