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プランナーさんと!  作者: 鞠坂小鞠
第7章 本質と、激情と
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《1》指輪と印

 新崎さんが退職し、一ヶ月が経った。


 突然不在になった新崎さんの後釜は、すぐには決まらなかった。年明け、最悪の場合は四月まで持ち越されてしまうだろうと、出勤したときに小耳に挟んだ。

 その間は、久慈さんをはじめとしたバンケットの社員が、総出で業務の穴を埋めることになるそうだ。引き継ぎもなく去っていった新崎さんの置き土産――すなわち仕事の山に、最初の数日は多くの社員が振り回されたのだとか。


 今では、それもだいぶ落ち着いたみたいだ。

 十月中旬、ブライダルシーズン真っ只中に姿を消した新崎さんのことは、今ではバンケットの社員でさえほとんど話題に上らせることがない。


 誰もが、なにごともなかったかのように――もっと言うなら、まるで最初から新崎さんなどいなかったかのように、それぞれがそれぞれの仕事をこなしている。私の目には、その光景は不思議なものに映った。

 きっと、組織はこうやって回るものなのだ。重要な仕事を任されている人がいなくなっても、他の誰かがその穴を埋める。代わりの人間が補充されたり、いくつかに分割された仕事を数人で片づけたり。代わりを任される側の負担はまた別の問題だとしても、結局はそうやって回っているし、これからもそうやって回っていく。


 ここの職場だけではなく、どこの会社も組織も、多分同じ。


 現実は、思った以上にシビアだった。

 これから本格的な就職活動が始まる私としては、そこになんともいえない物悲しさを感じてしまうのだった。



     *



 当初の予定よりも一週延びてしまったチャペルアテンダントのデビューも、無事に終わった。

 その日一番最初の挙式は、いつも練習に付き添ってくれた仁藤さんとのほうがやりやすいだろうと配慮してもらい、彼女と組ませてもらった。その後は他のプランナーと組みながら、実際の業務に慣れていった。


 私がアテンダント業務に携わることで最も負担が軽くなるのは、仁藤さんだという。

 無論、今後はウエディングプランナーとしての業務が以前よりも多めに割り当てられることになるそうだが、仁藤さんの表情はやはり明るい。本来の業務以外の負担が嵩むことによるストレスは、相当だったみたいだ。

 一緒に組むプランナーごとに多少の癖や違いは見られるものの、元来、進行そのものの変化が少ない業務だ。今のところは大きなトラブルに見舞われることなく、式に携われている。デビューから一ヶ月が経った今では、誰とでも問題なく組めるようになったなと実感できるくらいだ。


 新崎さんが故意に設定していたチャペルの待合室係も、新崎さんの退職以来、加瀬くんに任されることはなくなった。


 加瀬くんは、バイトを辞めなかった。

 新崎さんの共犯だったと思われる加瀬くんは、支配人や久慈さんに対し、終始毅然とした態度で『僕はなにも知らない』と言い続けたらしい。


 窃盗について、新崎さんは鍵の管理簿などの物的証拠や自白内容が押さえられ、逃げ場を失った。結果、彼女は懲戒解雇か自主退職かの二択を迫られて後者を選んだ。その件は、当事者である私には自分が伝えるべきだと、支配人が自ら教えてくれた。

 ただ、加瀬くんには関与の証拠が特になく、本人の否定を覆すだけの要素が見つからないため、扱いはこれまで通りということになったそうだ。


 ……都築さんの話を聞く限りでは、彼は。

 それなのに、どうして加瀬くんは、わざわざ針のむしろに等しいこの職場に残ったのか。全員ではないにしろ、何人かの社員の視線を考えるなら、さっさと辞めたほうが気楽だろうに。


 安易に想像するのは、少し怖かった。その先を考えてしまわないよう、私はいつも、強引に思考を切り替える。

 詳細を伝えられていないバイト仲間やパートの人たちは、そもそも加瀬くんがそんな事件に関わっていたこと自体を知らない。これほどハードな業務ばかりの職場に自ら残ろうとするくらいだ、彼なりにいろいろと事情があるのだとも思う。


 危害を加えられるわけではない。頻繁に干渉を受けるわけでも、ない。

 私の勘違いであってほしかった。優秀な後輩である加瀬くんに信頼を寄せていた記憶は、そう古いものではない。できることなら、以前みたいな信頼関係を取り戻せればと思ってしまう。


