第98話 憂いある者
「寒っ」
身を切るような寒さの深夜。車から降りた俺は、思わず自分の身体を摩った。
空には雲のかかった月が浮かび。その冷たく儚い月明りに当てられると、身も心も凍る気がする。
今いる場所はホワイトポートの街の中。ブルーシートで囲まれた、工事現場の片隅だ。色々な場所に、何かの指針にするであろう金属棒や基礎らしい物。いずれ敷設されるであろう土管や鉄パイプなど、様々な建材が整理されて置かれている。
そしてこの工事現場には、ぽっかりと口を開けた縦穴が掘られていた。縦穴は大き目のビル程の床面積で、底までは20m程もあるだろう。
更に穴の底には、巨大な足跡がしっかりと残されており。横に向かって大き目の穴が掘り進められていた。
「炭鉱で働く気分を堪能したよなあ……」
ふと呟き、口から白い息が漏れる。つい先日まで、俺は舞踏号を駆って横穴を掘り進んでいたのだ。
少し時を遡る。
作戦会議以降。ガナッシュさんは色々と手を回してくれた上に。実際に工事現場に訪れ、突然の事態と工事の邪魔を詫び。理路整然とした様々な説明と、それらに関する会社や社員への補償を約束していた。
俺達3人よりも遥かに年上の、それも立場ある大人が、わざわざ俺達の為に各方面に頭を下げてくれている。何度お礼を言っても足りる訳が無いが、それでも俺達は感謝の意を伝え、ガナッシュさんへ幾度も頭を下げた。
しかし当人は、俺達の恐縮した礼に明るく笑う。
「道理を押し退け無理を通そうというのだから、この位は当然の事。それにわしは、君達にその価値があると期待しているからこそ、自分の意志で動いている。投資であると同時に博打だな。是非とも勝たせてくれよ?」
冗談めかしつつも、しっかりと背を押してくれる声に。俺は思わず泣きそうになってしまって笑われた。
そしてその後は、色を塗り直されたばかりのピカピカの舞踏号が、鉄板と鉄パイプで乱暴に作られたシャベルを握って猛然と土を掘っていたのだが。工事現場で働く人々には、かなり好奇の目で見られていた。
ショベルカーやブルドーザーとは少し違う、2本の腕が発揮する器用さと。姿勢を変える事で得られる掘削範囲の自由度。そして数多の経験で鍛えられた人工筋肉の馬力。
それらが合わさり。人型の機械という半端者が、わざわざ横穴を突貫工事で掘るという限定的、かつ半端な状況の中で輝いていたからこその好奇の目だ。
「ウチにも1体買っても良いかもしれねえな」
なんて言葉を、休憩時間に現場の方々と話している時に聞け。俺とシルベーヌとミルファの3人で、何だか嬉しくなってしまったのが記憶に新しい。
そして現在。
今夜はもう穴を掘る時ではない。格好だって、いつもの作業着ではないのだ。
俺が今宵着ているのは、装甲を付けていない戦闘服。その上から、いつもの洒落ていない上着を1枚着ているだけ。
同じく車から降りて来たミルファも、胸に装甲を付けた戦闘服に上着を羽織っているだけだ。
彼女が付けているのは薄めの装甲だが。戦闘服の厚みも相まって、胴回りが一回りも二回りも厚くなっているので、上着の前が閉まっていない。
「雪でも降れば心が躍りますが、メイズ島では2年前に粉雪が降ったきりです。積もる程に降ったのは、10年程前だと聞いています」
少し夜空を見上げてから、ミルファが呟いた。そして彼女は、口元に持って来た手に白い息を吐き掛けた。
俺も雲が少しかかった月を見上げ、同様に白い息を吐く。
「雪が降れば、きっと綺麗だな」
「ええ。きっと」
視線を隣に立つ銀髪の少女に向けると、彼女は微かに微笑んだ。
そして2人で頷き合い。すぐさま車から諸々の装備などを取り出し始めた。
