123.運転免許証
諒一と涼葉が仲裁したところで、舞香はようやく気を落ち着けて、十郎は項垂れていた首を上げた。しかし問題はここからだった。
「で?あらためてどうするっすか?ああ、お二人ともそんな顔しないでくださいっす」
元のセリフに戻った舞香は、不安そうな顔になった諒一と涼葉に、静かに言った「もう怒ってはいないっす」と。
「現実問題っす。じーちゃんが足首を捻挫した事で、車はもう動かせないっす。ウチの旅館で車を動かせるのはじーちゃんと、住み込みで働いてる蕃さんっておじさんだけっすから。その蕃さんも今は休暇で帰ってるみたいですし……この辺には他に泊まれるようなところもないっす。最悪、このおんぼろ車の中で夜を明かす事になるかもしれないっす」
現実的な問題を積み上げていくたびに、再び十郎さんの首が下がっていく。そして今度は諒一も事の重大さに気付いていた。
「あの、他に誰か運転できる人にお願いできないんですか?お知り合いとか……」
涼葉が声を上げたが、それに答える声は出ない。黙って舞香は首を振った。
それを見ながら、諒一はそっと運転席のドアを開けた。
「やっぱりマニュアル車か……」
見た目の古さと、商用バンに多い車種から想像できた。
「あの、りょういちくん。どうかしたんですか?」
舞香と十郎は、後部座席の所で、心当たりを思い出し合っている。あまり芳しくないようだが……そんな中で一人運転席を見に行った諒一を気になったのか着いてきたようだ。
「ああ、二人が今頭を抱えている問題。この車、マニュアル車なんだ」
諒一がそう言ったが、涼葉は首を傾げた。
「私、車の事詳しくなくって」
申し訳なさそうに言う涼葉を慌ててフォローする。
「いや、今のは俺が悪かった。よっぽど車好きじゃないと知らなくても全然おかしくないよ。えっとね、今の車ってオートマチックって操作が簡単な車が多いんだ。運転免許もオートマ限定とかがあって、それしか持ってない人も多い。でもこの車はマニュアル車っていって、クラッチ操作が必要になるんだ。ええと、とにかく一般的な車よりも操作が難しいんだよ」
説明していくと長くなりそうなので、ふんわりとした説明にとどめる。涼葉もなんとなくは分かってくれたようだ。この車がマニュアル車というのも運転できる人が限られてしまう原因の一つなんだけど、問題はまだある。
「この車って後輪駆動ですよね?」
舞香たちの所に戻った諒一は十郎にそう聞いた。十郎は「ほう」と感心した顔になりながら頷いた。一般的に後輪駆動車は悪路に弱い。いくら雪道用のタイヤを履いていようが、雪道に慣れ親しんでいようが後輪駆動車は嫌がる人も多いだろう。
そう考えていると、そっと服の裾を引かれた。そこには遠慮がちな顔をした涼葉がいた。
そして、少し舞香たちの方を気にすると、小声で聞いてきた。
「あの……りょういちくんって、車の運転とかもできたりしますか?」
「あ……」
その言葉から諒一は考え込んでいる。涼葉の質問に対しての答えはイエスだ。田舎では車の免許は必須だし、仕事でも現場に行くのにも車を運転できないとお話にならない。
ただ、だからと言ってここで諒一が十郎が乗ってきた車を運転するのにはかなり高いハードルがいくつもある。まず、今の諒一は公的に車を運転できる資格を持っていない事、中学生の諒一に戻ってから半年くらいしか経っていないが、以前の諒一も晩年はそれなりに入院していて、結構な期間車を運転していない事。
大きい問題でもこれだけ出てくる。
そう言う問題を話しているうちに、舞香たちの方も話が進んでいたようだ。
「おうい、すまなかったな、寒い中待たせちまって。出発するから乗ってくれ!」
そう言って、車に乗るように言葉と手ぶりで示してくる十郎と、その隣で納得できない顔で立っている舞香。そこはかとなく嫌な予感が漂っていた。
「ようし、じゃあ出発するぞ!シートベルトはしっかりしてくれな!」
運転席から振り返った十郎は陽気な声でそう言ってきた。それでも舞香の顔を見ると不安は消えなかった。
「……だいじょぶなの?」
そっと舞香に聞くと、口を一文字に結んでいた舞香はぽつりと言った。