 ……それでも。


 チャペルの待合室係には、再び、その業務に明るいパートの人たちが中心に配置されるようになった。

 どうしてあそこまで拗れていたのか分からなくなりそうなほど、なにもかもがあっさりと元通りになっていく。


 微かな不安を拭いきれない私だけを、取り残して。



     *



 中には、以前のように元通りにはならなかったものもある。

 例えば、私に対する都築さんの態度だ。当事者である私がここまで居心地の悪さを覚えるくらいだから、周囲の人たちには相当な豹変に見えているに違いなかった。


 ……そう、周囲。

 特に職場内において、都築さんはまったくと言っていいほど周りを気に懸けなくなってしまったのだ。


 社内で声をかけられることが増えた。挙式が終わった後の片づけに頻繁に姿を見せ、週末には人目を憚らず『一緒に帰ろう』などと誘ってくるようになった。

 勤務中という自覚は崩れていないようだが、かなり分かりやすい。自分の仕事は大丈夫なのか。周囲の人に私たちの関係を知られて、仕事がしにくくなってはいないのか。私のほうこそ不安になってしまう。


 プライベートでも、変化は目覚ましかった。これまでにも増して、私を甘やかす言動が激増している。

 仕事中にはチェーンに通し、制服の下に隠してネックレス状にして身につけている指輪も、そのひとつだ。ハートのモチーフの中心にピンクの石がはめ込まれた、とても可愛らしい指輪――これは、私がどれだけ可愛い、ほしいと思ったところでそう簡単にお強請りできるような価格の品物ではなかった。


『好きなもの、選んでいいよ』


 なんの前触れもなく連れていかれたジュエリーショップで、満面の笑みを浮かべてそう口にした都築さんを、不意に思い出す。かれこれひと月前になるあの日のことを思い返すたび、溜息が零れそうになる。

 断るための選択肢が、ひとつずつひとつずつ削ぎ落とされていく。いつかも似た感覚を覚えたことがあった。心ない暴言に傷つき、ひとりで泣いていた休憩室――そこまで思い出し、やはりあれも都築さん相手に感じた感覚だったなと思う。


 頑なに断り続けるほうが、きっと傷つける。

 なら、下手に足掻かず、素直に甘えてしまったほうがいい。


 そういうものだと、彼はそういう人なのだと、私もいい加減学んだ。頑張りすぎず、適度に折れるようにしている。

 強いていえば、その判断すらも都築さんによって促されている気もする。心理操作されている感じはなんとなくあって、けれどもう、深く考えるべきではないと割りきることにした。


 とはいっても、ジュエリーショップの件は堪えた。ずらりと並ぶジュエリーの、普通では考えられない価格が記された値札を見て悟った。私が価格を気にすると分かっていて、だからわざと高価格の品物ばかりを扱うショップを選んだのか、と。

 確かあのお店は、セント・アンジェリエの提携店だ。二年前にオープンした、ブライダルジュエリーの専門ショップ。ブライダルジュエリーという響きに、あからさまに顔を強張らせた私に対し、都築さんは『普通のものもあるから大丈夫』の一点張りだった。

 にこやかに歩み寄ってきた店員には見覚えがあった。ブライダルイベントのとき、ジュエリーブースに出張してきていた人だ。そのことに気づいた瞬間、もう逆らうまいと、私は諦めの感情を抱いた。


 私にそこまでお金をかけて、どうするの。

 そんなことしなくても、私、都築さんのこと、ちゃんと好きなのに。


 比較的安い価格帯のブースに足を向けることさえ許してもらえなかった。

 無駄な抵抗はやめよう、せっかくだし一番気に入ったものを買ってもらおう、そのほうが都築さんも喜んでくれるはず。最後にはそう開き直った。


 私の思考も行動パターンも、すべて読まれている。その上で、どうすれば私が断れなくなるかを完全に掌握されている。どう足掻いたところで、そんな相手に敵うわけがない。

 都築さんは、私がどんな言葉に傷ついたり、どんな行動を不安に思ったりするのかを、前よりも考えてくれるようになった。だからこそ私も、彼の変化になんとかついていけている。受け入れたいと、前向きに思えているのだ。


 どうしてそういうことをするのか、その理由を教えてもらえると安心する。

 元々、私は単純な人間だ。そんな私が安心するために必要なものも、至極単純なものばかり。


『隠さないで』


 一度は拗れた関係をなんとか修復できたあの日、私は都築さんに、乞うようにしてそう伝えた。

 あれ以来、都築さんは従順にあの言葉を守ろうとしてくれている。誤解が解けて、二度と糸が複雑に絡んでしまわないようにと願って、そのためになにが必要なのかを思う。私も都築さんも、答えはもう理解できている。


