光を拾う
はじめまして。しばらく読み専でしたので、拙い部分が多いとは思いますが、折角の機会だと思い立ち、趣味で書いていたものを公開しました。マニュアルを見つつではありますが、変な部分もあるかと思います。初心者ということで温かい目で見守っていただけたらと思います。
プロローグ
「桜華、寂しいだろうが、我慢しておくれ」
日本は鎖国政策を取り、諸外国との接触は限られた所でしか許されなかった時代の事である。
医学の勉強のために、海外への窓口の一つ、長崎へ向かおうとする一人の旅装束の若侍が、病床の娘に別れの挨拶を述べている所だった。
「兄上さま。本当に留学されるのですか?船旅は危険なのでございましょう?」
艶やかな黒い髪を背に流した、整った顔だちの色白の娘が、床から身体を起こし、旅支度を整えた青年を見上げた。
「……だけど、蘭学の先生が仰ったんだ。お前の病は、西洋医学で治る可能性があるって。……父上も母上も同じ病で亡くした。わたしには、もうお前しか残っていない」
脇差しをさし、身支度を整えおえると、側に控えていた年嵩の女性に頭を下げた。
「……わたしの留守の間、妹を…桜華を宜しくお頼み申します」
「若さま……」
涙ぐむその女性の背を軽く叩き、そう言うと、ふわりと笑う。
不安そうな様子で青年を見る唯一の妹を安心させる様に優しい眼差しを向けた。
「武士に二言はない。この兄を信じて、日々を生きて欲しい」
そう言って、その屋敷の庭に植えられた、まだ若木である桜を見やった。
「剣術や体術はそう得意ではないのだが、唯一学問だけは、自身に誇れた。母上や父上の事が切っ掛けで、医術に興味を示した。……独学で色々な医師を尋ねて勉学を積んでいるのを認められて、長崎奉行のお抱え医師に紹介を受けて勉強を始めたのはかれこれ半年ほど前。その勉強も行き詰まっていた時に“阿蘭陀”に留学をしてみないかと、声をかけられたのだ。待っていろ、桜華。……必ず、この兄の手でその病を直し、一緒に花見をしよう」
桜華は、兄…雪之を見上げ、泣きそうな表情をした。
兄はいつも桜華を一番に考え行動する。その心が嬉しくもあり、寂しくもあった。人並みの幸せを、兄に与えたくもあったし、桜華という枷から解放してあげたかった。だが、病のある身では兄は桜華が何を言おうとも聞かないだろう。自分という者がいるために、兄は恋人すら作っていない気もして、身の置場もないほど辛かった。
「……桜華? 身体が辛いのか」
心配そうな顔が、俯いた桜華の視界に飛び込んでくる。桜華は首を横に振ると、無理やり笑みを作った。
「いいえ、兄上さま。 桜華は、兄上さまがお帰りになるのをお待ちしています」
目元が僅かに潤んでいたが、精一杯の微笑みを浮かべた。
「そうして、庭の桜の下で、花見をしましょう。ウメと、この桜華と、兄上さまの三人で」
ご無事でいる事を信じていますとそう告げて、雪之を送り出し、これから自分の世話をしてくれるだろうと思われる乳母のウメと、門の所で見送った。火打ち石を打ち、厄を払う。時々、振り返って見送る桜華とウメに手を振った。角を曲がって姿が見えなくなった時、初めて涙が零れる。
「……桜華お嬢様……」
労るように肩を抱くウメの肩口に顔を埋めて桜華は震える。
「……兄上さまが、霞んで見えたの。わたくしは、兄上さまを失うのかしら」
予感があった。それを打ち消す様に、ウメは桜華をギュッと抱く。
「大丈夫ですとも。若さまは、お嬢様を残してどうにかなるお人じゃありませんっ」
そして軽く背を叩く。それは幼い子供を宥める仕種にも似ていた。
「ええ、そうですとも。雪之さまは、それはそれはお優しいお方ですから、きっと役目を果して桜華さまの所へ、飛んで帰って来るに違い有りません」
桜華はくすりと笑った。ウメの腕を軽く拳で叩くと一つ頷いてみせる。
「そうして、今度こそ桜華は兄上さまのために、お嫁さんを見つけて差し上げるのだわ」
それを夢見ようと、桜華は思った。……そう思って、庭の桜の若木を見る。
その桜は、桜華が生まれた時に植えられた木だった。樹齢十四年の木である。
その木に桜華は祈る。
(……どうか兄上さまをお守りください)
祈る事が、これから先の桜華の日課となる。
幾度四季が巡ろうとも、どんなに悪天候の日も、とめるウメを振り切って、兄の息災を願い、若い桜の木に祈りつづけた。
──────────生涯。
1
光が落ちてくる。
近江雪之正守はそんな錯覚に囚われた。
故国・日本を離れ、師である風祭源一郎に付き添って、阿蘭陀の船の乗ったのは、かれこれ二月以上前の事である。
航海中はさして海が荒れる事もなく、遭難する危機に遭遇する事すらも無く、順調に目的地にたどり着いたのだが、言葉が通訳の者を仲介しないと判らない事だらけだった。
