終末世界と向日葵
世界がもうすぐ終わると知って、本当に終わるまでの時間は、二時間と十六分三十三秒。
笑えてしまうくらい、あっという間だった。
*
すっかり廃墟になってしまったビル街を、私は歩く。コンクリートの道はひび割れて、鉄筋のビルは真ん中から折れている。
コツン、コツン、と歩く度にローファーが音を立てる。足をとめれば、何の音もしない。周りを見渡す。私の他に、動いているものは何もない。
人はいない。私だけ。空はオレンジ。夕焼けが、私を照らす。
世界は終わった。私だけが、どうしてまだここにいるのかはわからない。
真っ黒な太陽が、沈んでいく。あの太陽が沈んだ時、私も消えてしまうんだってわかった。
胸元のリボンに一度手を当てて、大きく深呼吸をする。残された時間はあとわずか。しゃがみこんで、指先をコンクリートにそっと乗せる。
オン、ユア、マーク……セット。心の中でつぶやいて、腰を持ち上げる。
ピストルの合図はない。短く息を吸い込んで、私は左足で蹴り出した。
走り出す。見える景色が流れるように変わっていく。どうせ最期だ。出し惜しみはしない。目指すはあの場所。走った果てに、息が止まるとしても構うもんか。
走れ。私と先輩の約束した、向日葵畑へ。
走れ。
*
夕焼けが好きなの。一つ年上の先輩は、私に言った。どうしてですかと聞くと、先輩はとてもきれいに笑って答えた。
「だって、とってもきれいに混じり合っているから」
昼と夜の相中で、いろんな色が生まれる。紫、青、藍、そしてオレンジ。言葉に言い表せないだけで、他にもたくさん。
放課後、私と先輩は夕焼けを見上げてみた。とってもきれいなオレンジ色とカーテンみたいに覆いかぶさってくる藍色。混じり合った色に息を飲む。
いつも見ているはずの夕焼けは、こんなにもきれいだったのか。
私は、そっと空から先輩に目を移す。先輩は夕焼けを見て、笑っていた。少しだけ焼けた肌に、夕日が射す。この時だ。
この瞬間、私は先輩に恋をしたんだ。
*
走る。ローファーを通じて、固い痛みを感じる。
コンクリートはますますひび割れて、ビルは音もなく、崩れて消える。
世界から、音が消えた。跳ね回る心臓の鼓動も、地面をたたくローファーの音も聞こえなくなる。
静かな世界。太陽が沈んでいく。音もないのにじりじりと。焦る気持ちに任せて、私は走る。
――私は先輩のことが好き。ずっと、この気持ちは誰にも言わずにいた。だって変でしょ? 女の子が、女の子を好きになるなんて。
クラスの友達に好きな人を聞かれた時は、適当にかっこいい男の子の名前を出した。本当の心を隠して。しばらくしたら、その彼が私に告白してきた。断った時は申し訳なかったな。しばらく、友達みんなからハブられたっけ。
親友だと思っていた子からビンタをされた時は、さすがに後で泣いちゃったな。
でも先輩がいたから、思っていたよりは苦しくなかった。
陸上部で、一緒に走るときは幸せだった。夏の暑い太陽の下で、飲んだポカリはおいしかった。中途半端な1.5ℓのペットボトルを、二人で回し飲みした時はすごくドキドキした。
放課後に二人であちこち遊びにいくのは楽しかった。ゲーセンで大きなぬいぐるみをとったり、プリクラでバカみたいな写真をとったり。
海で水をかけあって、お腹が痛くなるくらい笑って。
そんなくだらないことでも、先輩と一緒ならそれだけで幸福だった。
世界が終わると知った、二時間と十六分三十三秒前。世界中の誰もが何をすべきか悟った。
世界が終わる悲しみはなかった。混乱もなかった。みんな、世界が終わることを受け止めて、ひとつのことをしたんだ。
死ぬ前にひとつ。一番やりたいことをやる。それだけ。
ある人は大好物をいっぱい食べて、別の人は友達と仲直りをした。人生を変えた本を読んで、空に向かって大声で叫んだ。
そうしてやりたいことをやって、消えていく人たちの中で、私ひとりだけが取り残された。
私が一番やりたいことは、わかりきっている。でも、それが絶対にできないことは、わかっていた。
太陽はゆっくりと沈む。足がもつれて、転んでしまう。倒れ込んだ拍子に口の中を切る。だけど痛みはなかった。鉄臭さだけが広がる。
立ち上がると、体が軽かった。ジンジンしていた足も痛くない。痛みがなくなった。呆れて吐いた吐息は、やっぱり聞こえない。
もう一度、走り出す。気づけばビルは全て消えて、コンクリートは土になっていた。土の隙間からちょこんと顔を出す雑草が可愛らしい。潮風の香りがする。
あの場所まで、もう少し。
*
約束の向日葵畑は、私と先輩が遊びに行った帰りに、たまたま見つけた場所だ。
海に近いそこには、たくさんの向日葵が植えられていて、まるで、小さな太陽が私たちを見つめてくれているみたいなところだった。
素敵なところだった。
夏が終われば向日葵は枯れてしまう。向日葵畑を見つけてからは、私たちは毎日のようにそこに行った。向日葵に体を隠して、顔が見えないようにして話をした。
