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黒羽少女

作者: 湯長 森一郎

 黒羽家は、代々「東の守」と称される名家である。時代は変わり、街道は黒く滑らかな舗装に覆われ、軍務省の定めた通行規則に従って軍用車が疾駆するようになって久しい。かつての本陣は煉瓦を積んで改築され、屋敷の屋根には通信塔から引かれた電線が交差していた。屋敷の一隅には、今や珍しくもなくなった電磁報装置――俗に“ブラウン機”と呼ばれる――が設置され、政府からの布告も、兵団の召集も、朝のうちに女中が確認できるようになっている。


 妖衣ようい――怪物と戦うために開発された呪装を身に纏い、命を燃やすようにして戦場へと赴くつわものたち。その中でも、黒羽家の血は特異とされ、妖衣との親和性が群を抜いて高かった。が、代償もまた大きかった。


 妖衣は意志を持つ。人の心に囁き、記憶を侵し、やがては己が主を怪物に変えてしまうのだ。世はそれを〈浸蝕〉と呼び、今や社会的な問題として新聞でも取り上げられる始末だ。若くして栄誉を得た少年兵が、三ヶ月後には自室で仲の良かった猟犬を八つ裂きにしていた。


 シズカは生まれたときから、少しばかりぼんやりしていた。

 母はそれを天使の眠りと呼び、父は「武家の娘は慎み深くてよい」と目を細めたが。


 味噌汁を三分の一ほどこぼし、刺繍の課題では金糸を畳の目に縫い付け、式典では祝詞の代わりにうたた寝を始める。彼女に仕える者たちは、あきれるというより、もはや哀れみに近い感情で「シズカ様」と呼んだ。

 そんなシズカが、「おでかけしたい」と言い出したのは、十歳の誕生日を迎える少し前だった。

 誰も彼女が本気で屋敷の外への“外出”を試みるとは考えなかったのだ。

 唯一、それを恐れていたのは護衛の紺菊こんぎくだった。

 だが、紺菊もまた、油断をした。

 その朝、シズカは寝台の下に隠していた小さな布靴を取り出し、音を立てぬよう足を通した。かかとは少し潰れていた。

 誰にも見つからず、門を抜けたとき、彼女はひどく緊張していたはずだった。

 けれど、それをあまり感じさせないのは、いつものぼんやりした顔のせいである。

「わあ……道って、こんなに黒かったんだ……」

 シズカが初めて見たアスファルトは、太陽を映して少しだけ銀色を帯びていた。舗道には落ち葉ひとつ落ちておらず、遠くから屋根高の自動車が音もなく近づいてくるのが見えた。艶やかな機械の車体には、新朝藩の白い紋章が塗られていた。

 舗装された道は、ゆるやかな曲線を描いて、町の外れへと伸びていた。普段なら人の行き来がある時間帯だが、今日はまばらだ。屋根の上に干された洗濯物が揺れ、軒先に置かれた水桶には昨日の夜の雨がまだ残っている。

 角を曲がると、細い水路が現れた、流れの速い水。

 花屋の前を通ると、店主の老女が一瞬シズカを見たが、すぐに視線を戻して花束を作る。


 大通りに出てすぐ、地面がふるえ、舗装がもりあがり、濁った空気が吹き出してきた。

 シズカもさすがに理解した。

 それは――怪物の登場だった。

 黒くて巨大な、それでいて獣のような四つ足の生き物が、道路を突き破って現れた。鉄製の角をもつ頭部は、旧世代の突撃車を模したような鋭さを持ち、背には苔のような緑がこびりついている。まるで、地下の土壌そのものが形をとって突き出てきたような、そんな異形だった。

 その怪物はシズカに気づく様子すらなかった。

 視線も、注意も、執着もない。ただひたすら――まっすぐに、道路を突き進む。

 前方を走っていた自動車の一台が、それに気づいてブレーキをかけた。だが間に合わなかった。怪物は、その巨体でまるごと車を突き飛ばした。金属の車体が宙を舞い、砕け散り、地面に激突して火花を散らす。