母国で無い資料を漁って、独学で勉強した雪之を含む留学生たちだったが、実際には殆ど役にたたなかったりして、知りたい事が多々あるのに、それが障害となり、中々本来の目的である医学までたどり着けない。
読めない書けない理解出来ないの三重苦で悲鳴を上げる毎日である。
幸い、泣きそうな気分に成りながらも、必死に語学の勉強に勤しむ面々に同情した通訳の者が、余暇を利用して親切に言葉と読み書きを教えてくれた。
「ツメコミスギハ、覚エル効率ヲサゲルネ」
と、医学より先に言葉を覚える勉強をする事になった留学生たちにそう言って、昼の休憩どきや、一日の勉強過程を消化しおえた後に、町に繰り出し、時間が許す限り色々と説明してくれた。
美術館や図書館など、公共的な建物を何台かに別れて乗り込んだ馬車の中から示しつつ、実物と文字を比較しながら、日本語と阿蘭陀語を交互に発音しながら教えてくれる。
気分転換を混ぜながらの彼の教え方のお陰で、二ヵ月を経過する頃には、たどたどしいながらも簡単な会話を留学生たちは成立させるまでになったし、読むことに関しては、通訳の人の手を煩わせない程度まで上達した。 現在は、念願の医学の勉強に没頭する毎日である。
「先生、あれは何ですか?」
その日、医学についての講義を聞きおえ、宿泊している建物へ帰る途中だった。
「どれ?」
留学生の一人である加納宗次郎は、伸び上がるようにして、大通りの向かい側に建つ、他の建物から異彩を放った作りのそれを示した。その建物の前には、馬車が何台も留まり、着飾ってはいたが、どこか質素な洋服を纏った貴婦人や紳士たちを下ろして走り去っていく。
「あの建物ですよ。……何をするつもりでしょう。沢山の人達が中に入って行くのです」
硬質な四角い建物の並ぶ町中で、精巧な彫刻をあしらった尖った屋根を持つその建物は、人が住むには不向きな様子だった。ホテルと呼ばれる宿にしては、建物を潜る時の人々の顔の表情が神妙である。宗次郎の見ているものを見た他の者たちも不思議そうに見つめた。
「この辺りにわざわざ足を留めるほど有名な場所があったとは、聞いていないな」
「……とても美味しい料理店がある……とか。だが、料理を食べるのなら、あんなヴェールは邪魔だぞ」
源一郎は、好き勝手想像しながら思い思いの意見を述べる宗次郎たちの視線を追って、話題の中心である建物を見、「なんだ、あれか」と笑いながら呟いた。
「……先生?」
「きりすと教徒の教会だ。……そうだな、日本で言えば仏教の寺院の様なものだろう」
きりすと教と聞いて、興味が湧いた雪之たちである。故国・日本において、色々問題の起きた宗教の一つだ。天草では、そのために多くの人々が亡くなったと聞いている。
「我々の知る宗教的建築物とは随分異なりますね」
神社や寺院の趣とはまるで違う、その不可思議な雰囲気を持つ建物に興味を抱く。
それを察したのだろうか、源一郎は隣を歩いていた、通訳の人に二三話すと、笑って「ご案内しましょう」と申し出てくれた。そして教会に入ったわけだが、その壮麗で幻想的なその装飾に目を奪われる。中で見事だったのは、丸天井一面に描かれた壁画だった。
目眩がしそうなほど高みを描く雲の層。今にも羽ばたきが聞こえてきそうな羽根の生えた綺麗な人々。みなが穏やかな表情で、どこか恍惚と互いに囁きあいながら、連なり高みを目指す雲の更に遠くにある光を目指して飛翔していた。
実際にいそうなリアルさを持つその壁画に、案内されてきた雪之を含めた留学生たちは暫し見とれる。
「……いやあ……見事だ」
かすれた声で感嘆の声を上げたのは、源一郎だ。それ以上、言葉にしようが無い。
ただ、その時源一郎が感じた気持ちは、等しく雪之たちの言葉でもあった。
見せてくれた通訳の人は、自分たちの文化を素直に認められた様な気分なのだろう。嬉しそうに何度も頷いて雪之たちと壁画を見比べていた。
(……また、見に来よう)
余暇が出来た時の、暫しの休息にはもってこいの静けさと冷やかさ。勉強に明け暮れていた留学生たちにとっての束の間の目の保養となった。
(異教徒とはいえ、鑑賞するだけなら、構わないはずだ)
誰もがそう思い、互いに祈りの邪魔に成らない程度にささめいた。仏教の寺院とは趣の違うそれらに浸って、その場を後にする。
「装飾が細やかだったな。近江殿」
雪之はそう声をかけてきた者に「そうだな」と頷き、丸天井の壁画を思い出した。
「……背に羽根が生えた人種がいるのだろうか?」
その問いに対して答える者は居ない。
(……宗教画の中だけの存在なのだろうか)
雪之の中に、一つの疑問が生まれ…それが、不思議と心に残るものとなった。
(絵のなかの彼らは何を欲しているのだろか?)
