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自由の鎖

作者: ギオ

あらすじ:

1951年、日本。

戦争の傷跡が日常の表面下で今なお脈打つ中、ひとりの孤独な少女が、奪われた平穏を必死に取り戻そうとしていた。テントスナ・マコトは、身体に刻まれた傷と、それ以上に見えない無数の心の傷を抱え、静かな不安とどこにも属せない感覚に押し潰されながら、日々を生きている。

そんな彼女の壊れた日常に、ひとすじの優しい声――新しいクラスメイト、ハナの存在が差し込む。

だが、運命が彼女を街の忘れ去られた路地へと導いたとき、マコトの世界は再び砕け散る。そこには、廃墟と闇、そして儀式のような暴力が渦巻いていた。その中で、彼女の中に眠っていた何かが目を覚ます――

それは、最も深い恐怖から生まれた黒い鎖。制御不能なそれらは、美しく、そして恐ろしく、生きている。

その瞬間から、マコトは影に潜む未知の力と対峙するだけでなく、自身の力が「贈り物」ではなく、癒えぬ痛みの“残響”であることにも向き合わなければならない。



日本・昭和時代・1951年末

もしも、この力が祝福ではなく、ただ死と苦しみを見届ける呪いにすぎないと知っていたなら……。

遠くから、混沌とした美しいコレオグラフィーが広がる。炎に包まれた人間の戦士と、威厳ある暗黒の姿が、赤や金の光と影の戯れの中で雲を染める。太陽が彼らに落ちかかっているかのようだ。戦士は鷹の仮面をまとい、その意志の烈しさを象徴している。若者の動きは鋭く、拳がまるで機関銃のように次々と飛び出し、噴き上がる蒸気の渦巻きを空中に描く。一方、敵はゆっくりだが致命的な斬撃を繰り出し、進行方向の木々を裂く風の波紋を巻き起こす。地面は溶け、火花が火と刃の衝突ごとに散る。顔を覆う汗と灰。拳ひと揺れひと揺れが宇宙を焼くかのようだ。それはまるで、一人の男の拳を中心とした渦そのものだった。

こんな贈り物を背負うなんて、到底受け入れられなかった。

かつて賑わっていた日本の一地区は、今や粉塵と霜で覆われ、金属と融合した背の高い女戦士が、生ける悪夢のように進み出る。彼女の前には、青い髪と梟の仮面を同じくした女性が、氷の弓を携え、混沌の中に静寂をもたらすようだ。手を掲げると、蒸気を纏った氷の矢が生まれ、放たれた後も霜の軌跡を残す。対する異形もゆっくりと動き、鋭い指先が触れるだけで命を削ぎ落とす。酸腐の力で木々が崩壊する中、女戦士は凍てつく光を纏い、自身を透明で鋭利な氷の甲冑へと変えてゆく。巨人のようなその装甲は青き瞳で霧さえ切り裂く。彼女はその中で弓を掲げ、巨人もまたそれを構える。純粋な氷の大矢が生まれると、周辺の氷は砕け、凍えた息が仮面から吐き出される。

もしこれを放棄できるなら——。

数キロ離れた、同じく廃墟化した自然の跡地。狼の仮面をかぶった若き女戦士が素早く森を滑空し、塵に埋もれた光を浴びた三叉戟を握る。耳元に触れて、盟友と今を共有する。敵の獣は瘦せた狼の骸骨のごとく死の雰囲気を放つ。黒い毛と渇望の瞳。まるでブラックホールのように光を喰らう存在。彼女は瞬時に光を放ち、獣を地に叩きつけ、電気の三叉戟を形成し閃きをまとって突き進む。二本の稲妻が軌跡を残し、空へと舞う。斜めに切り込むその一撃が獣に電撃を叩き込み、繰り返し巡るように電気がまとわりつく。

つらくて、私はただこの痛みの連鎖から解放されたい。

さらに奥深く、霧に包まれた森の中心。破壊のただ中に、死の化身が現れる。木々を揺らす光の下、暗黒の影が黒い鎧の少女へ覆いかぶさる。数メートルの巨体は、ねじれた脊柱とサルに似た黒い頭骨で恐怖を増幅させる。翼は石炭のごとく漆黒で広がり、荒廃の帳を下ろす。手にした鎌は不気味に光り、“終焉”を予告する。少女戦士は背筋に氷のような震えを覚え、黒い鎖が周囲で動き始めた。傷ついてもなお、完璧な鎖。仮面に隠れた顔に、決意の火花が灯る。

嘲笑が響いた。少女はその怪物を見据え、歯を食いしばり叫ぶ:

――「まだ、始まってすらいない!」

鋼の交響曲が鳴り響いた。

マコトは黒い鎖の仮面をはめ、森を自らの網と化す。鎖は武器ではなく体の延長、彼女の意図に従う巨大な指。空へ飛び、枝にぶら下がり、空中舞踏。鎖は螺旋を描き、木々を飛び越え、捕らえては放つ。瞬時に数十メートルと移動し、旋回しながら蹴りを地面に打ち込む。その一撃で湿った地面は割れる。

