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プランナーさんと!  作者: 鞠坂小鞠
第2章 悪意と、非日常と
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《4》長い指

 緩みっぱなしだった涙腺が元に戻った頃には、時刻はすでに午後五時を回っていた。

 お化粧を直してくれた郁さんは、その後、すぐに都築さんに連絡を入れてくれた。都築さんの到着を待っている間、私たちはお互いの連絡先を交換した。


 いくらですかと訊くと、お金はいいのよと断られてしまった。

 驚いて郁さんを見ると、お仕事じゃないからもらえないんだ、と笑っていた。


『仕事にしちゃうと、楽しくなくなることもいろいろ出てくるからね。好きでやってることだから気にしないで』


 これほどのことをしてもらったのにそう言われては、どうしたらいいのか分からなくなる。せめて彼女のお古だという洋服の代金だけでもと必死に食い下がれば、そんなに言うなら今度陽介に請求しておくね、といたずらっぽくウィンクされた。

 脈絡なく飛び出したその名前のせいで顔が熱くなったことに気を取られ、そうこうしているうちにお金の件はあっけなくはぐらかされてしまった。その事実に思い至ったのは、それからしばらく経ってからだ。


 優しくされたら、甘えたくなる。こんなにも穏やかな時間を知ってしまったら最後、二度と忘れられなくなる。

 あたたかな気分だったはずが、それと同じくらい不安が掻き立てられている気がして、また泣いてしまいそうになる。


 いけない、せっかくお化粧を直してもらったのに。

 インターホンが鳴ったのは、そう思って何度かまばたきを繰り返したときだった。



     *



 沈黙が心臓に突き刺さる。

 ぽかんと私を見つめているその人を、とてもではないけれど直視していられない。居た堪れない気分になり、私は視線を床に落とした。


「なに呆けてんのアンタ。ホラ、なんか言ってあげなさいよ」

「……あ、いや、その。なんつうか、郁って、スゲェんだな」

「私褒めてどうすんの? 馬鹿なの? メチャクチャ可愛いでしょ、アンタの目は節穴かい!」


 叫ぶような郁さんの声が遠い。

 いいです、いいんです。無理にそんなこと言わせないであげてください、むしろやめて郁さん。


「っ、いや、その。ホント、マジで可愛い……と思いますね……」

「あ、ありがとうございます……」


 俯けたきりの視線は上げられない。絶対無理だ。

 頬が熱い。今の自分は、化粧をしていても茹で蛸みたいに真っ赤に決まっている。今なら恥ずかしさだけで死ねそうな気がした。


「……うっわ、なんなのアンタ。聞いてるこっちが恥ずかしいんだけど」

「うるせえ! お前が言えっつったんだろうが!」

「そこまで真っ赤にならんでもいい! ね? 良かったね、真由ちゃん」

「は、はい……」


 テンポが良すぎるふたりの会話は、やはりどこか遠かった。

 真っ赤になっているらしい都築さんの顔が、この上なく気になる。しかし、なんでそうなっているのか、理由はまだ考えてはいけない。想像したら最後、もう立っていられなくなるに違いなかった。


「ふふー、良かった! お姉ちゃん気合入れた甲斐があったわー。ねぇ真由ちゃん、また遊びに来てね。今度は一緒にお茶でもしましょ?」

「は、はい!」

「……なにそれ。俺抜きで超楽しそうじゃん」

「あらなによ、まざりたいの? ダメダメ、男子禁制。っていうかダメに決まってんでしょ」

「三回も言うな!」

「はいはい。じゃあまたね、真由ちゃん」

「はい。郁さん、今日は本当にありがとうございました」


 郁さんに向き直り、ぺこりと頭を下げる。

 玄関で見送ってくれた郁さんは、ドアが閉まるまで、ずっとにこやかに手を振ってくれていた。



     *



 帰り道は、ものすごく気まずいに違いない。

 そうとばかり思っていたけれど、思いのほか都築さんの口調は軽快だった。さっきの反応からはとても想像できないくらいに。


「暗くなってきたし、アパートまで送るね。どう、気分は晴れた?」

「は、はい。遅くなってしまってすみません……郁さん、とっても優しくて、嬉しかったです」

「はは、俺にはキッツいけどな。へぇ、爪もやってもらったの?」

「はい。でもこんなにキレイにされちゃうと、落とすのがもったいないです。今日が月曜日で良かった……金曜の夜ギリギリまで粘ります」

「あはは、海老原さんらしいなそれ。またやってもらいな。ひとりでも来れそうでしょ、駅から近いし」

「はい。連絡くれればいつでも待ってるねって言ってもらえたので」

「なんだよ、やっぱ俺抜きでめちゃくちゃ楽しそうじゃん」


 拗ねたような口調が可笑しくて、つい声を出して笑ってしまった。

 笑うとこじゃねえよ、と小突かれて、不意に額に触れた指の感触に、頬がまたもカッと熱くなった。まずいと思った私は、少し顔を俯けてそれを隠した。


 そうこうしているうち、車はアパート近くの道まで辿り着いていた。


 ……途端に名残惜しくなる。アパートの玄関を開ければ、そこにはまたいつもと同じ日常が続いている。今日という特別が終わってしまうことが、堪らなくつらかった。

 もうちょっとだけ。気を抜けばすぐそんなふうに思ってしまう。心を侵食していく感情を振りきり、私は勢いをつけて顔を上げた。


「……はい、到着」

「ありがとうございます」


 大丈夫。今日この人からもらったものの大きさを考えれば、泣く必要なんてもうない。

 まだ戻りたくない。叫び声をあげる胸の内を、強引にねじ伏せる。聡いこの人に昨日みたいに悟られてしまわないよう、今にも暴れ出しそうな感情を、心の深い場所にきつめに閉じ込めた。


「都築さん、今日は本当にありがとうございました。昨日のこと、全部忘れちゃうくらいすごく楽しかったです」

「……うん」

「じゃあ、また」


 顔を見ずにドアノブにかけた指が、ガチャリと手応えを感じた、そのとき。

 反対側の腕を掴まれて強く引っ張られ、痛みを覚えるほどに激しく心臓が高鳴った。


「え……っ?」


 予想外の衝撃のせいで、簡単に上体が傾ぐ。直後に視界が暗闇に塞がれ、なにが起こったのか理解がさっぱり追いつかない。身体を緩く締めつけられている感覚と、鼻を掠めた嗅ぎ慣れない匂いだけが、妙にリアルに脳裏に焼きついて残る。

 ほとんど閉ざされた視界の端で揺れるのは、整えてもらったばかりの、微かに茶色の入った自分の髪だ。それが自分ではない人の指に梳かれ、びくりと全身が震える。


 今、私に、触れているのは。

 髪を緩くなぞる、その、長い指の、持ち主は。


 ――誰、だったっけ。


「……あの……っ!!」


 脳内を駆け巡る問いの答えにようやく辿り着いた頃、身体を拘束していた彼の腕がゆっくりと離れた。

 目が乾いて仕方ないのに、まばたきひとつできない。心臓がおかしなほど激しく脈打っている。困惑に乱れきった私の脳内を、掠れた声がすっと過ぎっていく。


「ごめん。その、可愛くて……つい」


 じわじわと鼓膜を侵食していく声音に、私はついに、なにひとつ考えを紡げなくなってしまった。


「っ、失礼、します……ッ!」


 やっとのことで、それだけを喉から絞り出す。

 逃げるように車を飛び出した私は、アパートの階段を目指し、全力疾走したのだった。

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