願う様に、焦がれる様に、空の高みを見つめていた。
(……これを書いた人達は、何を求めていたのだろう)
羽ばたきが聞こえる。彼らが求める光はどんな形をしているのだろう。
雪之たちが宿泊している場所は、彼らの希望もあって、町中から少し離れた郊外にある。
着物に袴、独特に結い上げた髷に腰に差した刀…何より明らかに東洋人だと判る姿は、好奇の眼差しで見られて、心の休まる所が無いからだ。
夕方、今日の予定を終えて戻った雪之は、ランプの灯で明日行われる実習の予習をしていた。病に倒れ亡くなった人の解剖が行われるという事で、人の体内がどうなっていて、何がどういう役割を示しているかを説明してくれるらしい。
本は借り物だったので、必要な所は抜き書きしていた。大切な部分は、印を入れる。
腕の樽さを覚えて顔を上げると、既に外は暗くなり、部屋の灯がともっているのが自分の部屋だけである事に気付いた。そして苦笑する。妹の…桜華の声が、優しく囁いた気がした。
────兄上さま。無理をなさらず、お休みくださいませ。
望郷かな、と雪之は思う。病気の妹を遠くに残して来た事もあり、こうやって何かの拍子に思い出し、桜華の安否を気づかった。
(……きつくないだろうか)
城勤めを終えて屋敷に戻ると、いつも床から身体を起こし、土間で出迎えてくれた。
コンコンとか細い咳を繰り返す桜華は、一度も“苦しい”とは、言わない。
────兄上さま……。
それでもいつも、雪之の仕事ぶりを気づかっていた。それが脳裏から離れないのだろうか。こうやって離れていても、その心配りを思い出す。 夢の中でも、時々過る幻聴も、どれもが雪之を労っていた。
催促されている様な気がして、苦笑しながら本を閉じる。ランプの灯を消して未だ慣れない柔らかすぎるベットに入ろうとした。
「……なんだ、あれは」
窓の外の闇の方が灯を吹き消した室内より明るい時間帯だったが、それでも、夜と呼ぶべき暗闇に包まれていた。
その暗闇の世界を、一条の光が空を割いて落ちてきたのだ。雪之は驚いて窓の側へ駆け寄ると、閉じられた窓を開け放ち、身を外へ乗り出す。
空は満天の星。その星のかけらが一つ流れ落ちた様な錯覚を受けた。雪之の宿泊している場所からそう離れていない林の中に、チラチラとした残像を残しながら、落ちていく。
気がつくと、廊下を出て、光を追うように、外へ走り出ていた。
消え行く光の軌跡を追って、落下地点をうろうろと探し、そこで雪之は不思議なものを見つける。
「……“光”が落ちている」
純粋な蜂蜜を溶かし込んだ様な色の髪だった。身を覆うのは、西洋風の使い込んだ戦装束だが、先程まで戦闘に身を投じていたかの様な風体である。少し離れた所には、見事な細工を刀身に刻んだ剣が、地面に生える様に突き立っていて、空に登った細身の月の光を浴び、鈍く反射していた。
雪之は瞬間、息を短く吸い込んだが、口から出たのは次のようなものである。
「……どうしようか」
雪之は困惑して、屈んだまま腕を組んだ。その者、──── 多分女性と思われる────を見つめながら、眉間に皺を寄せて唸った。
「怪我人らしいから、助けるべきなのだが……」
気を失った青白い顔は、見たこともないほど造作が整っていて、思わず不謹慎な事だが見とれた。だが、この者の背に生えている大きな双翼は、何を意味しているのだろう。
「……西洋人には、時々とても綺麗な人がいる事は知っていたが、ここまでとは思わなかったな。わたしは」
感嘆の声が思わず漏れる。そして、
「……しかし、西洋には背中に羽根を持った人種がいるとは知らなかった」
初めは作り物かと思ったが、触れてみると、血が通う暖かなもので、どうやら鳥と同じ、身体の一部だと知れる。
「だが…この怪我。刀傷だぞ」
大きな戦争があっているとは、近隣に詳しい通訳の人から聞いた事も無かった。
ふと、瞼が震えて固く閉じられた目がゆっくりと開いた。雪之を一度ぼんやりと見て、驚いた様だったが、怪我が酷いのか、再び意識を失う。雪之は相手の状況を見て、怪我の手当てが早急に必要だという事が判り、そっと抱え上げた。今は亡き母が病に倒れて、床から離れられなくなった時、四季の訪れを直接見たがった。それでよく、抱え上げて縁側に連れていってた経験から、どの様に一人で人、一人を運べば良いかはコツを知っている。
弛緩しきった身体を運ぶのはとても難しいが、この場所から、雪之の宿泊している建物までそう距離は無かった。どうにか背負い上げると、部屋まで背負って行く。自身のベットにその者を横たえると、さっそく治療を始めた。診察を始めて判った事は、出血のわりに、そうひどい怪我は無かったという事。これなら、自身の知識だけでどうにかなるとホッとため息を付く雪之である。
身体全体を診察し終えると、怪我を治療し、包帯を巻いてそっと寝かせる。
雪之は、引き寄せていた椅子に座って、怪我のために熱をだしたその者の額に濡れたタオルを置き、時々温くなった濡れタオルと水を変えながら、病状を観察した。熱が下がって落ちつく頃、暗かった空も光がさしてくる時間帯となる。雪之は看病疲れと病状が安定した事に安堵してか、いつのまにか椅子に座った状態で、眠ってしまった。
2
“マリアージュ”。蜂蜜色の長い髪と、淡い水色の瞳を持った双翼の美少女は、そう名乗った。黒髪に黒い瞳、琥珀の肌が珍しいと、不思議そうに雪之に言ったので、苦笑しながら肩を竦めた。
「だって、仕様がない。わたしは、この国の人ではないのだから」
