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第5話 茨の剣

 踊り場にたどり着き、続く階段の前に出る。その先に暗い廊下が見えたが、そこはとうとう迷路ではなかった。「『甘い眠り』を使っていいのは一階の玄関ホールだけ」、ニールが紫の薔薇をくれた日の会話がよみがえる。玄関が建物の出入り口ということは知っているし、玄関を描いた本の挿絵も見たことがある。まずはそれらしき場所を目指すのだ。

 人の気配を探りながら、アデラはついに一階に下りた。

 魔物もあとを追ってくる。

 ここで誰かと出くわしたら、その人も襲われるのだろうかと心配したが、驚いたことに、一階にはまったく人の気配がない。アデラは混乱した。主人夫婦は、老女中は、数少ない使用人たちは、いったいどこへ。

 困惑はおさまらなかったが、背後の魔物の姿を見ると、迷ってはいけないという思いが強くなった。人がいないことを幸運と思うべきだ。そして進もう!

 ランプで前を照らしだすと、玄関ホールらしき空間は、階段のすぐ先だった。円形に近い広場のような空間があって、暗いなかにも花瓶がぐるりと飾られているのが影になって見える。その先に、立派な扉があった。

 アデラは扉に駆け寄った。魔物は階段の下まで追ってきているが、すくんだようにそこで止まっている。ランプで近くの花瓶を照らすと、束にして飾られた『甘い眠り』の紫色が照らしだされた。

 魔物はそれでも、あきらめる様子を見せない。ずるずると耳障りな音をたててその場で動きまわり、ぎらぎら光る瞳でアデラを見続けている。それ以上距離を詰められないことを確信すると、アデラは魔物に背を向け、そびえたつ扉と向き合った。

 右手に握っていた薔薇をポケットに突っ込み、ランプで扉を照らす。内側からも鎖と錠がかかっていた。ガチャガチャやったがびくともしない。

 ここまで来て、外に出る手段がないのか。焦りと恐怖で息が苦しくなってきた。

「開いて……! 開けてよ!」

 半狂乱になりかかりながら、アデラは扉を叩き、ゆすぶった。扉は揺れるばかりでほとんどびくともせず、鎖ががちゃがちゃ音をたてるだけ。あえぎながらその場にへたりこんだとき、まだ扉がわずかに揺れ、鎖が鳴っていることに気付いた。

 外に誰かがいる。誰かが扉を揺らしている。

 アデラは再び立ち上がって、扉の隙間をのぞきこもうとし、当然外が見えるような隙間がないことに失望しながら、今度は耳を当ててみた。

 すると、声が聞こえた。

「お嬢さん? アデラかい?」

 ニールだ! アデラは激しく首を振りながら、悲鳴のような声で必死に伝えた。

「ええ……ええ! わたし! ニール、助けて!」

「大丈夫だ、すぐ中に行くから落ち着いて、そこを動かないで」

 扉にすがりついたまま、アデラは頷いた。もう我慢の限界だった。振りむけばそこにまだ魔物がいる。ここまで魔物とにらみ合いながら来られたのが奇跡だと思う。ただひとつ、助けてくれる人間の存在を信じて、外の世界に出られる可能性に賭けて。

 その瞬間までの数秒が永遠のようだった。早く、早くと心の中で繰り返していたとき、玄関ホールの右手あたりから、ガッシャーン! と、とんでもない音が上がった。

 驚きすぎて恐怖が飛んでいった。呆然としながら首をのばし、音のしたほうをうかがうと、外から割られたらしい窓から人影が侵入し、こちらに駆け寄ってきた。

「お待たせ! よくがんばったね」

 ランプの光の範囲に、ニールはとうとう現れた。空いた左手がアデラの右手をつかみ、立たせてくれた。アデラが立ち上がってもその手のぬくもりを離せず、無言のままぎゅっと握りしめると、ニールは笑って握りかえしてくれた。

 その右手には建築物の破壊作業に使うような、鉄の槌のようなものが握られている。おとなしそうな印象とは裏腹に、そういえば大きな花瓶を軽々運んだりして案外力があるのだと思い出すと、あまりにも心強い姿だったが、ニールは槌をぽんと捨ててしまった。