向かう先は工事現場の底。横穴の先にある、地下遺跡に通じる縦穴である。
ミルファが機関銃や弾薬を担ぎ。俺もライフルなどを何丁か肩に掛け、両手に弾薬を山と持って仮設の階段を降りていく。
工事現場の縦穴の底に着くと、すぐそばに口を開けている、巨人の掘った異様な横穴に歩を進めた。
まるで坑道のような穴は、側面や天井を突貫工事で補強された、本当に急な存在だ。
その急な横穴の最奥に、真っすぐ地下へと続く巨大な縦穴が再び存在し。地下の縦穴の縁には、白い甲冑を着た巨人が跪いていた。
巨人の黒い地肌には白い甲冑が映え。目元にある紅い戦化粧が巨人の顔を引き締める。甲冑の各所も、目の覚めるような紅と明るい山吹色に彩られ、誰しもがふと目を留める存在感を醸し出していた。
その巨人の足元には。たくさんの人々が集っている。
ライフルを担いでロングコートを着た、シェイプス先生や余所者達。彼らの神子たるタムとティム。ガナッシュさんやシャルロッテさん、ウーアシュプルング家の屋敷の方々。そして作業着を着た、この工事現場の人々。
地下遺跡の存在を知ってから協力してくれた皆さんが、一同に会していると言って良いだろう。
今は皆が準備に追われているが。俺とミルファが歩いて来たのを見て、それぞれ声を掛けてくれたり、肩を叩いて笑ってくれたりしてくれた。
「来たわね。2人とも」
そして。先に舞踏号の足元に居たシルベーヌがニヤリと笑い。俺とミルファを真っすぐに見据えた。
「探索者側の準備は大体終わり。あとは2人と1機を下に降ろせば、いつでも仕事が始められるわ」
「おう! ありがとう!」
俺は微笑んで返し。すぐ側で口を開ける、巨大な縦穴を見た。
直径が20mはありそうな、巨大な真円の穴。丈夫な金属か、コンクリートのような材質で出来たこの構造物は、整った筒のような縦穴である。
ふと見上げれば。上には穴と同じサイズの天井もあるので、まさしく円筒形の縦穴なのだろう。そして円柱の内壁に沿って、幅の広い頑丈な階段が下へと続いている。
よく見れば穴の縁。今自分が立っている足元もまた遺跡の一部のようで。その範囲は広くて頑丈だ。周りにはクレーン車やトラックが何台も並んでおり。工事現場用の照明が煌々と周囲を照らしている。
下を見下ろすと。既に何人か下に降りて照明などを設置しているし、安全も確保されているのが見て取れた。軽トラのような車も、何台か降ろしてある。
そして手すりも壁も無い巨大な穴の縁に立つと、何だか吸い込まれそうな気がして、すぐに一歩下がった。
深呼吸を一度。
心を落ち着けてから上着を脱いで、腰に拳銃を下げたりと準備を始める。近くではミルファが追加腕を装着し始めていた。
そんな時。作業着姿に黄色い安全ヘルメットを被った男性が、俺に近づいて微笑む。
「いよいよですね」
男性は、気の良さそうなおじさんだ。こちらのおじさんは、俺とミルファが地下から脱出する時に、ほんの少しだけ会話を交わした男性である。
俺は額の包帯の上から赤い鉢巻きを巻くと、おじさんに明るい笑顔で返す。
「はい。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。クレーンを操作して長いですけど、まさか地下で人型ロボットを吊り下げて。しかももっと下に降ろすなんて初めてですからドキドキします」
こちらのおじさんとは。舞踏号で横穴を掘るために工事現場に到着し、打ち合わせをしている時。互いにあの時の人物だと気づいて驚きあったものだ。
とても穏やかな方で、事情を話すと逐一頷きながら話を聞いてくれて、非常に話しやすかった。