少女は、硝子細工の風鈴を鳴らす様な繊細な声を震わせて、興味深そうに雪之の髪に触れてくる。
『……この国の人間ではない?』
少女の話す言葉が、何処の国のものかは不明だった。響きも聞いたことが無いが、何故か目の前の少女が話す言葉が理解出来る。それを訝しく思いながらも、少女の疑問に答えるべく口を開いた。
「海を隔てた東の果ての島。……そこが、わたしの故郷なのだ。そこでは、この取り合わせがほとんどで、貴女やこの国の人々の様な色彩を持っている人は居ない。……本当に、こちらの国は、人が極彩色豊かだ」
赤い髪に栗色の髪、金の髪に銀の髪。そう言って指折り数えてみせる。双翼の少女…マリアージュは、少し考える様な素振りを見せる。
『……その様な人間たちの国があるなどとは、わたくしは、知らなかった』
雪之はおかしな言い方をマリアージュはすると思う。雪之は、この様子では自分たちが常識だと思っている事を知らないらしいと思い、試しに故国で得た知識と、こちらで得た知識を合わせて、マリアージュに話した。
「……わたしたちの様な人を東洋人というのだそうですよ。世界には、沢山の国に沢山の人種が存在する。まだわたしは見た事が無いのですが、黒い肌の人や褐色の肌の人等がいるらしい。そして、きっとそれだけの宗教も存在するのでしょうね」
宗教と聞いて、ピクリと反応する。雪之は、興味を持ったのかな。と、思いながら、故国と隣国・中国の話をした。
「いろんな姿を持つ妖魔や神を祭っている道教や密教、印度から伝来したという仏教。……このあたりの地方と同じ、きりすと教を祭った部族もあったかな。……故国では、中国に伝わったそれらの一部が、儒教として伝わった。元々ある神道や自然崇拝。……八百万の神々と言われるくらいだからね。うん、西洋は一神教が多いけど、東洋は多神教が多数を占めているし……あれ? どうしたの」
話している内に、マリアージュの様子が、段々おかしくなって来たのに気付き、首を傾げた。
『……そういう事も、わたくし…存じませんでした』
何をそんなに陰鬱になっているのか、ショックを隠しきれない様子で肩を落としている。
雪之は、慰める様に軽く肩を叩いた。
「わたしも、国を出るまで知らなかった事が多かった。気にする事も無いと思うよ」
そして、落ち込み気味のマリアージュの気を紛らわせるため、故国の事を話す。
柔らかな空の色、四季折々の豊かな自然、そしてそこに育まれた独自の文化。
話して聞かせるうちに興味を持ったのか、身を乗り出すようにして色々な質問をしてきた。生活様式や風景、そこで信じられている神々の事を。
その内に雪之の服を珍しげに一つ一つその名称を聞いてきた。雪之は帯や羽織の事。「これも一種の民俗衣装という物だろうな」と呟く。
淡い瞳を輝かせて無邪気に聞くその様子を見ていると、誰かの面影と重なった。
誰だったかと首を傾げて…それが、故国に残してきた妹の幼いころである事に思い当たる。
父がいて、母が居た。病にかかる前で、悩みも苦しみも無い、そんな時代の妹の笑顔だ。
今の妹は…桜華は陰りのある笑みを浮かべる。優しくて、だけど儚い笑みを浮かべる桜華を見る度、切なくなる気持ちを抑えられない。
ぼんやり自らの思いに囚われていると、着物の裾を引くのに気付いて、困った様に笑う。
気にしている様子でしきりに顔を覗き込むマリアージュに、「妹を思い出した」と正直に告げた。
『……妹?』
理由が判らなくて問い返すマリアージュに、この国へ来た切っ掛けだと、苦笑しながら答える。
「妹は…桜華は、病を患ってもう二年以上経つ。父や母と同じ病だ。故国の医術では、綺麗な空気のある場所で、静かに暮らすしか治療する術がない。だから、この国へ来た。病から解放する術を探すため、わたしは異国であるこの地に足を踏み入れたのだ」
『……見つかった?』
按じるような表情で、雪之を伺い見る。雪之は否定の意味で、首を振った。
「そろそろ半年経つけど…まだ。でも、きっと方法を見つける。……方法がある事を信じている」
マリアージュは、しばらく雪之を見ていた。
そして微笑む。同意するかの様に、何度も頷いてみせた。雪之は、それを見て、何処かホッとする。
「怪我をみせてごらん」
素直に腕を差し出したマリアージュの傷を一つ一つ見ていく。そして、その怪我の治癒の速さに感嘆を覚えた。酷い裂傷も幾つか存在していたのに、殆どがその傷口を閉じ、治癒している。全ての診察を終えた後、
「あと、三日だね」
と、告げた。聞き返すマリアージュに、傷の完治にこのまま順調にいけば三日だと、そう告げる。すると、マリアージュは、複雑な表情をした。喜ぶかと思ったのだが、この反応は何なのだろうと奇妙に思う。
診療器具を鞄に仕舞っていると、マリアージュは、ここに来た当初からの疑問を口にした。
『……わたくしがこの部屋にいる事を、他の人達には言わなかったのね。……何故?』
マリアージュの問い掛けに、雪之はあっさり答えて返した。
「だって、きみの様な人種は町中でも他に居ない。初めはこの国の何処かにきみの様な人種がいると思っていたけれどね。……見つけた事といえば、町中の教会の壁画くらいだ」
そういって、苦笑した。
「そうなると、他の人に見つかっては困る状況に陥る事になるだろうと予想がつく。……好奇の眼差しで見られたり、下手をすれば捕まる。……それは、嫌だろう?」
思わず頷いたマリアージュに雪之は笑顔を向けた。
「なら、何事も無いまま、無事空に返してあげるのが、道理だ。違うか?」
『…………』
雪之の言いように、マリアージュは子供の様な無防備な表情で見返して来た。