全ての動きは絶対的な制御。鎖はドームや罠を生み、空中で方位を変える。三本の鎖を枝に打ち込み、立体的な罠網を構築。しかし敵はそれを容易く破る。

それでも、彼女の技が加速度を増す。鎖をプロペラのように回し、スプリングのように圧縮して解き放つ。最終手段は、逆向きの二重螺旋の鎖で攻勢をかける巨大な金属の蛇を形成。しかし、鎌によって粉砕される。

無意味だった。

死の象徴は無造作に鎖を斬り捨てるが、彼女は粘り強く攻撃を繰り返す。鎖は震え、しかし折れない。

敵は狡猾に戯れ、嘲笑いながら攻撃をかわす。彼の一挙手一投足は、彼女の脆さを突く。

――「これが面白いんだ! もう一度やってみろ!」

少女は鎖を地面に叩きつけ、蜘蛛の多数の脚のような軌跡を描く。敵は計算された動きでかわし、死の力の中へと引きずり込む。

鎌が髪を一本切り取った。彼女は後ずさり、白髪が落ちたのを指で触れながら、敵の危険性を痛感する。

――「遠ざかるな! 面白くなってきたぞ!」

――「覚えてて、マコト——直接には触れられない!」

イヤホン越しの声。彼女は希望を抱え、戦い続ける決意を新たにする。

――「なぜ戦う? 死は避けられない!」

敵の嘲笑が軋む中、彼は猛攻を続ける。彼女も鎖を伸ばすが、敵は予測して飛び込み、一瞬の隙を狙った鎌で服を裂くように斬りかかる。危うく死を感じさせる近さだった。ミスは許されない。情報は少ないが、意志は十分だ。

――「こんな終わり方はさせない!」

最後の力で鎖を投げつけるが、簡単に斬られる。息を切らしながら汗が仮面を濡らす。呼吸が荒く、重く、戦いの重圧が増す。汗で視界が揺れ、戦いは絶望の残響のように遠ざかる。敵がまた近付く――嘲りが心に響く。時間は無い。彼女は誤りを許さない。

心臓は激しく鼓動し、死の影が次の一手を構える。空気は張り詰め、運命は細い糸に懸かっている。戦いは始まったばかり。真の試練が今まさに姿を見せる。

少女の目が、赤くほのかに光った。

普通でいたい——。















少女は鏡の前に立ち、不安と諦めが入り混じった表情で自分の姿を見つめていた。

沈黙のまま、目を見つめ返しながら、

「今日こそ、外に出る日だ」と思える何かを探していた。

けれど、何度見つめ直しても、そこにあるのは“恐怖”だけだった。

机の前に立ち、まるでそれが唯一の現実の支えであるかのように、両手で縁をしっかりと掴む。

「よし、マコト。ただの学校よ。別に大したことじゃない…よね?」

自分に言い聞かせるように呟いた。

「ただ、人の多い建物。みんな、あなたの不安を見透かしてくるだけの場所…

いやいや、それはダメ。やめて!」

つま先立ちになって床を見つめ、髪に手を通して整えようとするが、すでに整っていた。

「最悪、何が起こるっていうの?」と小声で言った瞬間、

脳内には想像しうる限りの“最悪”が並んでいく。

「みんなの前でつまずいたら? 言葉が出てこなかったら?

