第三章 陰極の口づけ
第一節 追撃の霧
重いブーツの音が、霧を踏み砕いていた。
背後で低く唸る共鳴灯の帯域が、警告の唸りを伝える。
影歩きの位相がわずかにずれる──指先が冷え、胸骨が一瞬震える。
左斜め後方、路地の輪郭がガラスのように硬化していくのが視界の端で分かった。影封じ灯が作動している。
「左へ、三歩」
カイの声が短く響く。私たちは同時に路地の端を滑り抜けた。
第二節 偽鳴の鐘
奥の広場で銀の鐘が鳴った──だが、その波形は均一ではなかった。
「基底-12、倍音に濁り──偽鳴だ」
私は即座に解析結果を口にする。
罠の美しさに、一瞬、胸が高鳴る。制御された危機は、救済と同じ甘美を持つ。
「影は光の随伴者。律に従え、交差陰。」
第三節 無音の影
白衣を纏った影が霧の奥から歩み出る。
音を連れてこない足音。
その口は動くが、空気は震えず、無音の口の形だけが見える。
カソード司祭だ。
視線が絡む瞬間、心拍が無音化し、思考が凍結する感覚が襲う──足裏から熱が抜け、時間の感覚が薄れていく。
「鼓膜の内側から音が引き抜かれ、世界の輪郭が薄紙になる。」
第四節 帯域の刃
自制プロトコルが発動する──心臓の弁が軋み、ナノ粒子が冷たい汗のように滲む。掌に温もりが宿り、全身の律動が一つに統合される。
「カイ、灯せ。安らぎを、混沌の中に。」
共鳴灯の閃光が路地を白く満たす。
司祭の無音の唇が、新たな言葉を紡ぐ。
「苦痛はノイズ。自由は静寂。我らの口づけは、あなたに永遠の安寧を与える」
私はその言葉を帯域に刻み、影封じ灯の硬化面に衝撃を与える。
交差陰が再び編まれ、光帯がひび割れる。
司祭の影が裂け、無音が揺らいだ。
私は帯域の刃を編み──銀の光を纏った、微細な刃紋が空間に閃く──首筋へ迫る「陰極の口づけ」を切り裂きながら、はっきりと宣言する。
「苦痛なき自由は隷属。選択の痛みこそが、真の解放だ」
第五節 挟撃の構え
司祭が後退した瞬間、東の路地で第二の鐘が鳴る。
私は帯域の波を広げ、遠隔から影を編む。
カイが即座に反応し、二方向からの挟撃態勢が完成する。
「エリスティア様、我が主よ。あなたの審判の眼で、この闇を裁き給え。」
遠くで鐘が七度鳴り、七度目だけが真音だった。