生きるという事
罵声 否定ではなく賞賛してもいいのではないだろうか
新聞やテレビ、インターネットやSNS
私達は様々な情報に囲まれて生きている、その中でもよく見かけてしまう情報に皆口を揃えてこう語る
なぜ自殺した?何故彼は死んだ?
なぜ命を粗末にするのか?
「自殺」
多くの人間がこの言葉を聞くと命の大切さを語り、命を自ら絶つことに愚かさを感じている。
不思議ではないか?
なぜ自ら命を絶つ事が愚かで、生をまっとうする事が正しい事だと皆が認識しているのか、一般市民ほとんどの者が根拠や理由もなく生というものを肯定していることに私ははひどく憤りを感じる
一つ問うてみる。
なら生を全うしている者たちはなぜ生きている?
その理由はなんなのか?
叶えたい夢や到達したい目標に向かい生を謳歌する楽しみを知るもの
夢なかばで儚く終わってしまってもそれまでの自分を
評価して満足するもの
自分を磨き他から評価される事に喜びを感じるもの
自分の周りの誰かを満足させることで幸福感を覚える者
これらの人間が生きている事には納得がいくのかもしれない
だが例外も存在する
夢や目標を見いだせない者
夢なかばで挫折して希望を失くした者
容姿や才能に恵まれず自分の心を閉ざしてしまう者
または夢や目標を達成したが喜びや怒り哀しみや楽しさをその時感じる事が出来なかったもの
統計をとっても明らかに 前者 より 後者 の方が多いだろう、となると自分の命に価値や意味は見いだせずに生きている者が多く存在していることになる
貴方はこのことに違和感を感じないだろうか?
違和感を上げるのなら前者にも言えることがある
例えば幼少期から夢を持ち スポーツ選手 や タレント 作家 や アーティスト 、今では公務員になるのが夢で子供の頃から 弁護士 や 看護師、消防隊員 などを目指し勉学や練習に励んだ者達がいることだろう。
その者達の目標や夢が叶った時その時に得られる「達成感」「喜び」「幸福感は」そこに辿り着くまでに自分の費やした努力や時間にみあっていただろうか?
時には挫折する事もあっただろうその度に感じた「絶望感」「喪失感」自分の周りのものの成功を横で眺める「劣等感」その都度積み重ねてきたストレスや怒りは達成された時全てがリセットされたり消化できるものでは無いと私は考える
では夢を達成出来た前者の者達がそれまでに感じてきた喜びと哀しみ、達成した後で感じる喜びと哀しみ、その感情を足し引きした時に喜びが哀しみに勝っている者はそう多くはないのではないだろうか?
人間とは何かを成し遂げて自分が成長した時幸福感を感じることが出来るがそれはその時その一瞬だけなのである。
苦難を乗り越え自分の成長を感じ何かを成し遂げる
だが人はそこでは立ち止まれないのだ一歩前に進むともう一歩先もう一歩先にと、自分の能力や意志とは裏腹に無意識に更なる高みを目指してしまうのだ。
例えば貧乏な家庭に生まれた人間が裕福になろうと会社を興し成功して裕福になっても、今の自分の生活よりよりいい生活を、もっと良いものをと生活水準が上がっても、慣れてしまえば更に上を目指してしまうのだ。
こうなると一時の幸せは感じられてもその後はまた新しい壁と戦い続けなくては行けないことになる。
果たして毎回上手く成功は手にできるのか?
手にできたとして毎回繰り返されるそのサイクルに自分は疲れたり呆れたりはしないのだろうか?
「壁を乗り越え続けることに意味がある」
流行りのスポーツ漫画で出てくるようなこんなセリフを私の学生時代の教師は語っていた。
だがこの時に私は、「そんな事は叶わないし理想論ではないか」と思った
自分の見つけた目標に向いていなかったり才能がなかったりすることも多くある。
「自分の得意や特技を探せ、そしてそれをどんどん掘り下げてそれを自分の長所として磨け、そうすればその先にあるものが自ずと目標や夢に繋がる」こんな言葉を私はよく耳にする。
これもまた理想論ではないかと私は思う
「努力をすればいい」こんな事を誰もが気楽に口にするが、何かに対して必死に努力する事ができる人を天才と呼ぶのだと私は思う。
その過程を楽しんで行うのか悩みながら行うのかはそれほど大きな問題ではないと
とうとうこうなると絶望する人間が多いではないかと思う
ここまで否定的な内容ばかりを書いている私だが、別に人が嫌いだとか、努力を否定するわけでも、成功を妬んでいる訳でもない。
現に私も自分が何かを成し遂げたときや友人が成功を収めた時に感動するし、夢や理想を叶えるために努力するような映画や漫画も好きで嗜むことがある。
だがここまで書いたように今の世の中で何かを成し遂げ幸福だと思われている人間達も本当はそれほど満たされてはいないのではないか
目で見て貴方が感じている事が全てではない、貴方が接して感じた相手の心境は間違っているかもしれない
現に友人や家族、知人が追い込まれ自殺を考えていても貴方がそれに気づいてあげられないという事が起こりえるというを分かって欲しい
「自殺」という言葉は私は好きではありません。
作中序盤では「自殺」を肯定しているようにも取れる事を話していましたが、あくまで自殺という方法をとって戦った人達のイメージについて話したかったからです
今の世の中では「自殺」した者に対し知人や友人、家族でさえも亡くなった者に対して罵声をあびせたり、その者を否定したりしてしまう
自殺者の心境が曖昧なまま広がり酷く誇張されながら話のネタにでもしようという者までいます
私はそんな世の中にひどく憤りを感じる。
自殺した者は命を大切にしていない
自殺者に対しこのような言葉を向けているのを日常でよく見かける
不思議には思わないか?
生まれてから死ぬ事を目標に生きるものや自傷行為に心から幸福感を感じているものなどいないはずです。
自ら命を絶ってしまった者達は、死ぬ事への苦しみより、生きて行く事に対する苦しみの方が強かったのだと
目の前に生と死ふたつの選択がある時に校舎を選択してしまうものが必ずしも愚かでは無いことを私は伝えたいのです
必死に体力の底がつきそうになりながら足を止めないマラソン選手やもう声が出ないのに絞り出そうとするシンガーこんな人達にエールを送るものやその頑張る姿に勇気や希望を与えられる者は少なくはないでしょう
このような人達が志半ばで目標を達成出来なかったとしても罵声を浴びせるものなどいないのではないでしょうか?
ならそれがなぜ自殺者なら別の話と割り切れるのだろうか
自殺者も死ぬ直前まで自分と自分の命と戦いながら必死に生きていて、その結果が自殺という選択だったという事
私はそんな彼らを賞賛すべきだと思う
必死に苦しみながら必死に生きて己の寿命を全うすることが出来ずに、一番辛いのは、社会の荒波に揉まれ心身共にすりえった末、冷たくなり血が通わなくなっても尚罵声をあびる彼らなのだということを理解して欲しい
最後まで読んでいただきありがとうございました。