⑯白崎海斗
白崎海斗は部屋を出る前、昨日、坂下日奈子から貰った猫のキーホルダーをアパートの鍵に付けた。
外に出ると今日の天気は曇り空で、梅雨が近づいて来たような湿度を含んだどんよりとした空気だったが、白崎は今日も沢山働くぞと意気込み、クロスバイクに跨り、颯爽とペダルを漕ぎだした。
昨日、日奈子ちゃんがウチに来た。
正直、公園にいる時にはこれは期待できる展開と思っていたが、日奈子ちゃんは部屋に上がり、アパートの間取りを確認してから15分足らずで、「見せてくれてありがとう」と言い、部屋を出て行ったのだ。
急に恥ずかしくなったのかもしれない、白崎はそう考えて、昨日の結果にあまり落ち込む事はなかった。寧ろ、前進であると考えていた。
今日は平日にもかかわらず、朝からよくフーデリヤの注文がよく入り、白崎が働き出してから1時間で4件の配達を終える事ができていた。効率がいい、何だか順調だなと思うと、ペダルを漕ぐのも軽やかな気分になれていた。
そろそろ中華屋の前で待機するかと思い始めた時、あの空き地への配達のいたずらが頭を過った。
もうあそこで待つの辞めようかな?と白崎は考えていたが、昨日、日奈子ちゃんに子猫を探すと言った手前、行かない訳にはいなかった。
中華屋の前には白崎の他に、数人の配達員が先に待機していたが、繁盛しているようで、配達員が次々に中華屋に入っては出て行っているようだった。
白崎は「よっしゃー!」とクロスバイクのハンドルを握りながら喜んだ。今日は本当に効率がいいぞ、ツイてると思った。
しかし、白崎が自転車を停めて中華屋を前に待機し始めると一旦注文が止まり、それじゃあ、ちょっと子猫でも探してみるかと白崎は公園の中に向かった。
枯れた噴水の辺り、小山の近くの茂みなど、白崎は10分ほど探してみたが、昨日と同じく子猫は見つからなかった。
早くも諦めて、中華屋の前に歩いて戻るまでに、「あの動画の投稿者は本当に川口だったのだろうか?」とふと考えた。日奈子ちゃんの言う通り、見間違いかもしれない。
だが、美咲さんのアパートの件は、上村がそう言うなら間違いないはずだ...。
いや、けど上村も川口を見るのは中学以来で、本当に川口かどうかは分からないはずである。
そもそも、なんで上村はわざわざ美咲さんが襲われたアパートまで行ったのだろうか?
頭の中で色んな物事が交差すると、白崎は考えるのが面倒になり、「もういいや」といつもの場所、石垣の上に腰掛け、フーデリヤのアプリで配達員専門のページを開き、注文が来るのを待った。
そして、ものの3分で注文が来た。
スマホで届け先を確認すると、またあの高級住宅街の中だったが、あの空き地付近ではなかった。注文者も初めての名前だった。
「はぁ、よかった」と白崎は安堵し、あの近辺の住人はよくチップをくれるとの噂もあるので、「よっしゃ」と俄然やる気が出てきていた。
白崎は注文を請け負うボタンをタップし、早速、中華屋の店内へと入って行った。
中華屋の店員は、またフーデリヤの配達員が来たか。というような顔をしたが、
「最近注文、ネットからが多くてね」と初めて白崎に話かけてきた。
だが、「...あぁそうですか」と白崎は素っ気ない返事しかできなかった。
店内で待つこと3分で準備が完了し、白崎は店を出て、商品をリュックに入れ、公園に停めていたクロスバイクに乗って、住宅街を目指した。
スイスイスイと軽快に自転車を漕ぎ、白崎はあっという間に高級住宅街への入り口に到着すると、今一度確認の検索をしてみた。配達先は坂になっている住宅街の上の一番奥の家であった。
白崎は意を決すると、一気に立ち漕ぎで緩やかな坂道を登り、あの空き地があった場所を通り過ぎて、さらに息を切らしながら数分かけて、大きなお屋敷みたいな家の前に到着した。
大きな家を目の前にし、「ここか...。でかっ」と白崎はボソッと言った。
その家の裏には林が見え、家の隣には他の住宅はなく、区分された土地で一番いい立地に建てられている事がわかった。
白崎はクロスバイクを降り、歩きながら、スマホのアプリでは「ここ」と矢印が表示されているのを再度確認をした
その時ふと、白崎がその家の表札を見ると、「川口」となっていた。
「...川口」
まさかなと思いながら、白崎はクロスバイクを電柱に立て掛け、リュックから商品を取り出してから、川口宅のインターホンを鳴らした。
「ピンポーン」
と小高い音が家の中で響いているのがわかった。
「マジででかいな...」と白崎は自分の背丈ほどある門越しに家を見ながら言ったが、その時、門が開いている事に気が付いた。
閉め忘れ...?