誰かに“違う”って気づかれたら?」

そのすべてが滑稽で極端すぎる考えにも関わらず、彼女には“現実”に感じられた。

「階段で転んだらどうしよう…。

でも、もし転んだら捻挫したって言って家に帰れるかも…」

と、ふと微笑んでその考えを巡らせ、

首を横に振った。

「ダメ、それは恥ずかしすぎる!」

彼女は、畳まれた制服が置かれた布団を見つめてため息をつく。

手を伸ばそうとするたびに、心の中の声が新しい言い訳を囁いてくる。

「マコト、一歩ずつよ。まずは部屋を出るだけ…」

彼女はドアノブに手をかけたが、回すことはできなかった。

「…数分だけ待ってもいいよね?まだ遅くないし、時間はある…」

そう言って腕を組みながら振り返った。

「先に何か食べた方がいいかも。エネルギー必要だし」

頭の中で、聞いたことのある自己啓発の言葉を思い出そうとする。

「うん、“一日一戦”だったっけ?今日は制服を着るだけ。明日は…その時考える」

自嘲気味に笑って、

「はあ、マコト、いつから哲学者になったの…ふふ」

そしてついに、制服に向かって一歩踏み出した。

「もしかして…今日は行く運命じゃないのかも?」

部屋に“何かのサイン”を探してみたが、何も起きなかった。

「たぶん、宇宙が『家にいなさい』って言ってるのよ」

その時、不意に腕時計が鳴り出す。

「うわっ! 宇宙さえも私に逆らってるの!?」とつぶやき、目を回す。

バイブの振動がまるで“からかい”のように響き続ける。

最後のため息をつきながら、彼女は制服を身につけた。

鏡の前で顔をしかめ、指で鼻筋の傷をなぞる。

それはいつも通り消えなかった。彼女は目を伏せる。

「よし、行こう。まだ引き返せるけど……でも、誰も止めないし。

言い訳を作ることもできる。例えば……“感情の崩壊”とか。いや、変すぎる」

両頬を軽く叩いて気合を入れる。

「もういい。今日こそ、私はできるって証明する!」

声は少し震えていたが、ドアノブを回して、

「お願い……誰にも、私がどれだけ怖いかバレませんように」と笑顔でつぶやいた。

そして部屋を見回す。

「まあ……広くはないけど、私の部屋。布団、ハンガー、机、あの箱……まあ、それだけ。

ママは早く出かけた。職場が遠いって言ってた。帰りも遅いって……」

ため息をつく。

「また引っ越し。また空っぽの家」

マコトは、ようやく自分との戦いに勝ち、家を出た。

心臓が胸を打ち、足取りはゆっくりと重い。

通りはいつもより騒がしく感じられた。まるで世界が一斉に彼女を不安にさせようと企んでいるようだった。

一歩ごとに困難を感じながらも、心の中ではこう繰り返していた。

「今日一日を乗り切る。それだけでいい」

ルーヘイヤの街を歩くうち、彼女の視線は、苔に覆われた小さな壁に留まる。

低い枝に、じっとしたままの蛾の蛹が吊るされていた。

「二週間まるまる休んだ……」

彼女は呟きながら歩いた。

「もうみんな顔見知りだよね、グループもできてるし。

私が今さら“どうも~”なんて言って、どうなるの?」

思考は絡み合い、混乱しながらも、彼女は進もうとした。

「でも、もし今日行かなかったら……もう、二度と戻れないかもしれない。

もしかしたら、今日……友達ができるかも。

たった一人でいい。六年ぶりの、初めての友達……」

言いながら、声が震えたが、歯を食いしばって前を向いた。

「さあ、マコト。普通の女の子になろう。

雑誌に出てくるみたいに、笑って過ごせる子。

普通に振る舞えばいい。人気者でもいい。

自分の居場所があるように見せれば……きっとそれでいい。……そうでしょ?」

校門にたどり着くと、生徒たちはグループで歩き、笑い合い、気楽にじゃれあっていた。

マコトは少し羨望の眼差しで彼らを見た。

「どうして、みんなはあんなに簡単そうに見えるの…?」

「よし、行こう」

そう呟き、バッグを胸に強く抱いた。まるで盾のように。

建物の中へと入り、誰にも気づかれないようにこっそりとロッカーを探す。

まるで皆の視線が突き刺さるような気がしたが、実際には誰も見ていなかった。

自分のロッカーを見つけると、ほっと息をついて教科書を取り出す。

「マコト…テントスナ、だったよね?」

マコトは、隣から声が聞こえた瞬間、びくっと小さく跳ねた。振り返ると、優しげな表情と温かい笑顔の女の子が立っていた。

ハナ――同じクラスの子で、以前視界の端に見かけた記憶はあるが、話したことはなかった。

「え、あ、はい……マコトです」

緊張を隠そうとしながら答えるも、本を持つ手が少し震えていた。

彼女はハナの目を避けて視線を逸らした。

「えっと、こんにちは……」

頭の中で完璧な会話をシミュレーションしていたはずなのに、言葉はぎこちなく、不自然に感じられた。

「やっぱり、そうだと思った!」ハナは笑顔を浮かべて言った。