雪之は、幼い子供を宥める様に、軽く頭を撫でると、
「人が来たら、隠れるんだぞ」
と、念を押して、部屋を出ていく。
それは日課だった。雪之は、何時もの様に、筆記用具を持って部屋を出ると、師の元へ向かう。
その後、他の留学生たちと共に、町へ今日の予定をこなしに向かうのだ。
『ユキノ……』
泣きそうな声で、扉の向こうに消えた雪之を呼んだ。そして、顔を伏せる。
『ユキノ。……何処?』
何度か、心細げにその名を呟いたが、近くに居ないから、返事を期待出来るはずがない。
だが、それを知っているはずなのに、マリアージュは、呟き続けた。
何度も何度もその名を呼び、窓から覗く空を見上げる。
『三日しか、側におれないの? もっと、大きな怪我をしていたら、ずっと側におれたのに』
そして日が暮れる頃、勉強するために借りてきた沢山の本を、何時ものように抱えて帰ってきた雪之に、マリアージュは何時もと違った笑顔を向けた。
その反応は今まで無かった事なので、雪之は面食らって硬直する。
立ち尽くす雪之を見て何を思ったのか、今まで語ろうとしなかった自身の話を語りだした。
雪之は椅子を引き寄せ、聞く事に専念する
『……わたくしは、人間じゃないのよ』
それが、第一声だった。雪之は目を丸くする。
『……この国の人達が神の使いという意味で、“天使”と呼ぶ存在がわたくしたちなの。……現在魔界と呼ばれる場所と、わたくしたちが所属する天界では、紛争が起きているわ。紛争事態は頻繁に起きているけれど、今回起きたこの紛争は長くてそろそろ千年は経過している』
雪之は驚いた様子だったが、それは一瞬で、次に真摯な眼差しでマリアージュを見つめた。
「だから、あの様な戦装束を身につけていたんだね。きみは戦士なんだ」
『この戦いの決着は、魔界側が天界の管理する、“魂の部屋”から盗んだ、三冊の神書の一冊、過去を綴った本を無事取り返す事にかかっているの。……悔しいわっ! 張本人を見つけ出し、追い詰めた所だったのにっ』
雪之は、ギリギリ唇を噛みしめて悔しがるマリアージュの肩を軽く叩いた。
「肩の力を抜いて。……今は焦る時期じゃないだろう。まず、怪我を直し、万全の体制で望むことが現在の目標だ」
マリアージュは、雪之の言葉に素直に頷いた。
「紛争というからには、戦っているのは、きみだけじゃないのだろう? きみがその時取り逃がしていたとしても、他の戦友たちが、きっと何らかの形で、敵の情報を得ているはずだ。戦線復帰するまでに、考える事は多いだろう? 焦る気持ちも判らないでもないが、この状況に陥った事を利用するくらいの、心の余裕を持った方がいい。……相手も、きみが居ないことで、油断しているかも知れない。そこを突くというのも、戦術の一つだよ」
マリアージュは、嬉しそうに何度も頷いた。
『遅れを取った事ばかり気にしていて……全然そういう事を考えていなかった。ユキノは、凄い。……わたくし、別な角度から見るという事を忘れてました』
雪之は照れくさそうに笑って首を振る。
「第三者の目から見て思った事だから、凄い事じゃない。……きっと、当事者だったらまた見方が変わったかも知れないし。それより、マリアージュの方が凄いじゃないか。わたしたち“人”が、確証持てない“神さま”に仕えているのだから。……その御使いであるきみを助ける事が出来て嬉しく思う」
マリアージュは、その言葉を聞いて、少し沈んだ表情をする。雪之は、それを不思議そうに見た。マリアージュは、沈んだ表情のまま、掛け布団を頭から被って雪之に背を向ける。
「……気に障る事を、言った?」
突然取ったその行為に、意味が判らずそう問いかけたが、返事が無かった。雪之はしばらくその背を見ていたが、一つため息をつくと、机に戻り、借りてきた本を開く。
読んでいる内に、そのままウトウトと居眠りを始め、終いには突っ伏したまま、寝てしまった。
(……この、綺麗な天使が訪れて、桜華の夢を見なくなったな……)
久方ぶりに夢に訪れた妹の面影に、忘れたわけじゃないよと、言い訳をする。
誰かが泣いている気がした。……雪之は眠りに身を任せながら、それが切なかった。
3
『好きです。……だから、わたくしの事を忘れないで』
脳裏に谺するのは、星降る夜に拾い上げた一つの光。奇麗な水色の瞳に涙を溜めて真っ直ぐ雪之を見つめた。目の前の者は人間じゃない。背に翼を持つ異形だ。だが、雪之にとって、その様な事は関係がなかった。
安心させるために、そっと抱き寄せ、子守歌を聞かせるように何度も囁く。
「大丈夫。……大丈夫、だから……」
そうして、柔らかに笑って見せる。
「お勤めを終えて、マリアージュがここに来たら、一緒に海を越えよう。……故郷に妹が待っているのだ。自慢の妹だ。いつもわたしの事ばかり心配している優しい子なのだ。その子に会わせたい」
『……ユキノ……』
「マリアージュ。きみの無事を祈っているよ。祈るだけだったら、きみの国の神様も、わたしの国の神様も、きっと許してくれると思う。……だから、無事で。わたしはここで待っているから」
なきそうな顔に精一杯の笑顔を浮かべて、拾い上げた光は天へ帰っていった。
あれから、どれだけの月日が流れただろう。
「……近江殿。今日も教会へお寄りなさるのか?」
いつのまにか、教会に足を運ぶ自分を自覚する。志を同じくする、学友が付き合いよく雪之と肩を並べた。
「岡田殿。……そういうおぬしは、わたしの付き合いで教会に足を運ばれているのだとしたら、そうとうのお人好しだぞ」
