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悪縁を斬る

作者: 京本葉一

 木刀を握り、素振りをする。日々の積み重ねによって、だいぶ振れるようになってきた。木刀をうまく振るために、ほかの鍛錬はしていない。知らないだけだが、素振り以外は不要であるような気もしている。


 寒風のなかでも、続けるうちに、汗がにじみでる。


 素振りをはじめてから、日常生活の動作も軽やかになった。身体が鍛えられている実感はあるが、強くなるために素振りをしているわけではない。精神を鍛えたいとは思うものの、なぜ木刀を握っているのか、はっきりとした理由はわからない。


 ただ、目を閉じれば浮かんでくる、忘れられない光景があった。


 それを為した人物に、憧れてしまったのかもしれない。心のままに木刀を手にして、淡い衝動におされるがままに、木刀を構えた。脳裏に焼き付いた動きを真似る。木刀を振るう。それが楽しい。


 誰にも認めてはもらえないが、自身の変化を好ましく感じている。

 だから、幾度もくり返す。

 思い返しては木刀を構える。

 こうなったきっかけは──。





 和装の老人が、手にする杖の握り方を変えた。


「わしを斬れるものなどおらんよ」


 生ごみの臭気が漂う、路地裏の空気が変わった。それを為したのはひとりの老人。背筋はピシリと伸びてはいても、齢八十は越えているであろう小柄な老人が、周囲に血の気配を漂わせた。

 柔和であった表情が豹変する。

 手にした杖が刀にみえて、幾人も斬殺してきたような鋭い眼光に、対峙する男たちの薄ら笑いが固まる。


「お嬢さんは、後ろに下っておりなさい」


 朱美は老人の言葉に従った。守られている。守護されている。濃度を増していく戦場の気配に、安堵をおぼえる。

 大型のナイフをみせつけていた坊主頭の男が、奇声を発しながら老人に襲いかかった。離れた場所からみていた朱美には、男がひとりで勝手に転んだようにみえた。老人がゆらりと歩を進めると、凍りついていた男たちが奇声を発し、叫びながら襲いかかる。まるでコントをみているような、滑稽ともいえる動きで男たちが倒れていく。

 インチキ?

 ヤラセ?

 そう思うのも無理はない。武道の達人は、素人が理解できる程度のものに、人生を懸けてきたわけではない。


 暴力をためらいなく日常的に行使する男たちが、生気を失った虚ろな状態で路地裏から消えた。

 残ったのは、朱美と老人のふたりだけ。

 理不尽な暴力から守られた朱美は、老人に近づこうとして──


「ふむ」


 老人のとった居合いの構えに、足が止まり、そして、斬られた。

 身体の奥にあるものを斬られた。

 杖によって一閃され、痛みも外傷もないものの、斬られたという感覚はある。


「わしに斬れぬものなどないのだよ、お嬢さん」


 悪縁は断った。

 老人は軽く笑みを浮かべ、朱美の前から去っていった。





 きっかけはクラミジアだった。痒みが気になって病院にいったら、治療ではなく検査がはじまり、ほかの細菌やウィルスに感染していることが判明した。


 中学生のころから売春で小遣いを稼いでおり、三年間で何十人と関係をもったかはわからない。感染していても不思議ではない。知識としてはその程度。性感染症のことなど、なにも知らないのと同じだった。


 性感染症は複数の感染が被ることがある。体内に侵入した細菌やウィルスは、基本的に死滅しない。ずっと体内に潜んでおり、潜伏期間を経て、あるいは免疫力の低下などによって発症する。倦怠感、苦痛、他の感染リスクの増大、癌の原因にもなれば、精神障害を引き起こすもの、死をもたらすものもある。不妊や流産の原因ともなり、生まれてくる子どもに先天性の障害を与えもする。


 人生を悲観するていどの情報を教わり、治療を放棄した。

 自暴自棄になったのだろう。

 道連れを望んだ。

 できるだけ多くの人間を、同じ境遇にしてやろうと考えた。


 やることは変わらない。いつもより小遣いを稼ごうとしただけで、結果としては最悪だった。どうにでもなれと考えていたのに、薬や暴力が恐ろしかった。逃げて、追いつめられて、そして、救われた。


「悪縁は断った」


 老人の言葉通り、道連れではなく、治療を望むようになっていた。ふたたび病院をおとずれると、性感染症をもたらす細菌やウイルスが確認できないという、医学的にあり得ない事態がおこっていた。


 あの老人が奇跡を為したのだと直感したが、どこの誰なのかはわからない。探しようもなく、忘れることもできないままに時が過ぎて、朱美は、いつしか木刀を手にしていた。

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