「ここで会えて嬉しいよ。何人か、もうずっと逃げちゃったのかって心配してたんだよ。まぁ、気持ちはわかるけどね。学校って、ちょっと……疲れるよね」

思いがけず優しく接してくれたことに、マコトは驚いて、思わず小さく笑った。

「うん、まあ……少し日が必要だったの。心の準備というか……」

そう言いながらも、まだハナの目を見ることはできなかった。

「頭の中がぐちゃぐちゃで……」

「最悪、変な子だと思われてるよね……」と内心で自分にツッコんだ。

だがハナはマコトの緊張に気づいたのか、それ以上は何も聞かず、代わりに声をひそめていたずらっぽく囁いた。

「大丈夫。ここにいる半分くらいの子は、同じく逃げ出したがってるから。

私なんか、“学校サバイバル完全ガイド”でも書こうかと思ってるくらいよ」

その言葉に、マコトはその日初めて、心からの笑いを漏らした。少し照れながらも、茶目っ気のある視線を向ける。

「へぇ? じゃあ、そのコツを教えて?師匠って呼ぶかも」

ハナも笑った。その笑い声は心地よく響き、マコトの緊張をさらに和らげた。

「ねえ、もし授業からこっそり逃げたくなったら、私を探して。

完全な“作戦”があるから!」

ハナはスパイのようなジェスチャーをしてみせた。

「覚えとくよ。本当にピンチの時、助かりそう」

マコトも冗談を交えながら応じた。

「ねえ、ルーヘイヤって、年間ほとんど曇ってるの。

空が灰色のブランケットみたいに町を包み込んでるのよ。

でもね、不思議なことに、1日に2回だけ魔法みたいな瞬間がある。

日の出と日没。

太陽がそっと顔を出したり、カラフルに沈んでいくその瞬間は、まるで空が天国への窓になるみたいなの。

街の道も、葉っぱも、石ころまで光に染まって、生きてるように感じるんだ。

あの時間にだけ見える“静けさ”があって、みんながそれを“神聖な時間”って呼ぶの。

私はね、あの光が、ルーヘイヤに生きる人々に与えてくれる“ひと呼吸”だと思ってる。

どんなに灰色の人生でも、最後に美しさが待ってるって、思い出させてくれるから。

そして、空の向こうを見て、鳥の声と静けさに耳を澄ませてるとね……この町には、本当に“魂”があるって感じるんだ。

ここに住んだことのある人だけが、それをわかるのよ」

マコトはまばたきをして、驚いたように少し圧倒された。

「……どうしてそんなに詳しいの?」

自然と出た疑問だった。

「ふふ、ここでずっと生まれ育ったからね。

“予想外”を期待するコツ、身につくのよ」

ハナは笑って答えた。

マコトはうなずいたが、恥ずかしそうに、でも好奇心を含んだ声で尋ねた。

「ねえ……なんで私の名前、知ってたの? 私たち、今まで話したことなかったよね?」

ハナはいたずらっぽく肩をすくめて笑った。

「簡単よ。先生たち、出席取るときに“いない子”のことばっかり話してるの。

マコトって名前、何回も聞いたもの。

それに、この学校じゃ噂が早いの。

目立たなくなる方が、難しいくらいよ?」

マコトは顔が少し赤くなるのを感じ、目を伏せて足元を見た。

「……なるほど、いろいろ納得した」

とつぶやきながら、少しだけ微笑んだ。

「でも、注目されるの、苦手なんだよね……」

「大丈夫だよ」

ハナは優しく言った。

「みんな、しんどい日ってあるし、ただ消えちゃいたい時もある。

そういうの、私も知ってる」

マコトはその言葉に目を向け、心からの安堵を感じた。

それは、本当に優しく、まっすぐな言葉だった。

「ありがとう、ハナ。会えてよかった」

「私もだよ、マコト。ね、そんなに悪くないって思えるよ。

それに、こんな提案どう? 今年一年、二人で“生き延びる”って約束、しない?」

そう言って、ハナは拳を差し出した。

マコトは少し驚いたが、すぐに笑顔になって、そっとその拳に自分の拳を合わせた。

「……約束だね」

チャイムが鳴り、1時間目の開始を知らせる。

2人は教室へ向かい、ハナは元気よくウインクをして自分の席に向かった。

マコトは深く息を吸い、自分の席へ腰を下ろす。

――久しぶりに、「もしかしたら、大丈夫かもしれない」と思えた。

チャイムが鳴り、教室のドアがキーッという音を立てて開いた。

やや猫背で、どこか落ち着かない若い男性が紙の束を抱えて入ってきた。

メガネが鼻先にずり落ちそうになりながら、それを直しつつ前へ進む。

「え、えーっと……みなさん、おはようございます」

その声は何度も練習したような響きがありながらも、まだ震えていた。

「えー……今週の始まりが……良いものだったことを願ってます。今日は……その……ニュートンの法則の歴史について……えーと、クラシックですね……」

その時、彼は急に思い出したように目を見開いた。

「そうだ。今日は新しい生徒が……というか、復帰組がいます。

テントスナ・マコトさんですね?」

マコトはおそるおそる手を挙げた。

何人かの生徒が彼女を見たが、大半は特に反応を示さなかった。


.

