第10話.魔王
会場のあらゆる場所からどよめきが沸き起こる。
それも致し方のない話だろう。上位精霊たるイフリートに相対する自らを使い魔だという少女は、自信満々に言ってのけたのだ。
自分は”魔王”であると。
魔王とは過去幾度かこの世界に存在したとされる魔人族の王を指す。
世界を征服しただとか勇者に倒されただとか、そういった逸話やおとぎ話は数知れず。
歴史に最も新しい最後の魔王は、世界を恐怖に陥れたのち、真人族と天人族に主導された各国の連合軍、そして勇者により倒された。
誰もが知っている歴史上の事実だ。授業でも習う。
鼻を鳴らし自信満々な様子のカルナではあったが、そんな存在が使い魔に身を落としているなどとは与太話もいいところで。そもそも物理的存在たる魔王が霊的存在の使い魔であるわけがないだとか理由を上げればキリもない。
挙句現在は人間ではなく魔物という扱いの魔人族をわざわざ名乗るメリットなど何もない。酔狂もいいところだ。
そもそも魔人族は歴史の陰に隠れて世間からは隠匿している。その姿は魔物めいているという通説さえ出回っているのだ。
あの見た目麗しい少女が魔人族だ魔王だとのたまったところで当然信じる者はおらず、会場のどよめきはやがて小さな嘲笑に代わっていき、いつしか大きな笑い声ばかりが会場に響いた。
しかし、カルナは意に介することもなく。表情も変わらず笑みを浮かべながら赤き隻眼でイフリートを見つめていた。
ウェルビンも、観客とは違い至極真面目な顔で様子をうかがっていた。それは警戒ではなくただただ燃えるような憤怒によるものであったが、カルナにとってはむしろ評価すべき姿勢だった。
レーンはカルナの発言に目を回したが、すぐにカルナの纏う雰囲気が変化したこと、そして対面のウェルビンの様子から無理やり気を引き締めなおした。
(本当にやる気なんだ……こうなれば僕も腹をくくるしかない……魔王だなんだっていうのは置いといて、せめて彼女がひどい怪我をしないように補助を……!)
そう、少なくとも彼女は今、レーンの為に戦おうとしている。その事実は無理矢理にレーンの心を切り替えた。引きずる思いはある。しかし余計なことは今は考えないでおく。後で聞こう。
今は眼前の戦いに集中すべきだ。
召喚士の戦い方は、使い魔を主戦力として術士本人はその補助を担うことはもはや言うまでもない。
強化、妨害、そしてある程度の援護攻撃等。レーンはそのいずれも成績としては優秀であったが、使い魔を得ての戦いは経験値不足であった。ぶっつけ本番の場が卒業試験とあっては、焦りや緊張がその腕を鈍らせることは明白。
結果はどうあれ苦戦は免れない。それでもやるしかない。まして手を出すなと暗に言われたとて、黙って見ていられるものか。
……レーンはそう思っていたのだが、この戦いはその予想を大きく違えた。手を出す必要など、本当になかったのだ。
カルナの宣言の後、ウェルビンははち切れんばかりに真っ赤な脳内で、しかして冷静にカルナという少女を分析していた。
(魔王……? 魔王だと? なめたことを口走ってくれたな。人に似たその容貌と、レーンがこの短時間で契約できる精霊であることを踏まえると、やはり森と泉の精霊ニンフといったあたりが妥当に決まっている。だというのにイフリートを前にしてこの不遜! 旅人をまやかす下級精霊風情がこの俺を話術で惑わせると思うなよ……!)