 その認識が、少しも食い違っていない。

 そう思えることが、今は他のなにより嬉しかった。



     *



 一度しか男性を受け入れたことがない身体が、溶かされる。

 最後まではしない。今日もまた、私に触れるのは長い指と唇だけだ。


「や、待って。明日、しごと……」

「知ってるし、俺もだから大丈夫」


 薄く笑いながら囁く声が、余計に私を恥ずかしくさせる。

 溺れているのは私ひとりなのだと、改めて突きつけられた気分になるからだ。


 お願い、電気、消して。

 それが駄目なら、せめて眼鏡くらい外してよ。


 灼けるような鈍い痛みが走る。首筋は危険だ。気づかないまま通学したり出勤したり、その手のミスをすでに何度か経験していた。

 職場では髪を結ぶから、なおさらごまかせない。アテンダントの制服に着替えるとき、仁藤さんに痕を発見されてしまったこともあった。普段の仁藤さんからは想像がつかない、呆れがたっぷり込められた溜息を思い出す。


『都築さんには私から言っておくね』


 なんとかうまく隠れるよう、首の横で結ぶリボンの位置を調整してもらい、そのときは事無きを得た。事無きを得たが、仁藤さんの呆れきった視線が忘れられない。とはいえ今思えば、彼女の呆れの矛先は、私にというよりは都築さんに向けられていたのだろう。

 明日は早めにチャペル裏に向かい、仁藤さんより先に着替え終えてしまわなければ。着替えるときには下着姿を晒すことになる。こんな肌、仁藤さんには二度と見られたくなかった。


 恥ずかしくて堪らない。けれど、嬉しくも思う。

 そこまでしなければ気が済まないほど、私が好きなのか。男性にはなんらメリットがない行為を延々と続けてしまえるほど、私を愛おしいと思ってくれているのか。


 こんなふうにしなくても、私は都築さんのものなのに。

 毎回こういう触れ方をしなくても、ちゃんと分かっているのに。


「指、貸して」


 指に嵌まった指輪ごと、右手の薬指を口に含められてしまう。

 追い詰められていくのは、身体だけでは決してない。彼の色っぽい仕種を前に、私の頭はとっくに茹で上がっていて、息が上がって仕方なかった。


 この人にとって都合の悪い選択肢など、最初から削ぎ落とされている。

 私に残される選択肢は、結局、いつだってたったひとつだ。



     *



『授業が少なくなってきているなら、この家から授業がある日だけ通うのはどうだ?』


 母が倒れ、慌てて帰省した日に父から受けた提案は、今も保留となっている。三年のうちは、学校に行かなければならない日がまだ多いからだ。


 私の場合、進級すれば、通学が必要になる日はかなり限られる。提出するレポート類も、パソコンさえあれば自宅でも作れるものが多い。後は資格試験の勉強だが、それも自宅で十分行える。

 論文やレポートを書き上げるために必要な資料は、その都度ゼミの先生に断って借りるつもりだった。必要な許可はすでに取ってある。そこまで漕ぎ着けられれば、アパートを解約して実家に戻り、必要なときのみ電車で通学する方法を取っても大丈夫だろうと踏んでいた。


 しかし、もしそうなった場合、バイトはどうするのか。それにはまだ結論を出せていなかった。

 実家暮らしに戻るなら、今みたいに週末をバイトにつぎ込む必要がなくなる。むしろ、週末のたびに電車に揺られてバイトに向かうのは非効率的だ。お金のことだけを考えるなら、実家の近くで新たなバイトを探すべきだと思う。


 それなのに、いざ辞めるとなると、どうにも躊躇してしまう。


 新しい仕事にも慣れてきたし、仲良くなった社員もいる。以前は〝仕事だから〟と一定の距離を保って接していたバイト仲間の中にも、近頃になってよく話すようになった子が何人かいる。

 それらをすべて手放すのは、惜しかった。以前も思ったが、やはり私はセント・アンジェリエでの仕事が好きなのだ。こういうときに思い知らされる。


 都築さんと離ればなれになると思うと、それもつらかった。今だって毎日会っているわけではないし、それどころか一週間以上会えないこともある。それでも、すぐ近くにいるという安堵を失いたくなかった。

 離れたくないな。そう思った次の瞬間には、そんな考え自体が、心から私を心配してくれている両親に対して失礼なのではと落ち込んでしまう。延々と頭を巡る思考は、いつも最後にはそこに辿り着く。そのたび重い溜息が口をついて、その繰り返しだ。


 間もなく十二月。

 タイムリミットは、少しずつ迫ってきていた。

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