第4話 迷宮の主
真夜中の廊下はしんとしている。部屋から持ち出したランプの明かりで先を照らしても、まだ魔物は現れない。だがもうすぐのはずだ、魔物はいつも、十二時過ぎにやってくる。そして十二時半過ぎにあきらめて去っていく。
ニールがすべてわかっていてこの時間を指定したなら、それにも狙いがあるはずなのだ。魔物とアデラが出会わなければならない理由が。
『紫を持って』という指示に従って、ハンカチでぐるぐる巻きにして棘を包んだ『甘い眠り』を右手に、ランプを左手に、ついにアデラは歩きはじめた。
廊下の端、階段の前にたどり着く。踊り場で激しい眠気に襲われたいつかのことを思い出し、アデラは震えた。
『松明』の花びらを飲みはじめてから、昼間の眠気は嘘のようになくなった。一日一冊本を読み終えられるかどうかだった体力が、最近は二冊、三冊読んでも疲れを感じなくなっていた。
自信を持て。ニールを信じろ。
自分に言い聞かせて、アデラは階段を下り始めた。
踊り場の大きな花瓶を見据え、一歩一歩踏みしめていく。とうとうその階段を下りきっても、睡魔は訪れなかった。
泣きたくなるほどの喜びがわき上がってきた。
呪いが解けた気分だった。世界が広がったような気がした。少なくとも、この館の最上階から自分の足で抜けだせたのだ。自分の足と意思でここを去ることができるのなら、きっとまた戻ってこられる。
そう思うと、罪悪感や心細さが急激に消えていく。とにかく今は外へ、ためらいを手放して、アデラはさらに力強い足どりで、次の階段を下りはじめた。
だが、花館の三階を生まれて初めて目にしたとき、くらくらするほど信じがたい光景に、アデラは呆然と立ち尽くした。
それは、複雑怪奇な迷路だった。
階段の先はまた踊り場、さらに下階に伸びる階段に続く。踊り場はバルコニーのように中空に向かい、そこから二階を見下ろせる。
三階と二階をぶち抜いて、その迷宮はかたちづくられていた。
部屋はなく、曲がりくねった廊下や枝分かれする廊下、一見無秩序に上がり下がりする階段、もしくは坂道。現実になった悪夢のような光景を、そこかしこの花瓶の花たちが彩っている。
花館は四階建てだが、そのうち、二階と三階にあたる空間は、人が暮らせる領域ではなかったのだ。目の前の景色の中に、人の気配はない。
自分以外の住人は、一階にしか暮らしていなかったのか。
「……降りてみなくちゃ……」
小さく声に出して、震える足を踏み出した。
慎重に階段を下りていきながら、アデラは考え続けた。
今まで、主人夫婦は裕福なのに雇っている人間が少ないのはなぜなのか、そのわりに花館が大きく立派なのはなぜなのか、不思議に思ったことがある。物語に出てくる王様や貴族やお金持ちだって立派なお城やお屋敷を建てて暮らしているけれど、そこには必ず、大勢の家来や使用人の様子が描かれる。花館は四階だけでもたくさん部屋があるのに、部屋をもらっているのはアデラと、アデラの世話係である老女中だけ。いつかその疑問を口にしたときは、旦那様は裕福だけど慎ましい方だから、花館を建てたのは花が大好きな奥様のため、そう言われて、そのときは納得したけれど、この悪夢のような迷宮を見ていると、その疑問が再び頭をもたげはじめた。
この館は、ほんとうに人が暮らすために建てられたものなの?