岡田二郎忠信。雪之の郷里ではかなり名の知れた武家の次男坊だが、幼い頃に父親との剣の練習時に負った傷が元で、右手が自由にきかなかったりする。今回の留学に参加したのは、怪我を負うまで向いていた武道への興味が学問へと方向を変え、お上からの留学への公募の折り、名乗り出たのである。
「暴漢に襲われた時に、誰が助太刀する?」
右手が不自由とはいえ、左手一本でも、普通の者では歯が立たないほどの剣技の持ち主だった。その言いように、淡く笑う。
「なるほど。たしかに、岡田殿が居れば、多少の事では動じないで済む。……わたしは、せいぜい考える事に集中しているよ」
その手に疎い雪之が唯一認めた剣士だ。だが、同じように忠信は雪之の知識に対する貪欲さには一目置いている。互いに認めあった者同士だ。気も合い、その日その日習った事に対する意見の交換も良くする。
そうこうする内に、目的の教会へたどり着いた。慣れた様子で扉を潜り、シンと静かな祭壇のある内部に足を進める。この辺りではそろそろ馴染みはじめた異国の風貌の雪之たちの教会通いに、きりすと教信者たちは、初めて教会を訪れた頃に見せた興味本位の視線を注がなくなっていた。ただ、好意的に笑顔を向けるだけである。
「岡田殿に、近江殿」
声を潜めて二人に声をかけてきた者が居た。
「先生? 珍しいですね。この様な場所でお目に掛かるなんて」
信者たちの祈りの邪魔に成らないように、雪之と忠信はいつも後ろのほうの椅子に座って、静かな空間を満喫していたが、初めて通訳の者が教会に案内した後、ここへ訪れる事も無かった源一郎の出現に、大きく目を見開いた。
源一郎は大きく肩を揺らすと、雪之にとって嬉しい知らせを口にする。
「……妹御のご病気。以前、儂が診察した事があっただろう? どうやら、“結核”と呼ばれるものらしい。その治療法が掲載された書物を見つけたのだ」
雪之は思わず立ち上がり、源一郎の方へ身体を乗り出す。
「ほ、本当ですか。先生っ」
声を荒らげかけ、そこが何処かを思い出して声量を落とした雪之に、源一郎は頷いてみせる。
「他にも色々乗っていた。まだ、翻訳の途中でな? ……二人とも、手伝ってはくれまいか」
雪之は喜色を浮かべて源一郎の手をしっかりと握る。
「……希望を見た気がします。……こちらへ来てそろそろ二年はたとうというのに、語学の勉強以外に本来の目的“医学”に関しての勉強が進まなくて、気落ちしていた所があったんです。……本当に……本当に、有り難うございますっ」
泣きそうな瞳でそう言い募る雪之を横で見ながら、忠信は「良かったな」と声をかけようとして、今まで前方で祈りを捧げたり、賛美歌を歌ったりしていた人達が騒ぎながら窓の外を指さしているのに気付き、首を傾げた。 示された外を釣られて見た忠信は、一度瞬き、自分の頬を打った。だが、目の前で起こっている出来事が現実のものである事を知って、無意識のうちに雪之と興奮気味に話し込んでいる源一郎の腕を取っていた。
「……か、風祭先生……近江」
顔色を蒼白に変えている忠信の方へ二人は「何か」と言わないばかりに振り返る。
「そ、そとっ……外を見てくださいっ!」
源一郎と雪之は普段の彼とは思えないほどの言語の乱れを見せる忠信の様子を不思議に思い、何も考えずに忠信の示す方向へ顔を向けた。二人は、そのまま硬直する。
「……………なんだ、あれは」
かすれた声が誰から漏れたのか。目の前に繰り広げられる出来事が、彼らの許容範囲から外れていた。雪之は反射的に教会の入口へ駆け寄ったが、扉を開けようとした瞬間、奇妙な物が奇声を上げて、扉に体当たりをかけている事に気付き、慌てて錠前を下ろす。
「外に出たら、一発でおしまいだ。我々はここに閉じ込められたらしいっ!」
ドン、ドンと断続的に響く重い音。丈夫で重い鉱鉄製の扉だというのに、何か得体の知れないモノの体当たりで、扉の表面が、生き物の様に波うつ。
「長くもたんな、この扉は……」
冷や汗を流しつつも、辺りを見渡した。扉が破られても暫くは持つように、何か重いものを移動してこなければ成らない。
「一体全体なんなんだっ!」
武者震いなのか、カタカタと身体を震わせた。ガラス張りなのに、教会の窓が外からの進入を防いでいるのは、強固な鉄格子が編み込まれているせいに他ならない。忠信は顔色を失いつつも外を睨み付けたまま、脇差しに手を伸ばした。何時でも抜刀出来る様に構えたのである。
教会の中では、信者の者たちが恐慌状態に陥って右往左往に走り回ったり絶望的な声を上げる者で、ごった返していた。
「落ちつきなさいっ! こういう時にこそ、我等が父、神に祈るのですっ!」
騒いで絶望の声を上げる信者たちに、聖職に付いて長い、この教会の神父が、大声を張り上げて一喝した。
「神父さまっ!」
「ああっ、神さまっ……」
十字の紋章を纏った、聖職者に縋りながら信者たちは救いを求めるために祈りを捧げる。
「何時、祈るのですか? こういう時にこそ、祈るのではないのですか。神を信じ、その御心にお縋りするのです。私たちの心の声を、我等が父、神は見過ごすはずはありません」
神父は、信者たちをどうにか落ちつかせると、移動可能な家具を見つけ、破られそうになっている扉のほうへ運ぼうと行動を移した雪之たちの方へ足早に近づいてきた。
「……あれは、デビルです。デビルがわたしたちの町にやって来たのですっ! ……理由は何故か判りません。あなた方も祈りましょう。祈って、神に助けを請うのですっ」
次に近くの書箱を源一郎と雪之、忠信三人で移動させ、扉の前に押しつけ扉を塞いだ。