陸上のこと。将来のこと。勉強のこと……恋愛のこと。私はそこで、先輩に好きな人がいることを告白された。
ずっと近くにいるけれど、好きだってことには気づいてもらえない。相手も自分を好きだと思うけど、鈍感なんだ、って。
顔は見えない、でも声だけでわかった。先輩はその人に本気で恋をしていた。敵わないって思った。だから、私は先輩を応援しようと思った。私自身の実るはずのない恋よりも、先輩の幸せの方がずっと大事だったから。
涙声がばれないように、小さく「手伝います」とだけ答えたら、先輩は小さく「バカね」と言った。
それから、一週間がたって、向日葵は枯れ始めた。夏の終わりが近づいていた。うちの部活の引退は遅い。でも夏が終わってしまえば、三年生は引退してしまう。先輩の引退も、すぐそこまで近づいていた。
明日先輩から遊びに行かないかと、ラインで聞かれた。場所は当然、向日葵畑。先輩からの誘いは、用事があってもずらしていく。私は喜んでと頷いた。
言いたいことがある。先輩はラインで書かれていた。その言葉をつぶやいた時、先輩はどこか緊張した様子だった。
何を伝えるつもりなのかな。もしかして、好きな人と付き合うことができたとか……? もやもやする不安。だけど、先輩の口からは何も聞くことができなかった。
先輩は、翌朝車に轢かれて命を落としたからだ。
*
二時間と十六分三十三秒が経って、私以外の全ての人が消えた。どうして私だけが残されたのかはわからない。
死んでしまった先輩ともう一度会いたい。
そんな叶うはずのない願いを抱いていたからかもしれない。私みたいなことを思っている人はたくさんいるとは思うんだけど。
ビルは消えた。コンクリートの地面も消えた。空の夕焼けは、夜の藍色に覆われていく。
沈む太陽のそばに、向日葵畑はあった。咲き誇った向日葵のそばには、懐かしい人影。先輩。
「 」
叫んだ声は、音のない世界には響かない。だけど、先輩は私に気付いてくれた。気持ちははやる。潮風の香りが消えた。口の中の鉄臭さも消えた。
固められた土と、うっすらつもった砂。視界が歪む。涙が目からあふれて止まらない。
「 」
先輩が何か言った。コクコクと、頷く。やっと会えた。
向日葵畑の後ろには広い海があった。そこに沈もうとしている黒い太陽に照らされて、オレンジ色に染まっている。
ゆったりと波打つ姿は、じんわりと、私の心を温める。
先輩は、最後にあった時と変わらない姿をしていた。半袖の制服。大人びた顔立ち。でもなんでだろう。先輩は悲しそう。
私は足をとめた。気が狂いそうなくらい、息は乱れていたけれど気にならない。私は先輩に手を伸ばした。
「 」
私の手が先輩に触れる直前、
先輩は、私の手を優しく払った。
*
もうすぐ太陽が沈んでしまう。オレンジ色の空が、藍色に覆いつくされる。穏やかだったオレンジの海も、冷たい藍色に塗りつぶされていく。
世界はもう、向日葵畑と海だけになってしまった。私の目に映るものだけが、世界の全て。
手を払われたことが信じられなかった。信じたくなかった。先輩は、寂しそうに、痛々しい笑みを作った。
「 」
首を振る。嫌だ。私は先輩と一緒にいたい。だから、
「 」
先輩の顔が、私に近づいた。
感触はない。ぬくもりもない。だけど、先輩の手が私の頬に当てられた。うるんだ瞳。唇。太陽が沈む。藍とオレンジが混ざり合って、藍色に溶けていく。
少しの間、私の目に映る色彩は、一色に染まった。感触があればきっと柔らかい。色彩はすぐに元に戻る。先輩は私の背中に回って、口元に手を当てる。
先輩の後ろには、藍色の夜。私の後ろには、黒い太陽とオレンジ色の海。
「 」
そして、先輩の方を向いて呆然とする私に、先輩は四文字の言葉を告げた。
私に口づけをしたその唇で、ひとつの言葉をつむぐ。
さ よ な ら
息を飲む私を、先輩はふわりと突き飛ばした。先輩の背に藍色が。私の体は宙に浮き、向日葵畑へ。向日葵が消えて、オレンジ色の海の中へ。
海に落ちて、先輩が遠くなる。水中から伸ばした手は、決して届かない。
海の中は夕焼け色だった。沈んでいく。歪む視界と、閉じていく世界の中で、先輩はずっと私を見つめたまま、「 」とつぶやいた。
太陽は海の中に沈んで、白に染まる。目を開けていられない。思わず目を閉じた私は――
*** ***
*** ***
冷たい。目を開けると、真っ白な部屋の中にいた。ピッ、ピッと人工的な機械の音がする。耳をすませるとトクン、トクン、と心臓の鼓動がした。
私の周りにいた白い服の人たちが、慌てた様子で部屋から飛び出していった。
生きてる。私の目から、大粒の涙がこぼれ落ちていった。
終末世界と向日葵 終わり
向日葵の花言葉 『あなただけを見つめてる』
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