第7話.彼女の名は
「まさか……そんなはず……!」
ありえない。
いや、ありえないというのは契約紋の抜き出しなどという技術だ。そしてそれが自分のものだというのか。
だが辻褄は会う。レーンがすでに構築した術式がこの場所にあって機能しているならば、今レーン自身がどれほど新規に契約紋を編み上げようとしても不可能だ。
契約紋はいわば心臓。比喩ではなくもともと契約紋は精霊と契約パスを繋ぐために体内霊素の集積回路でもある心臓を触媒に生成し、密接にリンクする。故に二つは同時に作れない。体内に生成する楔なのだ。
高等な技術と才能持たずして編み上げられない術式であるから、適性を選ぶ。故の”ジョブ”なのだから。オラクルスフィアの啓示はおよそ契約紋を生成できるか否かで召喚士適性を見定めているはずなのだ。
だからこそ、レーンはオラクルスフィアの見出したジョブに疑問を抱いていたのだ。契約紋を生成できない自分が何ゆえ召喚士を見出されたのかと。
その答えがこれだというのか。
契約紋を機能させたまま保存するなどまるで聞いたことがないが、エトセトラより持ち込まれたアーティファクトによるものであるならば、一重にありえないとは切って捨てることはできない。そして機能している契約紋が、体外にあってもレーン自身のものとして在るのであれば、外でいくら契約パスを自分の体に引っ張ってきても意味がない訳だ。
「まさか……じゃあ、僕の契約紋ははじめからここにあって、だから僕は……召喚術が使えなかった。いや、使えなかったんじゃなくて……パスを繋ぐ場所がそもそも違っていた……」
しかしレーンは少女を見据えると、ひと呼吸おいて言った。
まだ疑念は晴れない。その理由はシンプルであった。
「僕が召喚術を使えなかった理由というのは分かった。わかってしまった。それだけは……不幸中の幸いだよ。正直……今までの苦労を考えるとショックだけど、悪い知らせじゃなかった。だけど……それが全部本当の事なら、の話だ」
少女はふふん?と鼻を鳴らして続く言葉を待つ。
「僕は君と契約した覚えはない……まして、契約紋を抜き出された覚えもないんだ! 全部でたらめだろ!」
少女を指差し叫ぶレーン。
そう、まるで記憶にないのだ。契約をした覚えも、契約紋を抜き出されたような経験も。今言った通り、まったく記憶にない。
そんなことがあったら覚えているに決まっている。なし崩しでうっかり契約できるような術ではないのだ、召喚術とは。
「覚えはない、か。忘れているんだね」
「忘れるも何もない! 知らないと言ってるじゃないか!」
「そう荒れないでくれよ。目の前にある事実だよ。ほら、試してごらん。契約紋は主の元へ。別人のだったら、キミの体が拒絶するだろう?」
確かにそれはそうなのだが……とレーンは言葉を詰める。
「言っただろう、機能を保持したまま抜き出すと。位置は変われど、この契約紋は触媒たるキミの心臓とつながっているのさ」
しばしの逡巡の後、どのような可能性にも賭けると決めたことを思い出したレーンは意を決して宝珠に触れた。
少女がそれを見て笑う。宝珠はまばゆく明滅すると、含有された契約紋が宝珠の中から吸い出されるように触れたレーンの腕を通し、その体の中を奔る。そして心臓に達すると、まるで昔からそこにあったかのように固着し、陣を張った。
驚いて上着の前を開けて確認すると、胸には紅い入れ墨めいて契約紋の証たる紋章が浮かび上がっていた。
「嘘だろう……まさか本当に僕の……」
これまでずっと契約を試みる際に感じていた、胸に在るべき筈のものがない、穴が開いたような感覚。その穴が埋まるような馴染み。それはすなわち今自分の心臓あたりで感じる契約紋の煌きが、まさしく己の物であるという確固たる証明。
レーンは自分の胸に手を当て、何度も自分の中の契約紋を確認する。あまりにも必死に自分の胸に手を当てる姿が滑稽に見えたのか、少女はその姿を面白そうに、指を唇に当てクスクスと笑いながら見ていた。
レーンは慌てて上着の前を閉じる。少女の前であまりにはしたなかったか。
しかし少女は別段気にした様子もなく、ただただ得意げに笑っていた。
「ほうら、言ったとおりだったろう?」
「あ、ああ、うん……本当、だった……」
「感じるはずだよ。その胸の契約紋に、吾輩との繋がりを」
確かに。胸の契約紋は眼前の少女を使い魔として間違いなくパスを結んでいた。レーンはその感覚を初めて知るものであったが、疑いようはなかった。