白崎は坂になったアプローチの先にある、玄関をじっと見つめ、誰か出てくるのを待った。
すると、ガッというような電子音がし、インターホンが繋がった音がした。
ジージーと鳴るインターホン。
相手は何も喋らない。
白崎はインターホンの前にいき、「フーデリヤでーす。配達しに来ました」と言うと、すぐにガチャっと切れた。
それからしばらくすると、人影が玄関に見えた。
「おっ、やっときた...。あれ...なんか帽子被ってる?」と白崎は心の中で思った。
そして、「ガチャ」、と大きな玄関の扉を開けて出てきたのは、マスクをし、キャップを深々と被った男だった。
その男は長髪のようで、顎辺りまでに髪が伸び、付けていた白のマスクの下からは髭が出ていていた。
服装はヨレたTシャツとサイズが合ってなさそうなジーンズを履いており、見た目から判断すると、この大きな屋敷には到底似つかない風貌で、ある意味では不法侵入者にも見えなくはなかった。
マスク姿の男は目を合わせず。そして、何も言わずに、白崎に近づいてきて、2mぐらい離れたところで、
「ちょっと、それ、玄関のところに置いてもらえます?」と野太い声で言ってきた。
白崎はなんか作った声だなと思ったし、なんでわざわざ玄関まで運ばないといけないんだと思いながらも、「はい」と言って頷き、川口家の敷地に入り、緩やかなアプローチを歩いて、その男の横を通り過ぎた。
横を通った時、そんなに歳がいっているようには見えなかったし、白崎の鼻に異臭が届き、「こいつ、臭いな」と思った。
そして、白崎は自分の部屋ぐらいある、広い玄関に入ると、玄関の横のシューズクローゼットの上に同じ中華屋のデリバリーの弁当セットが数段積み上がっているのが見えた。
白崎は「はぁ?」と思いながら、さらに歩を進め、
「どこに置けばいいのでしょ...」と口に出した時、
白崎の背中の方から黒い影が伸びてくるがわかった。
白崎は何事か?と素早く後ろを振り向くと、2メートルぐらい後ろにいたマスク姿の男が小さな奇声を上げながら、こちらに向かってくるのが見えた。
「ぅ、うわぁぁ!!」と白崎は小さく叫んだ。
男の手にはナイフが握られているのが見えたのだ。
その時、白崎が取った行動は、両腕を胸の前で交差し、リュックを背負った背中を相手に見せるような防御しかできなかった。
ドンッ!!
と勢いよくマスク姿の男が白崎にぶつかった。
白崎はその勢いに押され、廊下の上に倒れ込んだ。
白崎は状況が理解できず、頭が真っ白になってしまった。
「うぉらぁ!!うぉらぁ!!!」とマスク姿の男の声が聞こえる。
どうやらマスク姿の男はナイフを持って自分に襲いかかっている。
その事がちゃんと把握できると、白崎は手や足を使って、相手が離れるようにその場でもがいた。
だが、殴ったり蹴ったりしても、男は執拗に白崎に襲い掛かってきた。
白崎は言葉にならない声をあげながら、必死に抵抗し続け、近づいて来たマスク姿の男の顔面を倒れた体勢のまま殴ってみた。
すると、「ゴンッ」と骨に響く音がし、鼻に直撃したのか、マスク姿の男はよろめき、一度白崎から離れた。
白崎はその隙に体勢を立て直して起き上がり、外へと走り出した。
そして、玄関を出て、アプローチを下り、門の外、道路まで一気に走って出た。
通りに出ると、白崎は身体を家の方向に向け、男がさらに追撃をしてくるかを見ていた。
「どういうことだ?これは...。一体何が起きてる...?」
ハァハァと白崎の呼吸は乱れていた。
その時、白崎は身体に強い違和感を覚え、自分の右腕に目をやると、大量の血が流れていることに気が付いた。
血は指先に伝わり、ぽたぽたと道路の上に滴り落ちていた。
そして、自分の血痕が家の玄関まで続いているのが分かった。
着ていたTシャツにも大量の血が染みこみ、どこか重くなっていた。
顔も痛いぞ...。
白崎は自分の状態を確認していると、マスク姿の男が玄関を出てきて、白崎の目の前に現れた。
白崎はマスク姿の男を見てみると、その男のTシャツにも白崎の返り血が沢山付着しているようだった。それに手にはまだナイフを握っていた。
また襲ってくるのか?
だが、白崎が見た感じでは、その男も息切れしているようだった。
それに白崎が何度か殴ったのが効いたのか、至るところを痛がるような素振りを見せていた。
白崎はふと「こんな状況なのに、なんで逃げてないんだろう?今、自転車に乗って逃げればいいのに」と自分自身で思った。
なぜだ...?
これは中学時代に培った闘争本能かもしれない。
そんな訳がわからない考えが巡っている時、
「...なっ、何しているんだ?」
と道路に立つ、見知らぬ男の慌てた様子の声が聞こえてきた。、
白崎はパッとその人を見てから、電柱に立て掛けていたクロスバイクまで走って、急いで乗り、ようやくこの場を逃げる事にした。
すると、マスク姿の男が「逃げるなぁ!!!」と大声で言い、追いかけて来るのが分かった。
白崎はクロスバイクに乗ると、数メートル後ろにいるマスク姿の男を見た。
だが、マスク姿の男は足は遅く、クロスバイクに乗る白崎に簡単に引き離されてしまっていた。
白崎は、状況が理解できないまま、血まみれの状態でペダルを漕いだ。
住宅街の歩行者や車を運転する人から、奇妙な視線を送られたり、キャーと叫ばれても、ペダルを漕ぎ続けた。
白崎は意識が朦朧としてくる中、
マスク姿の男は、きっと川口仁成だろうと思った。
確信は持てないが、多分そうだ。
なんで川口が今頃になって、こんな事をしてくるんだろう?
血まみれの白崎はそのまま数分間自転車を漕ぎ続け、大ノ森公園近くに戻って来た。
怯えた声があちらこちらから白崎の耳に入って来た。
白崎は遠くから、いつも待機していた公園の道路沿いの石垣が見えると、
意識が遠のき、自転車に乗ったまま倒れ、人のざわめきが聞こえる中で目を閉じた。
続きます。
ありがとうございました。