その問いには、階段を下りきったところで出会った生き物が、その存在をもって答えた。
階段の下で、天井に頭がつくほど巨大な、腹のふくれた、蛇かトカゲのような生き物が待ち受けていた。図体に反して、鋭いかぎ爪のついた前脚は不自然に小さい。
完全に腰を抜かしたアデラの前で、魔物は黄色い瞳を一心にアデラにそそぎ、真っ赤な口を開けた。ぎらり、ナイフのような牙が光る。
へたへたと膝をついたアデラは、そのときは死を覚悟していた。だが、魔物はいつまで経ってもにらみつけるまま、襲いかかってこない。アデラは手近な壁ににじりよってもたれ、もたれかかりながらやっと立ち上がった。
アデラの動きを追って魔物の頭も動くが、やはりそれ以上距離を詰めてこない。
あ、とアデラは声を上げた。『甘い眠り』だ。気がついて、アデラは紫の薔薇を前に突き出し、思い切って一歩、こちらから前に出てみた。
思ったとおり、魔物は、シュー、と息を吐きだしながら、ずるずるとわずかに退いた。
アデラもそこでいったん止まった。先に進むには、この魔物の脇を通り過ぎるしかない、だが、こんなちっぽけな薔薇一本で無事にここを突破できるのか。できなかったとしても、じっとしているだけでは薔薇が朽ちるまでこのまま、いやその前に朝が来て館の誰かに見つかって、結局は逃げ出せないまま終わるに違いない。そこまで考えて、アデラは心を決めた。
深呼吸し、その場で二度、三度足踏みする。力の抜けていた足腰が、少ししっかりした。
『甘い眠り』を右手に持ち、魔物の左側の隙間を狙って、アデラは駆けだした。
魔物がうめき、頭を振る、急激に嫌いな『甘い眠り』に接近されて身をよじった隙に、アデラは魔物の脇に飛びこみ、そのまま駆け抜けた。魔物は首をねじってアデラの背中を追いかけ、口を閉じた。反応が完全に遅れてアデラを逃したものの、牙と牙がぴったりかみ合って、背中に触れそうなほど近くでバキリと音をたてる。進み続けるアデラをぞっとさせるには十分だった。
魔物がはいずりながら追ってくる気配がする。アデラは勇気をふりしぼってそこで足を止め、魔物に向き合うと、紫の薔薇を突き出した。魔物がそこで止まる。悔しそうに牙をカチカチ打ち鳴らす。
考える時間ができて、アデラは首だけ道の先に向け、その先の廊下が枝分かれしているのを確認した。
どっちだ。ここで正解にたどり着いても、次もこの調子なら、どこかで道を間違えそうだ。間違えたその先は何があるだろう。もしも袋小路だったら、また魔物に道を塞がれる。さっきだって危なかった、もう同じように切り抜けられる気がしない、何か道を示すものは、何か目印は――。
「目印……」
アデラは小さく声に出して呟いた。
『目印はこの羽』
頭の中で、ニールの優しい声が答えた。
こんな迷宮の中にも、あちこちで花が飾られている。自信と安心がわき上がってきて、アデラは思わず笑顔になった。
「わかった、ニール」
ニールの幻影に元気よく応じると、アデラは紫の薔薇を魔物に向かって突きつけたまま、慎重に、しかし小走りに進みはじめた。
Y字に枝分かれする道の手前、二つの花瓶が飾られている。『無垢な羽』があるのは右側の花瓶だけ、アデラは迷いなくそちらの道に飛びこんでいった。
ニールのメッセージを信じ、『無垢な羽』が飾られている道を選び続けて進む。行き止まりにはならなかった。正解だ。ここの飾りもすべてニールやその師匠が手がけたものなら、ずいぶん前からアデラが逃げるために準備してくれていたことになる。
進み続けるうち、階段を上がり下がりすることがなくなった。二階部分の平坦な迷路が続き、もうすぐ一階への階段が見えてくるのではないかと思われた。
魔物はまだ追ってきている。
そのときふと、ここで紫の薔薇を廊下の真ん中に置いて進めば、魔物を足止めして逃げられるのでは、ということに思い至った。
その場で立ち止まり、『甘い眠り』を魔物に向かって突き出して、にらみあった体勢で考えをめぐらせる。
もしかしてニールが館に入り込んで、手助けしてくれるのではないか、そんなことも考えたけれど、やはり自力で外をめざすしかなかった。
最後まで意味がわからなかったメッセージ『きみは囮』、あの魔物をやっつけるにはアデラの協力が必要だというニールの言葉、それらをもう一度思い出せば、ニールの狙いが見えてきた気がした。
『甘い眠り』を手にしていても、魔物はアデラを執拗につけ狙ってくる。最後まで追いかけてくるだろう。
きっとそれも正解だ。魔物をきっちり倒すために、ニールのもとまでおびき出さねばならないに違いないのだ。
ずっと魔物が追いかけまわしてくることは心底怖い。魔物を足止めできる可能性のある手段を思うと、今すぐにでもそれを実行したかった。
だが、アデラは、震えながら『甘い眠り』を握りしめ、再び足を踏み出した。ハンカチ越しに、鋭い棘がチクチクとてのひらを刺激する。ここにきて急に涙があふれてきて、アデラはしゃくりあげながら進みはじめた。
いくつかの分かれ道を経て、ついに、アデラは下階に続く階段を発見した。これまでの魔物一匹、人ひとり通れる幅の、不自然にあちこちに配置された簡素なものではなく、館にふさわしい立派なつくりの階段だ。階段の先に見えるのも広々とした踊り場、その先を下りれば、ついに一階だ。
ここは下りてしまってもいいのだろうか、一階にも見張りがいるのではないだろうか。
迷いながら振りむくと、魔物がじりじりと迫ってくる。カチカチと牙を鳴らしている。アデラは唇をひき結び、一気に階段を駆け下りた。