「いやあ助かったよ! 吾輩も中途半端に契約紋のみ残されていたものだから、ここから動けなかったんだよ。ヘタに暴れても契約紋から離れれば魔力の供給が途切れて霧散してしまうからね。宝珠を持ち歩こうにも細工で我輩には触れられない。不便なものだよ、使い魔というものは」
嬉しそうにテーブルから降りてくるくると回って見せる少女。黒いスカートがひらりと翻る様をぼうっと眺めていたレーンは未だにこの衝撃を受け止めきれずに立ちつくすのみ。
と、急に少女は向きを変えるとレーンに近づき、その頬に両手を添えると引っ張り寄せる。
急に引かれたのと少女の顔が間近に迫った事ではっとしたレーンは顔を真っ赤に茹で上げた。
「うわあ! な、なんだよ急に!」
「嬉しいよ、これでここから出られる。言った通りだろうレーン? キミが吾輩を解放してくれるとね」
「待って……えっ、なんで僕の名前……」
「ふむ、それすら覚えていないか」
彼女は少しつまらなそうに腕を離しレーンを解放すると、レーンの問いには答えずににまりと笑う。
「まあいい。そのうち思い出してくれよ、我が主」
「説明をッ……」
言いかけたがするっと伸びてきた人差し指に唇を抑えらえる。
「それよりも、だ。吾輩の用はひとまず終わったんだ。次はレーンの番だろう? 随分急いでいたようだがね」
「え? あ、えっと……契約の手がかりを探しに……」
「なんだ、それではもう解決してしまったじゃあないか! 吾輩という使い魔がここにいるのだからね」
「い、いや……契約紋については、信じるしかないけど……君の事はなにもまだ知らないんだけど……大体、君は人にしか見えない」
「あははは! 吾輩を人と呼んでくれるのかい?」
おかしいことを言ったのだろうとレーンは思った。
実際、人に見えるが、使い魔として在る以上通常の人間ではないのだろう。少なくとも自分が知る知識の上ではあるが。彼女の存在は自分が知る限りどのような精霊とも違っていたのだ。
「吾輩が使い魔か否かはその胸に還った契約紋が教えてくれているだろう。ならば吾輩はそれ以上でも以下でもない。人扱いはしなくていいんだよ。そういうものだろう? あくまで主と使い魔で構わないさ。ただ――――」
そこで彼女は一度言葉を切った。
少しだけ言い渋った様子だ。まるで言うのを恥ずかしがっているような。
だがそれも一瞬で、すぐににまーっと笑ってレーンに言うのだ。
「一つだけお願いがあるんだよ」
「な、なにさ」
レーンに聞く気があると見るや目を輝かせ、先ほどまでの雰囲気とは打って変わり、両腕を広げて子供のように彼女は望みを言った。
「吾輩はね、行きたいんだ! エトセトラに!」
「なんだって?」
エトセトラに行きたいと、そう彼女は語る。
それが望みか。いやだが、使い魔が望みを言うのか。そもそも彼女は通常の使い魔とは根本的に異なる存在だとは思うが、あまりにも無邪気に望みを語るその姿は人としか思えなかった。
ましてやエトセトラに行きたい、となれば反射的に理由を問うてしまうというもの。
「吾輩はこの数年間暇で仕方なかったからね、この部屋にある書物を片っ端から読んでいたんだよ。そこで、キミの御父上のしたためた冒険録や何から何までを読破して思ったのさ。自分の目で見てみたいとね!」
「そ、それはすごく……いいと思うけど」
「だろう? だろう? 実に興味深いじゃないか! 書物のページを読み進めるたびにめくるめく未知への欲求に心を焦がす日々だったのさ!」
テンション高く語るその様子に完全に警戒心を忘れてしまったレーンは素直に話に耳を傾けていた。少なくともエトセトラへの思いはレーンにとっても同じものであったから。
「だからさ、吾輩をエトセトラまで……いや、違うな。そう、一緒に、だ。一緒にエトセトラへ行っておくれよ!」
期待に満ち満ちた無邪気な顔でレーンに迫る彼女。
「……エトセトラ、僕も目指している場所だ。僕も行きたい。ああ、行くって決めた。でも……」
「でも?」
「明日の卒業試験をクリアしなくちゃ、シーカーになれない。そうしたら、エトセトラへ行くのはまた先になってしまう」
レーンの言葉に彼女は「ああ!」と手を鳴らした。
「それでキミは焦っていた訳だ。どうせ召喚士の試験なぞ、使い魔がいなくてはどうにもならなかったんだろう。よかったじゃないか。合格できるぞぅ」
「……わからない」
「何故だい? 試験の内容とやらに問題が?」
いちいち勘が鋭いのか、的確にレーンの悩みを問うてくる。どうにも少し恐ろしい程だが、レーンは正直に言葉を口にしていく。自分でもそれは不思議だった。得体のしれない使い魔を名乗る少女に、最早殆ど警戒をしていない。怪しんでこそいるが、危険なものではないと判断し始めていた。