 シズカは、動けなかった。というより、どう動くべきかわからなかった。

 無意識に手を伸ばしたのは、腰に挿していた銀の細剣だった。

 これは父の書斎の壁に飾られていた儀礼用の剣で、かつて何かの式典で使った古びた代物だった。

 けれど、剣を抜いても、怪物は彼女には見向きもしない。荒ぶる地響きとともに、怪物はやがて遠ざかっていった。

 車の残骸が地面で軋み、火花を散らす音がしばらく残っていた。

 そして、ようやく兵隊たちが現れた。

 白い軍帽をかぶった士官が、口元をしかめながら少女の前に立つ。

「……無事か?」

 シズカは、ぼんやりと彼を見上げた。そして、なぜか首をかしげる。

 少女は銀の剣を手にしたまま、なおもそこに立ち尽くしていた。まるで、今の出来事が本当に起きたのかどうかもわからないといった顔で。

 そのとき、後方から耳をつんざくような怒声が響いた。

「シズカ様――っ!!」

 紺菊だった。緋色の妖衣の裾を翻しながら、怒りと安堵をないまぜにして駆け寄ってくる。周囲の兵士たちが思わず道を空けた。

 彼女が口を開いたときには、すでに目に涙をためていた。

「どこへ行っておられたのですか! もし……もし怪物に狙われていたら――!」

 だが、シズカは静かに言った。

「……狙われなかったよ。だって、わたしなんて見てもいなかったもの」

 紺菊はシズカを抱きしめ、くどくどとお説教を言い聞かせはじめた。

 兵士たちは互いに目を合わせ黙ってその場を離れていった。

 その日の夕刻、黒羽家の東塔屋上で、シズカはひとり座っていた。

 剣を膝にのせ、遠くを見ていた。そこには、割れた道路と焼け焦げた車の残骸が、まだ煙を上げているのが見えた。

 彼女の目は、はじめて自分の世界が動き出したことを、静かに受け止めていた。


 その夜、風はなく、まるで誰かがひと筆で描いた線のような月があった。街は眠りに沈み、家々の屋根に積もる空気さえ、凍ったように動かない。すべてが停止しているかのような沈黙の中で、シズカは目を覚ました。


 覚醒の理由は夢ではなかった。何かが、自分を外へ呼んでいる——そうとしか言えない感覚があった。ぬくもりの残る寝具からそっと身を起こし、足を下ろすと、冷えた床板がひやりと足裏を撫でた。


 彼女はためらわずに立ち上がった。


 白い夜着のまま、足音を立てぬよう廊下を進む。家人たちは皆、奥の部屋で眠っている。紺菊もまた、夜番の任を終えたのか、姿は見えなかった。


 裏口の鍵は、白木の柱に吊るされた箱の中にあった。彼女はそれを抜き取り、音を立てぬように鍵を回すと、夜の外気が鼻先を撫でた。少しだけ火薬のような匂いがした。白い吐息が空にほどけて消える。


 屋敷を抜けたシズカは、舗装された通りに出た。


 昼間とはまるで異なる顔を見せる夜の街は、静謐のなかに潜む不安を含んでいる。街灯の光が等間隔に並ぶ通りを、彼女はまっすぐに歩いた。足元の影は長く、黒々と地面を裂くように伸びていた。


 やがて、昨朝あの怪物を目にした交差点に辿り着く。見渡せば、破壊されたガードレールは簡易な柵で囲われ、応急の塗料で地面の亀裂が覆われていた。痕跡はある。けれど、誰もその存在を語らず、怪物の姿は夜の闇に溶けて消えたかのようだった。