とはいえ。おじさんは最初の出会いの際、血まみれ土まみれの俺とミルファを見て相当驚き。しかも突如現れたワゴン車に乗って俺達が去ったのを見て。更に驚嘆したのだとか。
おじさんは自分が見た”地底人”達が、本当に危険人物だったらどうしようと、かなり悩んでいたよと笑って教えてくれた。
「お手数お掛けします」
「いいえ。任せて下さい。きちんと下までご案内します」
おじさんはそう言うと安全ヘルメットを被りなおし。自分の持ち場の最終確認に向かった。
ごく短い間の出会いと、親しいという程の関係でも無いけれど。俺はあのおじさんにも支えられているのだ。
俺達探索者も、各々の最終確認だ。咳払いの後、シルベーヌが言う。
「武装を再確認するわよ。舞踏号に30mm機関砲が1丁。弾倉は装填中のも含めて5つ。左右の太ももに括りつけてあるわ。それと、いつもの手斧が腰に。ミルファが12.7mmの機関銃が一丁と、追加腕にライフルを1丁。その他拳銃とかナイフにマチェット諸々。それと――」
シルベーヌが、自分の肩にベルトで吊るしてあるサブマシンガンを見せた。9mm弾をばら撒く、小さめで取り回しの良い代物だ。
「私がサブマシンガンに、色々探査機材。それと爆薬とかもね。技術者から工兵に転職ってとこかしら?」
そう。今回はシルベーヌも俺達と地下を行く。というよりも。遺跡内部の施設操作には、彼女の力が必要不可欠だ。
遺跡に親しい探索者3人のうち、1人は人型機械のパイロット。1人は火器を握った支援役。必然的に、普段はバックアップのシルベーヌも表に出る事になるし。遺跡に関する知識量や経験値も、残った人々の中で最も高いのは間違いない。
シルベーヌの他にも、今回はシェイプス先生含む余所者達が、10数人現地に同行してくれる。単純に戦力になってくれるのもあるし、爆破などの際は人手が必要になるからである。
10数人+3人と1機。小隊という程の人数でも無いだろうし、分隊とでも言えばいいのだろうか。いずれにしろ。軍組織の枠組みとはちょっと違う、変わった小集団なのは間違いなく。識別のためにも、皆一様に赤い鉢巻きを腕に巻いていた。
「シルベーヌ。貴方の力が必要なのは理解しています。けれど、決して無理をしてはいけませんよ」
「もちろんよ! 斬り込み役は、ブランと舞踏号にミルファなんだから! しっかり暴れ回って、私だけじゃなくて、皆を守ってね?」
少しだけ心配そうなミルファに、シルベーヌは明るく笑って応えた。
丁度。周りの皆もそれぞれの準備が完了した頃で、自然と視線が1人に集まって行く。他でもない。今回の舞台役者である俺に向けてだ。
どうして良いか困惑して周りを見ても、皆は黙って俺を見ているだけ。シルベーヌもミルファも同様で、シェイプス先生やタムとティム。シャルロッテさんもだ。
何となく気まずい空気が立ち込めそうになりかけた時。俺の肩に、大きな暖かい手が乗せられた。
「少年よ。こういう時は、士気向上のために演説をするものだ」
手を乗せたのはガナッシュさんだ。彼はそう言って笑うと、少し息を吸い。力ある声と身振りで言う。
「皆聞け! 先にわしから言っておきたい! まずは今日までの準備と、ここまでの苦労に感謝を! ここに居る者達だけでは無い! 微かにでもこの作戦に関わり、僅かでも手を差し伸べてくれた人間。皆の協力が無ければ、ここまでの事は成せなかっただろう! ウーアシュプルング商会の会長としても、わし個人としても! 皆には礼を言いたい! ありがとう!」
覇気の有る大声で言い切ると、ガナッシュさんは微かに微笑み。俺の背を叩いた。
「では次に! この作戦の要である、探索者の代表者に一言頂こう!」
大きな声で俺が紹介され。皆の視線が一気に集う。沢山の瞳が、俺に期待を投げかける。