「……こちらの国ではあの様な生き物の襲来はいつもなのか?」
汗を拭いながらも、祈りに参加させようと躍起になっている神父に問いかける。
「コウモリの羽根に山羊の身体。大蛇の頭に獅子の身体。……化け物の巣窟だっ! こんなのは、見たことも聞いた事もないっ」
呻くように忠信は感想を述べる。源一郎たちの質問に神父は「いいえっ」と強く首を振った。その間にも窓の外では、異形のモノたちに襲われて悲鳴を上げて倒れる者や、転倒した馬車が目につく。源一郎がふと視線をやった先では、転倒した馬車の馬や人に、双頭の獅子が、襲いかかって食い千切る所だった。鮮血が飛沫、その様は現実とはかけ離れた場所にある。
教会からそう離れていない場所にある、建物の割れた窓硝子から異形のモノ共が中へ進入しようとしているのも目に入ってきた。
その様子を苦い気持ちで睨みながら、忠信はこの教会がどれだけ持ちこたえられるか軽く予想出来て、無意識の内に抜刀した刀の柄を握りしめる。掌にはすでにじっとりと脂汗が滲んでいた。
雪之は神父の話を聞きながら、ふとマリアージュの話していた事柄を思い出し、それを口にした。
「……あの壁画に似た姿の者が言ってました。現在、魔界と呼ばれる所と、天界と呼ばれる所が、紛争状態だそうです」
神父は今まで源一郎と向かい合って、祈ることの意義を切々と訴えていたが、雪之の言葉を聞いてギョッとした表情になる。
「…………壁画? 天使の事かね。それに紛争って?」
雪之は首を少しひねり、思い出しながら答えた。
「ええ、そうです。確か人々には、天使と呼ばれる存在だと彼女は言ってました」
神父は、雪之の言葉に絶句する。雪之はその様子に気付くことなく言葉を続ける。
「なんて言っていたかな……ああ、そうそう。魔界側が、天界側から大切な物を盗み出したからだと言ってましたが……。どうしたのですか? 神父さま」
記憶のなかの言葉をなぞるように口にしていたが、聞き手である筈の神父の気配が急に変わった。雪之は怪訝そうに屈んで神父の様子を伺う。
『……アア、オマエダ』
嗄れた声を聞いた気がした。雪之は、ハッと顔を上げて声の主を探す。
「どうされた?」
「持病でも持っていたのだろうか?」
突然苦しみだした神父を気づかう様に、源一郎と忠信は身を屈めた。
「……薬は必要ですか?」
背中を摩ってやったりするが、治る様子も無い。源一郎は、身を横たえる場所を探して顔を上げた。
その間にも、神父は胸の辺りを抑え、身体をくの字に折って脂汗を流している。末は血泡を吹き出したのを見て三人は蒼白になった。
「誰かっ! 神父さまに薬を……」
忠信が顔を上げて祈りを捧げている信者たちに声をかけた瞬間、心配そうに覗き込んだ雪之の肩をがっしりと捕らえ、顔を上げた。
「…………っ!」
その顔は、人のものとは思えない表情をしていた。先程まで穏やかだった神父と、同一人物なのか疑えるほどの変わり様である。
『ツカマエタ』
ニタリと神父であったモノが笑った。聞き違いかと思ったその嗄れた声は、目の前のソレから雪之に対して紡がれる。
神父自身もかなりの年配であったが、声質がまるで違っていた。
神父を心配した信者たちは、ぞろぞろまわりに集まって来る。
「……神父さま?」
様子の変わってしまった神父に、信者の一人である年配の婦人が声をかけた。婦人の声に、雪之の肩をがっしり捉えた神父が振り返る。甲高い悲鳴が、その瞬間上がった。
メキメキと奇妙な音がして、首が回る。服を破き、ぶくぶくと身体が大きくなり、白人特有の白い肌を裂いて、深い緑と黒の爬虫類に見られる物が出現した。雪之は神父だった身体の鮮血を浴びながらぼうぜんと見上げる。歯がカチカチと鳴り、ごくりと喉をならす。額にはじっとりと冷や汗が浮かんでいた。 信者たちの間から再び悲鳴が上がる。源一郎と忠信は抜刀して雪之を救うために切りかかっていったが、雪之を捕らえた異形の背の羽根が羽ばたいた途端、吹き飛ばされる。
「岡田っ! 先生っ!」
悲鳴の様な声を上げて、吹き飛ばされた二人の方へ雪之は視線を向けた。
「近江ーっ!」
別な場所で女の悲鳴が上がった。大きな音をたてて窓の硝子が砕け散ったのである。
一瞬、人々の意識がそちらへ奪われた。その場に居た誰かが、ぽつりと呟いた。
「……ガラスが……っ」
大きな羽ばたきが雪之の耳を打った。はっと我に返った時には、雪之の身体は宙に浮かび上がっている。
「近江っ!」
馴染んだ顔触れが、必死の形相で雪之の方へ手を延ばした。それをあざ笑うかの様に源一郎や忠信の頭上を二度ほど旋回すると、割れた窓から外へ飛び出す。騒ぎは更に大きくなっていた。
「わたしを、何処へ運ぶっ!」
ギリギリと雪之は歯を食いしばり睨み付けるが、異形は意を解する様子も無い。その頃には神父だった姿とは似ても似付かぬ姿と成り果て、がっちりと雪之を腕に抱えたまま、かなりの上空へ飛び上がっていた。
雪之の視界に、箱庭の様に見える街が存在する。今まで自分がいた場所とは思えないほど、小さく見えた。その街から、黒い煙が染みだすように引き上げられる。それは、良く見ると町を蹂躪していた他の異形たちだった。
「わたしを何に利用する気だっ!」
現実に起きたとは思えない現象。そして、物語にしか存在しない様な出来事が続き、雪之は、嫌な……とてつもなく嫌な予感を覚えていた。心臓の音を大きく感じながら、雪之はこの果てに何が待っているのか、朧気に想像できる自分が嫌で堪らなかった。
(……まさか……。いや、そんなはずはないっ!)