こちらが全文の日本語訳です。マコトの心の繊細な揺れや、ハナとの関係に宿るあたたかさを丁寧に表現しました。


「…おかえりなさい、テントスナさん。もし授業の内容で分からないことがあれば、えっと…放課後に僕に話しかけてもいいですし…信頼できる誰かに相談するのも、うん、それも良いかと…」

先生はそう言って、緊張した笑顔を見せた。

そのままノートに視線を戻し、授業を始めた。

マコトは、ほんの少しの注目を浴びたことで、まだ心臓がドキドキしていたが、椅子に軽く体を預けた。

教室のざわめきは徐々に静まり、退屈な空気が漂い始める。

先生の声は単調で、まるで遠くで響くハチの羽音のようだった。

――そして、久しぶりに感じたその“退屈さ”は、不思議と心地よかった。

まるで、つまらない日常が、彼女にとっては新しい“避難所”であるかのように。

チャイムが鳴った。

休み時間。

廊下を歩きながら、マコトは校庭に出て、静かな場所を探していた。

彼女は大きな木の下にある影にたどり着き、地面に座って、カバンから小さなクッキーを取り出した。

しばらく見つめてから、つぶやいた。

「……さて、と。とりあえず、午前中は乗り切った」

そう言ってクッキーを一口かじる。

「このまま目立たずに終われたら、ご褒美にしよう。新しい本か……もう一枚クッキー。いや、両方……クッキー……」

そんなことを考えながらクッキーを味わっていると、足音が近づくのが聞こえた。

顔を上げると、ハナが歩いてくるのが見えた。

「邪魔してない?」

ハナは柔らかく笑いながら聞いた。

「ここに来るの見えたから、良ければ一緒にって思って」

マコトは小さく肩をすくめて微笑んだ。

「どうぞ、ここ私の場所ってわけじゃないし。歓迎するよ」

ハナはくすっと笑い、彼女の隣に腰を下ろした。

「ありがと、ありがと。ねえ、ここって人に話しかけられずに済む絶好の場所なのよ。でも……私が来ちゃって、台無しにしちゃったかもね」

マコトはまた肩をすくめた。

「……ううん、むしろ……ちょうどよかった」

ハナはポケットから自分のクッキーを取り出し、マコトに向かって持ち上げた。

「じゃあ、戦略的な“逃避”に乾杯ってことで」

マコトも笑いをこらえながら、自分のクッキーを軽くハナのクッキーに当てた。

休み時間の残りは、くだらない話をして過ごした。

好きなお菓子、変わった先生の話。

けれどマコトにとって、その何気ない会話は――それ以上の意味を持っていた。

その会話のなかに、彼女は“呼吸”のような安らぎを見つけていた。

「転校生」「変な子」「欠席ばかりの子」としての重さが、ほんの少しだけ消えていた。

まるで、ハナがグレーに染まるルーヘイヤの空に差し込んだ、一筋の温かな光のように思えた。

木の上から数枚の葉がくるくると落ちてきた。

ハナはそれを見て、ぽつりと呟いた。

「ねえ、これってさ……物理の授業より、ずっといいよね」

マコトは微笑んだ。その瞬間、世界が静かに呼吸を整えた気がした。

そして、再びチャイムが鳴る。

2人は立ち上がり、ハナは両腕を大げさに伸ばしながら冗談っぽく言った。

「じゃあ、牢屋に戻りましょっか」

マコトはクスッと笑って、うなずいた。

席に戻ると、次の授業は国語だった。

けれど、さっきの出来事ほど心を動かすものはなかった。

先生の声はまた遠く、単調で、マコトは頬を手のひらに乗せて、窓から差し込む光が机に描く模様を眺めていた。

思い浮かべたのは、あのクッキー、あの木、そしてハナのこと。

そして久しぶりに、「退屈」を受け入れることができた。

それは、少しだけ“生きていていい”という感覚だった。


お母さんへ、

今日、二週間ぶりに学校へ行きました。

簡単じゃなかった。

一歩踏み出すたびに、風に逆らって歩くみたいだった。

世界が「行くな」と押し返してくる感じ。

外の世界はうるさくて、時々まぶしすぎて……

私はその中で影みたいに感じる。

でも、ある子と出会いました。

名前はハナ。

静かな声で、私の壊れた部分を見ようとしない笑顔でした。

まるで、私が「違う存在」じゃないかのように話しかけてくれた。

気づいてないのか、それとも気にしてないのか……どっちでもいい。

どちらにせよ、少し泣きそうになった。

休み時間にクッキーを一緒に食べた。

笑ったの。たくさんじゃないけど……

久しぶりに口元が痛くなるくらい。

あの感覚、ずっと忘れてた。

笑うって、こういうことだった。

お母さんのことを思い出しました。

もしこの話をしたら、どう思うかな。

喜ぶかな、心配するかな。

ベッドから出るだけで一日分の努力に感じる日もあるのに、