 彼女は歩道に立ち尽くしたまま、空を見上げた。月はなおも細く、星はひとつ、またひとつと瞬いている。そのときだった。


 轟、と鳴るような地響き。次いで、緊急補修された道を砕く音。地中を割って現れたのは、昼間出会った怪物だった。


 四肢は柱のように太く、背には甲冑のような突起がいくつも並び、その全身が地面を割るごとく突き進む。


 シズカは一歩も動かなかった。


 それは、彼女に目もくれず、ただ道なりに歩んでいた。


 けれど、シズカの内側では、確かな変化が起こっていた。


 手が疼いた。意識の底から、何かが浮かび上がる。


 ——突きであった。


 ただ一度の突き。その刃が何百という敵を倒し、玉座に座る記憶。


「わたしは強かった」


 ——そして、


「それは、この身に受け継がれている」


 その瞬間、背後から声がかかった。極めて静かな、しかし鋭く訓練された者のもの。


「シズカ様……そのまま、静かに」


 振り返らずともわかる。紺菊だった。


 彼女は夜風に揺れる羽織を脱ぐ、妖衣に付けられた光沢のある翡翠色の宝玉、それが微かに光を放ち、次いで眩いほどの光に包まれた。


 シズカは見た。


 紺菊の身体に、幾重もの薄布が絡みつくように現れ、それが瞬時にして精緻な装束と化す。


 淡い紫と墨色を基調としたその装束は、動きやすさと防御を兼ねた様相を持ち、背には光の糸で編まれた羽衣のような意匠が広がった。


 変身というにはあまりに静かで、舞のように滑らかな所作だった。


 紺菊は音もなくシズカの前に立った。


「ここはお戻りください、シズカ様。これは私の務めです」


 だが、シズカは一歩前に出た。


 その目には、確信があった。


「これは、わたしの戦いでもあるの」


 彼女の声は穏やかで、紺菊は一瞬だけ逡巡した。


 次の瞬間、怪物が突進してきた。


 その目は深い赤で、そこに映るのはただ「敵を倒す」意思だった。


 紺菊が一歩前に出ると同時に、シズカの足が地面を蹴って怪物の懐に飛び込んでいた。


 突き——ただの一度。真芯を突けば、それで十分だ。


 シズカの細剣が空気を裂いたその瞬間、怪物の前脚が崩れた。


 何が起きたのか。


 怪物はよろめき、低く呻いたのち、全身の力を失って崩れ落ちた。


 シズカは静かに立っていた。


 目を見開いた紺菊が駆け寄る。


「お怪我は!」


 シズカは首を横に振った。


「わたし、思い出したの。ほんの少しだけ」


 夜はまだ終わっていなかった。先ほどまでの静けさを裂いた戦いの余韻が残っている。


 倒れ伏した怪物の亡骸。その傍らに佇む少女と、変身を解かずに沈黙する護衛。


 シズカはその場に座り込んでいた。——細剣の必殺。それは記憶の深淵から湧き上がった力であり、同時に身体の芯を焼くような疲労をもたらしていた。


 立ち上がる気力もなかった。呼吸は浅く、視界は滲んでいた。


「シズカ様」


 紺菊の声が戸惑いつつ案じている。


 そのとき、鉄の軋むような音がした。

 地下鉄のレールを無理やり引き裂くような音。


 二人は同時に顔を上げた。


 闇の中、ゆらりと立ち上がるように、異形の姿が現れる。


 身の丈、四メートル。


 全身は墨を流し込んだような鱗に覆われ、輪郭が曖昧で、視線が合わぬ。背には裂けたような禍々しい羽根があるが、飛ぶためのそれではない。重苦しい意志だけが、空気に染み出していた。


 虚の落人——


 妖衣隊の記録にも、断片的にしか記されていない。


 元は人であったという噂もあるが、その確証はない。ただ一つ、確かなのは、現れた場所には必ず死と浸蝕が残るという事実であった。


 紺菊はシズカの前に出て刀を抜く。


 虚の落人は声もなく近づく。歩を進めるたび、足元のアスファルトが黒く焦げるように崩れる。空気が重く、光が歪む。


 あれは任地での夜だった。仲間が一人、そしてもう一人と姿を消していった。残されたのは禍々しい羽根の欠片と、灰になった妖衣。


「この場は、通さぬ」


 言葉と同時に走る。


 虚の落人の反応は鈍い。だが、その一撃は重く、速度よりも破壊の質において恐るべきものがある。右腕を振り上げた瞬間、周囲の空気が押し潰されるように鳴った。


 紺菊は足を滑らせるように避け、左へ回り込む。切っ先が鱗に触れるも、金属のように弾かれる。


 鱗の隙間を狙う——そう判断したとき、怪物の尾が襲いかかった。


 瞬間、彼女の体が宙に舞う。


 背中を打ちつけ、電柱に激突する音が夜を裂いた。


 だが、彼女は起き上がる。


 妖衣が機能して体を守った。

 装束が揺れ、風音が、再び彼女の耳に届く。


 シズカが小さく名を呼ぶのが聞こえた。懸命に立ち上がろうとするその声が、遠くから波のように響いてくる。


 紺菊は刀を握った、全ての意識を一点に集める。


 胸元の玉が光り、妖衣が変化する。闇夜に映える紺青の戦装束へと変化した。


 危険な力を抑え込むため、額には護符紋が浮かぶ。


 妖衣は、過酷なまでに力を引き出し、生命にも手を伸ばしてくる。


 紺菊の姿は静謐で、冷たい月光に照らされた彫刻のようだった。


 重心を低く。


 突進する虚の落人。その心臓を狙う。


 紺菊の体が、消えた。


 怪物の近くへ着地、一歩。二歩。


 すれ違う刹那、彼女の刀が鱗の間を正確に見定め、心臓の位置へ突き入れられる。


 怪物の動きが止まった。


 胸元の一点から、まるで水をこぼすように黒い液体が溢れ出し、次いで鱗が崩れ始める。


 それは音もなく、自壊のように身体を崩し、やがて、ただの黒い塊として、地面に沈んでいった。


 紺菊は地に膝をつきながらそれを見届け、変身を解いた。


 シズカがおぼつかない足取りで傍に来る。


「……倒したのね」


 紺菊は頷いた。その動きも重かった。


「はい。……シズカ様」


「紺菊……大丈夫?」


 声はかすれていた。喉が乾ききっていて、言葉はうまく音にならなかった。


 だが紺菊は、ゆっくりと頷いた。

 彼女の妖衣は半ば壊れており、肩から背にかけて、装束の織り糸がほつれて風に舞っている。血も少し流れている。


「……シズカ様こそ、お怪我はありませんか?」


「ちょっと、疲れただけ」


 シズカは笑おうとしたが、顔の筋肉がうまく動かなかった。


 二人はしばらく黙っていた。


 怪物の名残はもうなかった。まるで夢だったかのように、虚の落人は痕跡を残さず消えていた。ただ、焦げたような匂いだけが、まだ空気の中に残っていた。


「戻ろうか」


 シズカが言った。


 紺菊は「はい」と答えた。


 歩き出すと、身体のあちこちが悲鳴を上げた。腕も脚も、自分のものではないかのように重い。

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