「すいませんっす。わかんないっす。でもじーちゃん、もう痛くない、大丈夫だって言い張って……」
そう言った舞香に涼葉が口元に手を当てて言った。
「ええっ!あんなに腫れてたのに……多分動かすだけで痛いはずですよ?ペダルを踏まないといけないんですよね?」
そう諒一に聞いてくる。十郎がひねったのは左足首。左足は、車を動かすのに頻繁に踏んだり、微妙な動きを求められるクラッチ操作に使う。
頷いた諒一を見て、三人は同時に運転席の十郎を見た。軽い振動と共にエンジンがかかり、十郎がギアを入れようとクラッチを踏んだのだろう。「うぐっ!」と痛そうな声が聞こえてくる。
「ちょ、大丈夫っすかね。事故とか一番まずいっすよ……」
不安そうにしている舞香に、そんな舞香を見て涼葉も心配そうな顔をして見ている。そしてなんとかギアを入れて発進しようとした車は、前後に大きく揺れてエンジンが止まった。
「え、ちょ。止まりましたよ?」
それに涼葉は不安げな声を出している。
「すまねえ、ちょっとばかり感覚がにぶってやがる、へへ、エンストしちまったい」
そう言いながら十郎は再度エンジンをかけて進もうとして、またエンストを起こしていた。やはり腫れあがって痛みもある足で、繊細なクラッチ操作は難しいのだ。
「りょういちくん……」
泣きそうな涼葉と目があう。きっと涼葉は怖いのもあるだろうが、脂汗をかきながら何とか車を動かそうとしている十郎を見ていられないのだろう。実際に手当をして、怪我の具合を知っているだけに余計に……
そして、そんな涼葉を黙って見ていられる諒一でもなかった。再度動かそうとして、またエンストしてしまった十郎さんに待つように声をかけて、諒一はスライドドアを開けて、降りると運転席の方に回った。
周りを見ても、人気も車通りもない。ほんとは絶対にしてはいけない事だけど……何かあったら俺が被ろう。
何より泣きそうな涼葉を見ていると、胸の奥がモヤモヤしていてもたってもいられなくなるのだ。
万が一捕まったら重い罰が待っているが、ここで立ち往生していたら最悪凍死もあり得るんじゃないかと思うほど気温は落ちている。
まだ昼過ぎでこの気温だ。夕方になって夜になればもっと気温は落ち込むだろう。
さっきまで感じていた寒さも、不思議とそれほど感じないまま、諒一は運転席のドアを開けた。訝しんでいる十郎さんに諒一はストレートに言った。
「実は俺、車の運転できるんです。それほどうまい訳ではありませんけど、多分怪我してる十郎さんよりは安全に動かせるかと思います。その……無免許だし、もし捕まったら十郎さんまで罰せられるかもしれませんけど……」
話しているうちに、うろ覚えだがその罰則の可能性まで思い出して尻つぼみになりながらも、諒一は運転を替わりましょうと告げた。
すると、十郎は真剣な顔になって聞いてくる。
「それは本当かい?こんな状況だ贅沢は言ってらんねえが、人様の命がかかってる。俺を見かねてってのは分かるが……簡単な気持ちで言われるのは困るぜ?」
「簡単な気持ちでは、ないです。俺にも事情があって……詳しくは話せませんが運転歴は長いです。まあ少しブランクはあるんで少し練習はしたいですが……」
諒一がそう言うと、半分疑っている様子だった十郎だったが、無言で助手席の方を指した。
「この先に広い場所がある。自動販売機もあるから舞香たちには温かい飲み物でしばらくこらえてもらおう。なに、そこまでは足が引きちぎれても行って見せるから、ほら、助手席に乗りな」
最後はニカッと笑いながら十郎はそう言った。そして言葉通り、何度かエンストしながらでも十郎が言う場所までは進んで見せたのだった。
「さて、じゃここで見させてもらうぜ。何、少々ぶつけてもおんぼろだから気にしなくていい。それにな、この広場から先はうちの山だ。ウチの人間以外はほとんど通らねえ。まあそれでも問題はあるんだろうが……なんかあったら俺も一緒に責任取るさ!」
そう言うと十郎は諒一の肩をポンと叩くと、舞香たちを連れて暗い山道にポツンと光を放っている自動販売機の方に行った。
唖然としながらも諒一は、随分軽くなった心で運転席のドアを開けるのだった。