今日は少しだけ、「生きる」ってことができた気がした。

今まで想像していた「人生」とは違うかもしれないけれど……

それでも、新しい“なにか”かもしれない。

無意識に、頬の傷跡に手を触れていました。

いつもそこにある。

この感情を感じるときは特に、熱を持つ。

それは、私にしか読めない言葉で肌に書かれたような記号。

そして、ふと思いました。

紙から目を離して、部屋の隅に置いてある箱を見つめました。

この家に来てから、一度も開けてない。

でも、中に何が入っているかはわかってる。

今日、なぜかそれが私を呼んでいるような気がした。

その沈黙の重みが、いつもと違って感じられた。

今日は特別な日ではなかったけど、

その灰色の中に、少しだけ光が差した。

今はそれで、十分かもしれない。

完璧じゃなくても、「大丈夫じゃないまま」でいても、

それでいいのかもしれない。

言葉では伝えきれないほど、あなたが恋しい。

頭の中であなたと話すことがある。

「大丈夫よ」って言ってくれる声を想像して、

その声にすがってる。

時には、それだけが私の支えなんだ。

愛を込めて

マコより


翌朝

マコトは目覚ましが鳴る前、三度目に意識を取り戻した。頭の中に、誰にも聞こえないような、乾いた爆発音が響く。暗い湖に石を投げたような衝撃。彼女は飛び起き、心臓が激しく鼓動し、夢だったのか現実だったのか分からない目で天井を見つめた。その感覚──彼女にしか聞こえない音──は慣れたものだったが、それでも胸の奥に鈍い振動を残した。それに、はっきりとした確信があった:もう寝る意味はない、と。

部屋は薄暗く、外はまだ紫がかった夜明けの色。外灯の光が揺れるカーテンを通り抜け、天井に揺らめく影を作っている。遠くから街の朝の音が届く:トラックの遠い音、早すぎる時間に流れるラジオ、屋根を歩く猫の鳴き声。

仰向けのままマコトは天井を見つめ、そこに答えが降りて来るのを待つようにじっとしていた。しかし、掛け布団は重く、頭には曖昧な不安と繰り返される断片的な映像が行き交い、体を動かすのも辛いほどだった。彼女の思考は自然と学校のことに向かい、何がうまくいかないかを考え始めた。みんなの視線、言葉に詰まる自分、笑われる状況──そんな想像が次々と浮かぶ。

目を部屋の片隅に置かれた箱に向けた。使い古された木箱で、埃をかぶっている。マコトは箱を開けず、ただ静かに見つめていた。その存在だけで、胸が締め付けられるようだった。

やがて目を閉じて、静寂を頼りに落ち着こうとしたが、逆にすべてが増幅されるようだった。枕元の赤い時計を見ると、目覚ましまでまだ1時間以上ある。布団の中で何度も寝返りを打ち、快適な寝姿勢を探したが、もう寝付けそうもなかった。

深いため息とともに彼女は起き上がった。もう寝たふりをしても意味がないと悟ったのだ。目は覚めている。ならばゆっくり身支度して起きるしかない。そう決めた。

――そして久しぶりに、朝ごはんを家で食べた。

冷蔵庫には選択肢が少なく、彼女の料理スキルもそれを救えず、前日のご飯を温め、醤油を少し垂らし、お茶と一緒に口に運んだ。素朴で味気なかったが、どこか落ち着く朝だった。静かに、ゆっくりと食事をするひとときが、遠い記憶と繋がっていくような感覚。少しだけ心が穏やかになっている自分に気づいた。

続いて、鏡の前に立ち、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「最悪でも…玄関でつまずいて顔から転ぶくらい?制服が破れたら…学校中が笑うかも。いいじゃん、そしたら有名人に…違う、最悪すぎる」

頭を振ってそのイメージを追い払い、震える手で制服を取り上げた。

「制服は、鎧じゃない。大丈夫…でも、鎧だったら安心かも。震えてても隠れるし…」

眉をあげてつぶやく。

「“制服を着て登校する少女”って…ちょっと変だよね」

制服を手にしたまま、玄関のドアを見つめてしばらく固まる。やがて決意を込めて首を振り、大きなため息をついた。

「…隠れない。ドアを開けるだけ」

マコトは家を出て息を整え、見慣れた通りを見下ろした。ルーヘイヤの通りは思ったより広く、そして知らない場所のように感じた。

「よし、1歩目クリア…次、学校へ」

そう呟き、決意を持って歩き出す。唯一覚えている道を進み、蛾の繭があった木の前ではそれが揺れ始めていた。辺りを見回すと、心が他の道へ誘われるような気がした。

「たまには街のことを知るのも…悪くないかも」

そのまま老パン屋レオの店先を通る。まだ開いていなかったが、オーブンの灯りが漏れ、焼きたてパンの香りが夕暮れの空気に漂っていた。ベンチに座り、隙間からの暖気を感じながら目を閉じ一呼吸。