首を振り、懸命に否定する。そして必死で祈った。予感が外れる様にと。
だが、最悪の結果とは、追い詰められた時にこそ、回避出来ないのだと何処かで知っている自分が別に居る気がして、苦い表情のまま深く目を閉じた。
「忘れないで」と訴えた彼女に「忘れない」と答えて返したのはそう遠い昔ではなかったはずだった。彼女は言った。帰って来ると。だから約束した。待っているからと。
だが、この状況は望んだ事じゃなかった。
教会からさらわれて、連れてこられたこの見知らぬ場所で、雪之は彼女と再会した。
戦いに卑怯も卑劣も無い事を知っている。
蒼白な顔で剣を構えたまま、人質として捕らえられた雪之を、久しぶりに見たマリアージュは凝視していた。
自分が何に利用されているのかを雪之は知っていた。雪之を捕らえたこの異形は、それを楯にマリアージュを傷つけようとしているのだ。逃れようともがくが、逆に締めつけられて気が遠くなる。
『コレハ、オ前ノ殉教者カ? ナラバ、コノ者ノ死ヲ命シレバヨイ。崇高ナ使命ヲ全ウサセルタメニ命をサシダセト』
マリアージュの泣きそうな水色の瞳が、異形と雪之の間をゆらりと彷徨う。使命と感情の間に揺れ動く様が雪之を切なくさせた。
(……泣かないで欲しい)
雪之は、異形に捕らえられた不自由な姿勢のまま、仄かに笑んだ。
(……捕まったのは、わたしの油断だ。きみに聞いていたのに、別な所での出来事だとの過信が現在の状況を招き寄せた)
そして、遠い目をする。脳裏には、自分の帰りを待っているだろうと思われる妹の姿が過った。
────兄上さま。花見をしましょう。
その声、姿に向かって、約束を違えてすまなかったと告げる。
(……わたしを捉えるために、町をあの異形たちが襲ったのだとしたら、わたしは戦っているきみにも、世話をしてくれた町のひとたちにも危険に晒してしまった責任がある)
もう一度、マリアージュを見つめた。綺麗な綺麗な…そして、とても強いだろうと思われるその天使を。
(……わたしを好きだと言ってくれた、唯一の人)
ふわりと笑って、覚悟を決める。そろりと脇差しに手を延ばした。
(この人だけは、守り通さなければ成らない。……わたしの意地にかけてっ!)
刀身の冷たい感触が肌を伝う。不自由な姿勢で鞘を払うと、驚愕に強張るマリアージュの前で、それを己の胸に深く突きたてた。人質が消えれば、彼女は自由。
人質というものは、生きていてこその価値。くずおれる雪之の霞む視界に、彼女の泣き顔を見た気がした。
(……どうか、無事で……それだけを願う……)
それが、雪之の最後の意識で、後は闇に飲まれてしまった。
エピローグ
樹齢百年以上経つ桜の袂で、ハラハラと舞散る花弁を娘は見ていた。その肌は透ける様に白い。その表情は、儚さを伴っている。
黒くて長い艶やかな髪を結う事も無しに、風になぶらせるままとしていた。それが、何処か幻想的で美しい。
だが、一つだけ奇妙な事が、その娘の身にあった。その娘は、なぜか景色に溶け込んでしまうのではないかと思えるほど、透けているのだ。娘を透かして景色が見える。
その不可思議な姿のその娘の元に、キラキラとした光の残滓が舞い降りてきた。娘はそれに気付いて、不思議そうに見上げる。
金の光は人の姿をしていた。純白の双翼は清浄な風を生み出している。明らかにこのあたりの人の造形ではなかった。
『……誰を待っているのですか?』
光を孕んだ羽毛が散る。それを眩しそうに見ながら、娘は笑んだ。
────兄上さまを、お待ち申しております。
光は泣きそうな表情をした。
『…………わたくしは、貴女の兄上さまが大好きでした』
少し戸惑った後にそう告げると、娘は驚いた様に目を見張った。
────兄上さまを…雪之をご存じなのですか?
『ええ。……わたくし、助けて戴きましたのよ』
光は切なげに微笑んで、そっと腕を開く。
『……あの方は、ずっと貴女の事を心配していました。 事情があって、あの方はここに迎えに来る事が出来ませんでしたが、代わりにわたくしが参りました。 ……“桜華”。もう待たなくてもいいのです。わたくしと共に天界へ参りましょう』
名を呼ばれ、娘は嬉しそうに笑った。小走りに走って、その光に抱かれる。
────もう、待たなくてよいのですか?
小首を傾げて、白い面を見上げるように覗き込む。
『ええ。もう、待たなくても良いのです』
────兄上さまを、お好きなのですか?
無垢な瞳が光に向けられる。光は笑んでゆっくりと頷いた。娘は「嬉しい」と呟くと、安堵したのか、その姿を変える。
────兄上さまは、良い人を自力で見つけられたのですね。……桜華は安心しました。
光の腕の中に残された物は、一振りの桜の小枝だった。可憐な淡い桃色の蕾を二つつけて細かに揺れる。光は、その小枝を大切そうに胸に抱いて、翼を羽ばたかせた。
ふわりと羽根が舞う。……弧を描きながら戸惑うように羽毛が散って、それが大地にたどり着いた頃、長年その娘を見守りつづけた桜の木が、わが子を送りだす親の様な風情で、花弁を舞踊らせた。
終わり。