レーンは明日の卒業試験が対戦形式であり、自分にとっては不慣れどころか初めて臨むものだという事を伝えた。聞かねばならぬことのほうが山ほどあるはずなのに、どうしてかレーンは彼女に己の事ばかりを話していた。
するとどうだ。彼女はまたもやにこりと笑うのだ。
「そんな事、気にするほどの事じゃないよ。それよりだ。キミはもう寝たまえよレーン。試験があるのだろう?」
「気にするほどじゃって……いや、でも……ギリギリまで準備とか、色々やらないと……! 正午に試験があるから、時間はあまりないんだ」
「心配するなと言ってるだろう。大体、そんな疲れた体で無理をしてみろ。試験どころではないよ? 見ろ、目が窪んできてるぞ」
一理ある。というか、正論だ。押し黙るレーンを見て満足そうに彼女は笑った。
時刻はもう深夜も半ば。レーンは自覚していなかったが、だいぶ長い間森を走り回っていた為だ。
「主たるもの常に達者でいてもらわなくては示しがつかないからね。こと吾輩の主とあっては猶更だ」
「君は本当に一体……」
「カルナ」
「えっ?」
「カルナだ。……そう変な顔をするなよ。吾輩の名前だよ。呼んでみてくれ」
「えっ、あ……か、カルナ」
「ふふ、いいものだね。名前を呼ばれるというものは。久しぶりだよ」
呼ばれた感覚を懐かしむように指を組んで微笑む。固有名称を持つ使い魔など、本当に彼女は今までの知識が通用しない。しかし名を呼ばれ喜んだ様子を見せるその美しい少女の姿にレーンはなぜか照れ臭い感覚を覚えた。
そんなレーンを他所にカルナと名乗った不可思議な少女はふああと欠伸をするとレーンの背後へと歩を進めた。
「さあさあ、そうと決まれば寝たまえ。試験とやらの時間になったら起こそう。楽しみにしているよ」
「いや、ちょっと! もしかして君、僕と試験に出る気か!?」
「当たり前じゃないか。キミは何を聞いていたんだ? 吾輩はレーンの使い魔だぞ?」
本気で言っている……らしかった。
いや、レーン自身彼女が自分と契約している事実にもしかしたらと考えはしたが、やはり突飛だ。
しかし……
「大事な用があったら声をかけてくれ。くだらない要件は無視するよ。それがキミのためだ」
彼の思案を他所にカルナはレーンの背後で立ち止まると、影を靴でコツコツと踏む。そして一度レーンを向き直り、腕をのばしてレーンの胸を指でつつくとにこやかに言った。
「レーン、キミの影を借りるよ」
そういうと、驚くべきことにカルナはレーンの影にあっという間にその体を足から沈め、まるで水面に消えるように影に波紋を残し、完全に影の中へと消えた。レーンが驚きで慌てふためくが、呼びかけても返事はない。
「うわあ! な、なんなんだ一体……使い魔って、こういうものなのか……?」
わからない事ばかりの嵐の如き渦中に取り残されたレーンであったが、少なくとも自分が契約を結ぶ使い魔が存在していることだけは確かであったので、少しの逡巡の後――――休む事とした。
今から新たな使い魔との契約を試みることも考えたが、カルナに指摘されて自分の体の疲労にも気づいた。
明日の事を考えるならばとてもではないが現実的ではない。
せめて父の蔵書を漁ろうとも考えたが、どうやらカルナが雑多に扱っていたらしく何がどこにあるのか全く分からない状態であったから、それらしき本を3冊を適当に手に取ると、寝床へと向かった。
明日は試験当日であるが、不安は拭い切れない。だが、心の奥底では確かに安堵していたのも事実であった。
ランタンの光に落とされた自身の影を眺めてみる。カルナの存在はいまだ半信半疑だ。しかし、父が書庫に入る事をレーンに禁じた理由が彼の使い魔であるならば、やはり何かしらの因果はあるのだろうか。
不思議ではあるが悪には見えず、少なくとも正規の契約が結ばれている以上カルナがレーンの手を離れ勝手な行動をすることはほぼない筈であるから、自分の身の危険という意味ではおそらく心配はない。最も、彼女はどこか通常の使い魔と様子が違うので、どこまで通じる常識かは知らないが。
既に使い魔と契約しているという一点においては事実としてあるわけで、絶対的な障害はクリアしてはいたが、できるだけ卒業試験に備えようと本を読み進めはするものの、有益な情報はなく。
また考え事をしてしまうせいで全く集中できず、やがてレーンは自分の意志とは無関係に夢の世界に落ちていった。