「一日で消えるおいしさって、不公平だよね…」

曇ったガラス越しにパン屋が頷いてくれたように見え、マコトはそっと手を上げて挨拶をし、歩き続けた。

その後、鯉橋を渡る。川に映る赤い空と提灯。ゆらゆら揺れる屋台。マコトは欄干に寄りかかり呟いた。

「行き先なくても泳ぎ続ける…私も、同じだよね」

さらに細い林の中の小道に入り、古い家族墓地へたどり着いた。苔むした墓石を手で撫でながら言った。

「時々、あなたみたいに名前のない存在になりたい…」

その後は時間を忘れて歩き、工芸品店、廃駅、本屋、そして猫型クッキーのパン屋へ。小さな発見に笑顔を浮かべながらも、時計を見て凍りついた。

「あ、やばい…もう授業始まってる…!」

そう呟き、クッキーはカバンに無造作に詰めて、暗い路地を一瞥し、家へ向かうよりも先に学校へ戻るべく足を急いだ。

「今度こそ… distractions 持ってくな…ひたすら前に…」

だが気づいたら見知らぬ廃墟街に迷い込んでいた。周りには廃れた苔むした建物。

「…完璧、マコトまた迷子だ」

引き返そうとしたとき、遠くからかすかな声とざわめきが聞こえた。朽ちた塀に隠れてそっと覗くと、黒い服に胸の赤いシンボルが揃った一団が見えた。彼らは背の高い筋肉質な男を囲み、震える別の男を威圧していた。彼はフラスコを取り出し、笑いながら中身を飲むと、瞬間、筋肉が異常に盛り上がり、その男に強烈な一撃を叩き込んだ。さらに、その場には仮面をつけた冷酷な男も立っており、何もせずただ見つめていた。

マコトは喉がぎゅっとなり、恐怖で体が動かせなくなった。心の中で叫んだ。

「いや、絶対逃げなきゃ…一体なんなの、あれ…?」


そして恐怖の中で

足を引こうとしたその瞬間、彼女は無意識に床の瓶を蹴ってしまい、それが転がって耳をつんざくような高い音を響かせた。男たちは即座にそちらを振り返り、瞬く間に二人の部下へ向けて命令を放った。

マコトは考える間もなく全力で走り出した。心臓が頭を打つように鼓動し、重い足音が後ろから迫るのが聞こえていた。頭の中は恐怖に支配され、何を見たのか、彼らが何者なのかさえ分からない。だが、ひとつだけ確かだった。それは、今、彼女が危険な状態にあるということだった。

路地は闇深く、迷路のように分岐していた。行き止まりに差し掛かると、振り返った彼女はそこにいた。一団は残忍な視線で詰め寄り、彼女は壁にもたれかかりながら背中をつけ、ゆっくりと床に崩れ込んだ。リュックを抱いて怯える姿で。

「──逃げられると思ったか?」

重低な声が響く。

「逃げられないものもある。誰にも見られたくないものもな」

日の出が薄く差し込む路地を赤く染める中、マコトは背中を壁に押し付けられ、思考は沈み、恐怖が身体の隅々まで染み渡る感覚に襲われていた。呼吸は浅く速く、刻一刻と苦しさが増していく。傷跡は熱を帯び、まるで過去が液状の炎となって彼女を焼き尽くしているかのようだった。

薔薇色の鱗粉のように淡いターコイズの蛾が、身じろぎもせず葉先に止まり、異様な平穏をそこに漂わせていた。

男たちの重い足音が近づく。マコトは声に出せず、「死ぬ、死ぬ、死ぬ…」という声にならない呟きを繰り返す。

意識が揺らぎ、視界が揺れ始めたとき、何かが弾けた。その瞬間、周囲の音がひどく歪み、空気が濃く重く垂れこめ、息遣いを止めてしまったかのように世界が静まった。

──そのとき、マコトの身体からオーラが浮かび上がった。

最初は白く、淡い水色をたたえた祈りのように清らかだったが、瞬き一つで漆黒に変わり、赤い炎の血管が浮かび上がる。気温が急に上がり、周囲の圧力が急激に下がるのを感じた。

袖口から赤い細い糸のような何かが空気を這い、やがてそれは黒くくすんだ鎖に変わり、長い時を重ねたかのようにバキバキと鳴る。鎖は意志を持つかのようにうねり、勢いよく伸び続けた。

マコトは怯えたまま顔を上げ、追っ手を見つめる。表情は空洞で、自分でもそこにいないような状態だった。呼吸は荒く、咄嗟に牙のように小さな鋭い歯が覗いている。まるで別人のようだった。

そして──静かな轟音とともに、エネルギーの波が炸裂した。路地の壁が震え、アスファルトが割れ、街灯が瞬き、空気全体が恐怖で振るえた。

地面から黒鎖が勢いよく生え上がり、割れたアスファルトを引き裂きながら複数の鎖が延びる。それは彼女の体からではなく空間から――思念のようにあらわれた。恐怖が形になったかのようだった。壁や路面にも鎖が飛び出して路地全体が動き出す。