ウェルビンはカルナをニンフであると仮定し、怒りに満ちた目でカルナを見やる。
ニンフ”如き”がこの天才ウェルビンが誇る上位精霊イフリートを相手取れると思っているのか。
愚かしいにも程がある。この天才たる俺をどこまでコケにしようというのか。
ウェルビンのプライドは最早カルナを断じて許すことができないほどにまでズタボロに傷つけられていた。
「ふざけた虚仮威しがァ!!」
ウェルビンが吠える。
イフリートに強化術式を施し、叫んで指示を出す。眼前の魔王を語る愚か者を焼き尽くせと。
もはやプライドも何もない。はじめこそ自分は戦いに参加せず、イフリートの蹂躙を眺めるつもりであったが、カルナの不敬には全力を以てしての制裁を加える。
強化術式の付与が完了すると、ウェルビンは触媒たる杖をかざし、カルナを指し示す。
呼応してイフリートは両腕を広げる。炎が意思持つように腕を巻き龍の様相を形作る。
「燃えろよ、下級精霊!!」
双腕より生まれし火炎の竜はカルナめがけて襲い掛かった。それはまさに灼熱の濁流であり、食らうものを悉く焼き尽くす恐るべき一撃。防ぐも避けるも一筋縄ではいかない。
慌ててレーンは防御魔術を練り上げる。しかし、遅い。これでは間に合わない。
しかし、直後にレーンが見たのは驚愕の光景であった。
(……何だ、今の!? 魔術じゃなかったぞ……!)
炎の龍はカルナを食らうことなく中空で消滅していた。
会場がどよめいたのを覚えている。カルナはただ笑って、何をしたでもなくただ腕を前に出し、人差し指を少しだけ動かしただけだったのだから。
その時の動作をレーンは見ていた。そう、曲げた人差し指を親指で抑え、弾いた……所謂デコピンの動作をした。それだけだった。空気がはじけるようなパンという大きな音が響いて、龍が消えた。
しかしてそれは疑いようのない”攻撃”であった。
(相殺……いや、かき消された!? ありえない……ニンフにこんな芸当はできない……! まさか本当にデーモンロード……魔人の王だとでも言うつもりか!? いや、違う!! 断じて!! 絡繰りがあるに決まっている!)
「イフリートぉおお!!」
ウェルビンは目を見開きながら再びイフリートに命じ炎の龍をけしかける。しかし再びその攻撃は初撃と同様にパンという乾いた音と共に中空で消滅する。
直接触れたわけではない。竜はカルナを飲み込む前に中空で何かに大きく穿たれたように弾けた。カルナが再び指をはじくという所作のみで龍を消し去ったのだ。攻撃の余波か衝撃波は観客席にまで届いた。
ウェルビンの表情がこわばる。
「そう怯えるなよ! キミの無謀に免じてせめて敗北に華を添えてやろうというのだからね」
「……舐めるなよ道化が!!」
ウェルビンが更に吠える。炎を吹き上げるイフリート。
レーンは恥ずかしいことながら一連の事象に理解が追いついていなかったが、イフリートの咆哮と同時に我に帰る。
直感が囁く。やばいのが来る。
反射的にカルナを見やるが、カルナは顔だけをレーンに向けていた。本当に、心配など不要なのか。その表情には焦りや緊張といったものがまるでない。しかしてその瞳には、底知れぬ力強さと、恐ろしささえ感じられた。
自分と契約している少女の威力は、まるでイフリートの圧力を意に介していない敢然たる姿に、レーンの憂いを払拭していく。今はただただ、彼女に圧倒され呆けるしかできない。レーンは既に、イフリートではなくカルナの威容にこそ気圧されていた。
当のカルナは炎を吹き上げ威嚇するイフリートの巻き起こす熱風にその銀髪をたなびかせ立つ。これほどの威圧を受けてなお悠然と佇むその姿にレーンは目が離せない。
「さて、観念してはどうかな。君は吾輩には勝てないよ」
「ぬかせ! 小細工だけでイフリートが倒せるものかよ! 倒されるのは貴様だよ……このイフリートの炎でなあ!」