「外の警備の連中は静かにさせられても、これじゃあいつは倒せないからね」

 そう言うと、ニールはそばの花瓶から一本の『甘い眠り』の花の部分をつかんで抜き取り、棘のついた茎を剣のように魔物に向けた。

「あの魔物にとっては、この棘が何よりもの毒。この、魔除けの薔薇の茎だけが、あの鱗に突きささる。心臓をひと突きすればあいつは死ぬ」

「……だから花を嫌がっているの?」

「そう。外の花園にも『甘い眠り』がたくさんあって、館に入るまでに体ににおいがついてしまう。おれが行くと、魔物を警戒させてしまうから倒せなくなる」

 ニールはそう語ると、アデラの右手を痛いほど握りしめた。

「危ない役目を負わせてごめん。おれはあいつを倒すために、花細工師になって館に入りこみ、ここまで来た。怖かったろうに、あいつをおびき出してくれてありがとう。きみに敬意を。そして、やつには『甘い眠り』を」

 そう言うと、ニールはアデラの手を離し、魔物に歩いて近づきはじめた。

 激しい戦いの始まりを予感したのに、なんと、魔物ははいずりながら階段のほうへ逃げはじめた。

「迷路に戻られると厄介だ……!」

 ニールが焦った声を上げ、駆けだした。

 さっきアデラの手を握った力の強さが、ニールの決意の強さを伝えてきた。どういう理由があって、花細工師になってまで魔物を倒しに来たのかはわからないが、その覚悟の強さだけはアデラにも理解できた。

 だからアデラは、ポケットに入れていた『甘い眠り』を投げ捨て、ランプを置き、駆けだした。自分を助けに来てくれたニールのために。

「アデラ? 何を」

 ニールがぎょっとした声を上げ、制止しようと階段の途中で立ち止まる。その脇を、さっき魔物から逃げたときそうしたようにすり抜けて、踊り場まで到達していた魔物につかみかかった。

「わたしが囮になるから!」

 魔物のごつごつした背中に飛びつくと、魔物は、邪魔者を排除するべく踊り場で立ち止まった。

 さっきまでは逃げ回っていられた黄色い瞳、真っ赤な口、ナイフのような牙がもう間近にあった。魔物は何度か胴体を振り、かぎ爪のついた手でアデラをつかみ、振り落とそうとしたが、アデラが離れないのを知るや、首をひねり、口をがばりと開けた。アデラの小さな頭を飲み込もうとした。

 アデラがぎゅっと目をつむり、牙が身体に突き立つことを覚悟したとき、魔物の動きが止まった。

 魔物の呼気が悲鳴となってアデラの顔にかかる。

 魔物の頭ごしに、ニールの静かな表情が見えた。魔物の胸から生えた紫の薔薇を見つめている。闇の中に白く浮かぶその顔に、点々と黒っぽいものが付着している。

『甘い眠り』を突き刺すことに成功したのだ。

 そのとき、アデラの胴に魔物の手が食い込んだ。

「痛いっ……!」

 最期の力をこめて、魔物はアデラの胴を離すどころかむしろさらに強く握りしめていた。身体に当たる魔物の手の中に、おぼえのある硬い感触がある。無我夢中でもがきながら、自分の肋骨のあたりに当たる突起のようなものに触れて、その正体に思い至ってアデラは愕然とした。

 これは指輪だ。抱きしめられるたび、アデラの肩に食いこんでいた、大ぶりなあの指輪。主人夫婦がそろいでつけていた、あの。

 そのとき、強い力で魔物の手がアデラから引きはがされた。

 見慣れた指輪があんなところにある理由を考えている時間を与えず、ニールはアデラを抱えたまま走った。

 踊り場で、小さな山のように崩れ落ちた魔物の影がどんどん遠ざかる。ニールは割った窓を軽々と乗り越え、館を囲む花園に出た。

 月明りのために周囲はうっすら青ざめていて、屋内よりも明るいくらいだった。あたりはむせかえるような薔薇の香りで満ちている。青ざめた闇の中でも色とりどりの薔薇が咲き乱れていて、『甘い眠り』の数が多いことはわかった。

 この花園は、あの館は、魔物を閉じこめるためにあったのだ。

 花園の中を駆け抜けていくニールの腕の中で、アデラは久しぶりに、急激な眠気を感じはじめていた。

『松明』を最後まで飲んでいたのに。重石のようにのしかかる睡魔に抗おうとしたのが、この夜の最後の記憶となった。

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