男らは恐怖に凍りつき、逃げ惑う者、卒倒する者もいた。身長2メートルの大男ですらひざまずき、涙を流し、混乱した笑みを浮かべていた。

ただ一人、仮面をかぶった「猫」の男だけが静かに後方に立ち尽くし、目に冷えた光を湛えたまま無言で見つめていた。彼は何もしない。

そして大男が反撃に出ようとしたその瞬間──だがそれも叶わなかった。

マコトはただ願った。「消えたい」。身体の底から、世界に届かぬほど小さく。

そして──世界は応えた。

Cling Cling Cling

路地を突き破るように、マコトは飛び出した。西南に向かって突き進み、身体は宙に浮き、恐怖と焦りであらゆる感覚を奪われる。彼女はほんの一瞬、制御を失った。

鎖の一つが彼女を絡め取り、空中から引き下ろしながらそっと支え、衝撃を和らげた。

――そして、彼女は落ちた。

橋の下に座撃したかのように尻もちをつき、体は痛く、衝撃が魂まで届いた。深手ではなかったが、その瞬間の恐怖と衝撃は彼女を打ちのめしていた。

数メートル先で、先ほどの蛾が一匹、鮮やかなターコイズで一枚の葉に止まっていた。それだけが、奇妙に静かな証人のように佇んでいた。

マコトは胸に新しい感情を抱えていた。恐怖と怒りと、奇妙なまでの畏敬が混ざった感覚だった。それらは彼女本人のもの以上に強く、説明しづらかった。

橋の真下、彼女は目を開けた。雨雲のような雲が空を覆っている。呼吸は速く、脚は震えていた。自分がどうやってそこにたどり着いたのかわからない。ただ確かなのは──

「どうして──?」

彼女が吐き出すのは、それだけだった。

静寂。灰色の空と、遠くの風の音だけがそこにあった。涙が止まらず、膝を突いたまま座り込んだ。アスファルトには微かに割れ目が走り、まるで何かが着地した跡のようだった。

彼女は何も覚えていない。だが、身体には激しい痛みが残っていた。まるで地震に巻き込まれたかのように。彼女の内側はまだ揺れていた。猛烈なパニックの余震に体が反応し、鎖が出たことも、彼女がそれを操ったことも、すべて記憶に残っていなかった。

鎖は姿を消し、まるで記憶の秘密を尊重するかのように彼女の意識の奥深くへと消えた。

そして、あの蛾はそっと舞い上がり、霧のように消えた。

マコトは嘔吐した。しかし胃は空っぽで、ただ苦い水を吐いただけだった。口に残った金属の味が、すべての無力さを象徴するようだった。袖で口を拭い、震わせながら汗に濡れた肌を包んだ。

そして──その瞬間、彼女の頭をよぎった不思議な考えがあった。

「学校に…行かないと」

まるで秩序と日常が、裂けた心の亀裂を繋げてくれると信じていたかのように。彼女は制御を持ち直そうとした。

深く息を吸って、また吐いた。呼吸法も、十を数える訓練も知らなかった。ただ、<次の瞬間>を生き延びるために。

「私は…大丈夫。生きてる」──そう自分に言い聞かせ、目を閉じた。信じてはいなかったが、言葉を紡いだ。

立ち上がる。震えは消えない。喉と耳と手足と視界までが揺れたままだった。脚は頼りなく、転びそうだった。しかし──

笑いが漏れた。それは空虚で緊張がこもっていたが、彼女を一歩前へと押し出した。次の一歩も。そしてまた次の一歩。

──そして、彼女は歩き出した。向かう先は、学校だった。何事もなかったかのように。

身体をひきずりながら歩道を進む。太陽がわずかに漏れ、彼女の青白い顔を照らす。彼女は自分を支えるように、ゆっくり歩いた。

誰も彼女の内面には気づかない。彼女は下を向きながら、通りを進んだ。誰にも見せないまま、学校を目指した。その時、彼女はもう心の中を見せられないと信じていた。

近くにいた新聞売りの女性に声をかけ、小さく震える声で「すみません、学校はどこですか」──指をさすように、低く尋ねた。女性は優しく笑い、丁寧に道を教えてくれた。

彼女は軽く頭を下げ、また歩き出す。目線は下へ向いたまま、髪が顔を覆っていた。その瞳を誰にも見られたくなかった。

やがて学校らしい建物が見え、彼女は足を止めた。しかし、何かが彼女を掴み、歩き出させなかった。思考は混乱しながらも──

学校に戻るのか?

理由もわからず、彼女は逆方向へと歩き出していた。その足は迷うことなく自分の家へ続いていた。

住宅街に戻ると、何の躊躇もなく玄関の階段を上り、自室の前で立ち止まる。

深く息を吸い、胸の奥に残る鼓動を落ち着かせようとしながら、鍵を開けて中へ入った。家の静寂が彼女を包む。

部屋の暗がりに戻ると、彼女はゆっくりと布団へ戻り、そのまま横になった。太陽は完全に昇ったが、彼女の中に残る闇はそれより濃かった。

指が鼻の傷を辿る。つぶやくように──

「普通に…なりたい」

そう言って、彼女は静寂に沈んでいった。せめて、世界がその間、彼女に気づかないでいてほしいと思いながら。











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