第2話 薔薇の力
また、あのはいずるような物音が聞こえてくる。アデラはいつものように息を殺して、ベッドの中で身をかたくした。
花細工師の青年のことは友達になったと思っているけれど、紫の薔薇のことは、そこまでたやすく信じられなかった。あれはおまじない程度のものだろう。おまじないなら、悪夢なら祓えるのかもしれない。だが、廊下の敷物には何かがやってきた痕跡がある。悪夢ではなく、本当に何かわけのわからないものが夜ごと近づき、アデラの部屋に侵入しようとしている。
そんなものを、魔除けの花くらいで追い払えるとは思えない。
今日こそその扉を開けて入ってくるかもしれない。今夜も万が一の事態に備えて、生き延びる方法を考えなくてはいけないのだ。
近づいてくる音、いよいよこの部屋の扉を探る気配。
花瓶に手をかける。枕元には、部屋にある中で一番分厚い本も置いておいた。だいぶ前に読んだ推理小説に、本で殴られて殺された人が出てきたことを思い出したのだ。
やがて、そいつがアデラの部屋の前で止まった。心臓が早鐘を打つ、冷や汗が頬をつたう。
だが、今日の気配は昨夜と違った。
いつまで待っても、ドアノブをいじる音がしない。首をかしげ、耳を澄ませていると、やがて、そいつはアデラの部屋から遠ざかりはじめた。
アデラの隣の部屋、その隣の部屋のドアノブをカチャカチャやる音が少し聴こえてきたが、最後までアデラの部屋の扉に触れることはなかった。
はいずる音が廊下を引きかえしはじめる。それが廊下の端のほうへ消えていくのを確認して、アデラは体から力を抜いた。
その夜は、気を失うように眠ることはなかった。壁の振り子時計を見ると、十二時半を少し回ったくらいを示していた。まだたっぷり眠れることを確認して、アデラは再び目を閉じた。
翌朝は久しぶりに気持ちよく目覚めることができた。
夜ごと廊下をはいずり回る生き物の気配は続きつつも、アデラの部屋の扉には近づいてこないまま、一週間が経った。花細工師のニールがやってくる日だ。
ニールと女中が廊下の端に、四階じゅうの花と花瓶を集め終わるのを見計らうと、アデラは部屋を駆けだしてニールのもとに言った。
「おはよう、お嬢さん。今日は元気だね」
「おはよう、ニール。あの薔薇のこと、本当だったのね!」
少し声が高くなってしまった。微笑んだニールが唇の前で指を立てる。紫の薔薇のことが秘密であるとアデラは思い出した。ごめんなさい、と声を小さくして、ニールのそばでしゃがみこみ、話を続けた。
「魔物、毎晩この廊下をうろうろしてるけど、わたしの部屋のドアノブを触らなかった。『甘い眠り』のおかげね?」
「そうだよ。言ったとおりだろ」
「ニールはすごい。薔薇のことならなんでもわかるの?」
「この国の薔薇には、不思議な力を持つものがたくさんあるから、薔薇を扱っていい花細工師は、その権利をもらうための試験を受けた者だけ。おれはその試験に合格してるんだ」
パチリ、パチリ、新しい花の茎を花瓶に合わせて手際よく切り落としながら、ニールはそう答えた。へえ、と目を輝かせるアデラに、ニールは目配せしてきた。
「お嬢さんの信用を頂けたと考えてよければ。もう少し内緒の話をしてさしあげようか?」
「信用したに決まってるわ! 話して話して」
「では、この話を聞いたと誰にも言わないと誓える? そうすればきみを助けてあげられる」
気さくで快活な雰囲気の青年が、最後のほうにはもう一段声を低くして、笑みまで消してこう言った。その様子で、ニールが真剣に自分を助けようとしているのだと信じられた。アデラは息をのみ、頷いた。
「誓うわ。わたしを助けて」
了解、とニールは頷きかえした。
「『甘い眠り』をこっそり仕込むのは、その場しのぎだ。こんなのはいずればれる。きみ、花館を出ないとそのうち殺されるよ」
「殺される」などという言葉が飛び出して、いきなりひっぱたかれたような心地がした。返答できず、アデラが沈黙しているあいだに、ニールが言葉を続ける。
「だからきみは、できるだけ早く花館を出ないといけない。わかる?」
「わかる、けど、わからない。あの魔物はわたしを狙ってるんだと思うけど、わたしはこの家を出たことがないの。わたしが花館を出て、出ているうちに誰かがあの魔物をやっつけてくれるの? それから、またわたしはここに戻ってこられるの?」