「やれやれ、聞き分けがないな。では、その無意味に増長した自信の源たるそこの木偶の坊を葬って、我が主への無礼の清算としようか」
顔をイフリートに戻したカルナはにやりと笑う。
そしてゆっくりと右腕をあげ、イフリートを指差すと、そのままに伸び切った指をさながら縦一文字を描くように滑らせる。
それは細腕がひらめき黒い衣装の袖が翻る様美しき所作であった。
その瞬間、イフリートがうめき声をあげて膝をつく。大技の動作は強制的に中断させられ、凝縮していた炎と魔力が霧散する。
何事かと目を見開くその光景を見た全員の耳に鈍い重低音が絶えず響く。びりびりと大気さえ振動しているようだ。
異常な事態にウェルビンが驚愕の声を上げた。
「なんだ、どうしたイフリート!」
イフリートは不可視の力場に圧し潰されようとしているかのように、地面に手足を突っ張っている。
見るとイフリートの足元に方陣が展開され力場を発している。圧力はすでにイフリートの体を、融解しドロドロになった石畳に縫い付けるだけではなく、足首まで埋没させるに至っている。
「これは……〈重力の帳〉か……!?なんだこの、威力は……!!」
相手を圧し潰さんとする力場を発生させる闇の属性魔術である〈重力の帳〉ではあるが、二重紋魔術式で発動可能、つまり中級魔術である。他の属性より行使難易度がひと際上がる闇属性魔術であることを抜きにしても上位精霊たるイフリートを抑え込むなど魔力の出力が尋常ではない。
(第一いつ仕掛けた!? この俺が発動を見逃すはずがない! まさか……初手の攻防でイフリートの攻撃を相殺した時にすでに詠唱していたとでも言うのか!? ならばあいつは……!)
ウェルビンははっとしてカルナを見やる。
カルナの指先にはすでに何らかの魔方陣が描かれていた。
「派手にやってやると言ったのだ」
魔術の知識があるものならば誰しもが伝え聞くであろう。
最上級魔術というものを。
カルナはぎらりと歯を見せて禍々しく笑う。同時に指先に描かれていた魔方陣の円が二重に、三重に広がり、一気に巨大になっていく。
円の外縁には小さな魔方陣が次々描かれていき、膨大な魔力が蓄えらえているのがわかる。そして最後の円が象られ、その陣は四重紋を描いた。
「四重紋魔術式だと……!? あ、ありえない……!!」
この世界における魔術とは、術の構築術式であり、また出力する機関たる魔術方陣の構成で、その威力や効果がランク分けされている。
即ち、方陣の円紋の数で、どれだけのランクの魔術なのか判別ができる。
もっとも一般的にして基本、シンプルな魔術式たる一重紋魔術式を初級魔術とし、二重紋魔術式を中級魔術、といったようにである。
先ほどウェルビンが見せた三重紋魔術式による上級魔術ですら相当の手練れの術師が用いるもの。それを上回る最上級魔術など、世界にも数人ほどしか行使できる魔術の使い手はいないだろう。
その最上位魔術式を編み上げて見せたカルナは赤き隻眼を輝かせ、口角を吊り上げ笑いながらウェルビンに告げる。
「我が名は魔王カルナ。吾輩に相対した栄誉としてこの名を記憶に刻むことだね……”人間”」
その言葉、表情にウェルビンは一瞬すくみ上るようなぞくりとした感覚を背筋に感じた。なんだ。なんなんだこいつは。
尋常ではない。断じてニンフなどではなかった。もっと圧倒的な、何かだ。
カルナの腕先に輝く四重紋を描く魔術式は既にに完成している。
イフリートの頭上に黒き魔術紋を刻む方円陣が展開される。脈動するようにそれは大きく広がり、イフリートを眼下に見下ろし昏く輝く。
びりびりと伝わる威圧感。会場中に圧倒的な魔力が充満し大気が胎動する。
誰しもが悟るだろう。これは人知を超えた必殺の一撃であると。
そして魔の王を名乗る少女は、高らかに叫んだ。
「見せてやろう! 魔の王たる吾輩が放つ〈黒紫の罪火〉の耀きを!」
刹那、黒き魔方陣よりイフリートへと放たれた魔術により舞台に黒紫の炎柱が立ち上った。