9.引っ込み知り
キッチンの背面にある食器棚には、かごが置いてある。そこにはカップラーメンや温めるだけのレトルト食品などが入っていた。この部屋は基本的な家具が最初からついているし、こうしたちょっとした食べ物やお茶なんかもあらかじめ置いてあった。あるものは好きにしていいからね。と亜矢子が言っていたが、こんな至れり尽くせりでいいんだろうか……と、ついつい考えてしまう。
この部屋は自立支援団体あじさいの名義で、家賃はもちろん水道光熱費も一定までは自治体が負担してくれるらしい。
あらためて一人になってシーンとした部屋を見渡す。対面式のキッチンはシステムキッチンでIHコンロがついている。後ろの壁一面には食器を納めた棚がある。
今は一人分の食器が用意してあってガラガラだが、小さめの炊飯ジャーも収まっているし籐のかごには今取ったカップラーメンのほかにもちょっとしたレトルト食品がある。
振り返れば、広めのリビングにガラス製のテーブルとソファ。それと向かい合うようにテレビ台があってテレビも据え付けてある。その先には今はカーテンが締まっているがベランダがあるようだ。
リビングに行ってキッチン側を見ると、キッチンがある上にはロフトになっているようでスペースが広がっている。
リビングから玄関までは短い廊下があり、トイレと洗面所、ユニットバスが並んでいる。
これまで住んでいたところに比べると天と地ほどの差がある。各所にちゃんと収納もあり、とてもいい物件だとわかる。普通に借りたらいったい家賃はいくらくらいするんだろうと思うと思わず顔が引きつるくらいだ。
そうしてあちらこちらを眺めていたら台所からお湯が沸騰するような音が聞こえだしたので台所に行こうとした時だった。
ぴんぽーん
軽やかな電子音が部屋に鳴り響いた。思わず時計を見ると時間はもう十一時を回っている。こんな時間にいったい誰が……そう思いながら、とりあえずやかんが沸騰しているIHのスイッチを切ってインターホンを見に行く。
このマンションは滅茶苦茶セキュリティがしっかりしているので不審者という事はないだろうけど……と、独り言ちながらリビングの入り口の壁にあるインターホンの受信機のボタンを押すとモニターにはうつむいて立っている涼葉の姿が映っている。
「え?どうして……あ、なんか忘れ物かな?」
そう考えながら玄関に向かう。涼葉はこの部屋の鍵を開けることができるんだから入ってきてもいいんだけどな、などと本当に実行されたら動揺してしまうであろうことを考えながら鍵を開ける。そんな事を考えつつ不用意にドアを開けた諒一は息を飲むことになる。
ちょうど目の前の近い位置に涼葉が立っていたからだ。
真正面から見つめ合う事になってしまい、油断していた諒一の心臓は激しく暴れだしている。背中まであるつややかな黒髪はゆったりと後ろに流して、整った顔立ちの大きめの瞳が驚いているのか、さらに大きく見開かれている。
見つめ合った時間は数秒だろう。しかし結構な時間まじまじと顔を見つめていた気になり、諒一は慌てて視線をそらした。
「ご、ごめん。え、と……どうかした?」
ばくばくと心臓が暴れ出し、頬に血が集まってくるのを感じながらやっとのことで声を出した諒一の言葉を聞いて、同じタイミングで目を逸らしてうつむいていた涼葉はおずおずと手に持っていた物を諒一に差し出した。
「え?」
小さめの白いお皿にラップにくるまれたおにぎりが二個置いてある。そのお皿を諒一に押し付けるようにしながら、消え入りそうな声で話し出した。
「そ、の……今日は本当にごめんなさい。気づかなくて……勝手にお部屋、入って……」
多少つっかえながら一生懸命といった様子で涼葉がそう言うのを聞いて諒一はようやく意味を理解した。たぶん涼葉は、諒一の部屋に勝手に入って寝てしまった事をまだ気にしているのだろう。そしてさっき別れるときにお腹がなったのも気づいていたのかもしれない。涼葉は前からここに住んでいるから、近くに買い出しできるような所もないと知っている。
それでお詫びとして、こうしておにぎりを握ってくれたのではないか、と。
とても申し訳なさそうにしている涼葉の顔を見て、間違いないだろうと思った諒一はわざと明るく言った。
「ごめんね、ありがとう。ちょうどお腹すいてカップラーメン食べようと思ってた。ありがたくいただくね?あと、俺の部屋に入った事はもう気にしなくていいから。卯月さんのせいじゃないし。」
「鍵が開くのが悪い」と言いながら涼葉の差し出しているお皿をありがたく頂いた。
諒一が気にするなと言った事、それからおにぎりの皿を受け取った事に少しだけほっとしたような表情を浮かべた涼葉だったが、すぐに何かを思い出したように眉を下げた。
「でも……私の鍵で開いちゃうし、その……勝手に入ったりはしないけど、嫌だろうな、と」
ふんわりと眉を下げてそんな事を言う涼葉は、きっといい人なんだろうと思った。隣に住む人がいい人で、なおも申し訳なさそうにしている涼葉でよかったと諒一は思った。まぁお隣さんといってもそう頻繁に関わるような事はないだろうが、悪い人じゃないに越した事はない。
「まぁ、それもあんま気にしなくていいかな?逆だと問題だけど、卯月さんは俺の部屋なんか興味ないでしょ?悪い事する人には見えないし、俺は気にしてないよ?」
そう言うと、涼葉は顔を上げてまんまるにした目で諒一を見つめて、すぐに逸らした。
「あ、ありがとう……ございます。その……お、おやすみなさい」
それだけ言うと涼葉は丁寧な仕草で頭を下げると早足で自宅に戻って行った。玄関を開けて中に入るまで見送った後諒一もドアを閉めて鍵をかけた。
そして手に持つお皿に目を落とす。
ラップにくるまれた何の変哲もないおにぎりがあるだけだが、意識しなくても口角が上がるのがわかる。
諒一がお腹がすいているだろう事を察して、負い目があったからかもしれないが、こうしてわざわざおにぎりを作って持ってきてくれた事が素直に嬉しい。
「……この近くコンビニもなさそうだったもんな。カップラーメンだけで我慢するしかないと思ってたけど……」
この施設で生活しているのだから、涼葉も何かしらの問題を抱えていて学校に行っていないのだろうし、諒一と同じく人見知りに見える。
慣れない人と話すのは得意ではないのに、わざわざ諒一の部屋を訪ねてまで気を使ってくれたというのが嬉しかった。
すっかり気分が上向きになった諒一は、ご機嫌でカップラーメンにお湯を注いだ。
カップラーメンもおにぎりと並んでなんだか嬉しそうにしている気がした。