ニールは少し黙って、古い花を新聞紙の上に出しながら口を開いた。
「正直、あの魔物が消えてから、きみが花館に戻れるかどうかはわからない。そして、魔物をやっつけるには、きみの協力も必要。きみにその覚悟があるのなら、今日、作戦会議ができたらいいなと思って来たんだ」
「わたしが花館に戻れないかもしれないっていわれても、その理由がわからない。殺されたくないけど、ずっとここで暮らしていたい……」
「気持ちはわかるんだけど、助かりたいなら、ここで暮らせなくなることもふくめて、今週中には覚悟を決めて。『甘い眠り』をきみの部屋に使っていること、きみを救おうとしていることが知れたら、おれはこの仕事から外される。それまでに動き出さないと」
アデラは混乱した。自分を助けようとしたら、ニールが仕事から外されるってどういうこと? それを決めるのは、自分をこんなに愛してくれている主人しかいないだろうに。
「わけのわからないことを言って悪いけど、時間がないから。きみがおれを信じきれないうちは、あまりいろいろ教えると、うっかりここの誰かに話してしまうかもしれない。そうしたらもう助けられない」
だから、といったん言葉をきって、泣きだしそうになって黙りこくったアデラの肩を、ニールはやわらかくつかんだ。
「詳しい話は次会うときまでとっておこう。『甘い眠り』に効果があることはまず知ってもらえたね。次は、きみが再び花館を出たくなったときのために、その眠気としょっちゅう熱が出るのをどうにかしよう。それで今以上におれを信じられたら、来週には心を決めて」
さあ見て、とニールが新しい花の中から、目がさめるような明るい黄色の薔薇をより抜いた。
「これは『松明』という名前がつけられてる、薬みたいな効果がある薔薇だよ。これをきみの花瓶に入れておく。毎日三食後、三枚の花弁をちぎって、水と一緒に飲みこむこと。いいね」
「……これを飲めば、体調がよくなるの?」
「たぶんね。先週きみから聞いた話からいろいろ調べて、きみの体に合いそうなのを探してきたんだ」
そこでニールは、さらに声をひそめた。
「『松明』が効いても、いつもどおり眠たいふりをしていてほしい。体調がいいことを館の誰にも知られてはいけない」
「……どうして」
「夢の魔物のこと、きみがよく体調を崩すこと、全部、花館の人たちに関係があるけど、今おれが説明しても信じてもらえないと思う。だから、まずは決して魔物にきみの部屋に入らせないこと、そして、館から逃げ出せるように体調を整えておくこと。そうして今日から一週間過ごすんだ」
花館の人たちに関係がある、そのあたりを詳しく教えてほしい一方、まだ聞きたくない気持ちも確かにあった。困惑しながらも、アデラはひとまずうなずいた。真剣な様子で話してくれる花細工師の青年が嘘をついているようには見えないし、何より、『甘い眠り』のおかげでここしばらく少しは平和な夜を過ごせていることは事実なのだ。
言われたとおり、一週間、薔薇の花弁を飲んでみて考えるしかないと思った。
『松明』の効果はすぐにあらわれた。次の日、朝食の後にさっそく花弁を飲みはじめてみると、その日から、いつもの午前中の眠気はやってこなくなった。長いこと本を読んでいても疲れない。近頃は奥方のほうも体調を崩しがちで、『松明』のことを教えてあげたいと思ったけれど、ニールとの約束を思い出すと、それもできなかった。
活動できる時間が長くなっても、これまでの習慣どおり、決まった時間にベッドにもぐりこんで、眠気は来なくても本を読んでじっとしていれば、屋敷の人々にも怪しまれない。
次第に気持ちが動きはじめた。寝込みがちではなくなる可能性、外の世界に出られる可能性。それはひどく魅力的な希望だった。
そして、夜な夜なやってくる魔物に殺される可能性。「こんなのはいずればれる」。自分を十年間、大事に育ててくれた花館の人々を疑いたくはないが、今のところ、魔物も眠気も、ニールの言うとおりにすれば遠ざかっている。
悩みながら花を飲み、眠気を装って過ごしはじめてから三日、その日は予想以上に早く訪れた。