深呼吸を一度。俺は胸を張り。なるべくはっきり、ゆっくりと発声する。
「俺も、まずは皆さんに感謝を。本当にありがとうございます。皆さんが居なかったら、俺は絶対、ここまでの事を出来てないはずです。皆さんが居たから。皆さんが居てくれたから、俺は今ここに立ってるんだと思います」
ゆっくりと、視線を動かす。
「俺は。いや。俺達は、色んな人の期待を背負ってここに居ます。微かとか、少しとか関係無く。色んな人の想いで今ここで、この作戦をやり遂げる事を期待されています。だからこそ、俺達は必ず期待に応えます。そうです、絶対に! 絶対全員無事で戻ってきます! 例え俺が犠牲になってもとかは言いません。皆が無事で、皆が笑顔で帰って来る。ハッピーエンドを引っ張ってきます!」
覚悟を込め、俺は自分に誓うように言い放った。
たどたどしく、文言だって整ってはいない演説だ。洒落ている訳でもないし、覇気がある訳でもない。採点するなら10点中1点だろう。
しかし。すぐさま大きく拍手をしてくれた人達がいる。
兎耳を生やした双子、タムとティムだ。2人はその小さな手で、地下いっぱいに広がるように、大きな拍手を続けていた。
それに釣られるように。1人また1人と、拍手をする人が増えて来て。割れんばかりの大喝采が鳴り響く。
そして拍手が止み始めた頃。双子は俺の傍に駆け寄って来た。
俺がしゃがんで双子と視線の高さを合わせると、タムとティムは言う。
「悔しいけど、ワタシはまだ子供だ。だから待ってる。ちゃんと皆で帰って来いよ。ブラン兄ちゃんと舞踏号なら、絶対出来るって信じてるからな」
「ボクも信じてる。ここで待ってるから、絶対帰って来てね。約束だよ。ブラン兄さん」
「タム、ティム……」
感極まりそうになるが、今は堪えた。今はまだ、その時では無いはずだからだ。
「あのね! 全部済んだら、アルフォートさんがフライドチキンを作ってくれるって言ってくれたんだ。街の中を歩いたりはしたけど、食べる機会は無くて……。だから! 戻ったら、皆で食べようね」
「そうだぞブラン兄ちゃん! 何だかんだ忙しくって、話したい事の半分も話せてないんだ! パッと済ませて帰って来いよ! 今日寒いし!」
今度はティムに続いてタムが言い。2人は恭しく頭を下げた後、俺から離れた。
それを見たシェイプス先生は、何も言わずに俺の方を向いて頷き、遺跡に向かう余所者達を指揮し始め。シルベーヌとミルファもそれに続いて、下へと降りる。
俺も片膝を着いて座る舞踏号の背を駆けあがり、脊髄に抱き付くような形のコクピットに滑り込む。
ハッチが閉じると同時に、ふっと意識が途切れた。
匂いがする、戦いの匂いが
歪んだ口元が見えるような。いつもとは違う声色の幻聴。
それが聞こえたかどうかというところで。俺は意識を取り戻した。
全身のエラーをチェック。目良し。耳良し。鼻は不調。四肢も体も問題は無く、人工筋肉が程よく温い。
舞踏号の嗅覚たる化学センサは、口元のスリットから飛び込んだ返り血にやられてからそのままなのだ。
今回は特に問題は無いと思うけれど、俺はふと気づく。
(鼻が利かないのに、幻聴は匂いがするって言ったか?)
微かな違和感を感じ。自分の指で頭部を触ってみるけれど、何か変わる訳でもない。鼻でもかめれば違うのだろうが、生憎舞踏号の顔には鼻が無いのだ。
とはいえ。今は気にしている場合じゃない。
俺機関砲を握ると、クレーン車が垂らす鉄骨の足場にそっと乗って、太く強固なワイヤーを握った。当然それなりに揺れるが、揺れが収まった頃に、クレーンが音を立てながら白い巨人を地の底へと降ろしていく。
底に到着して足場から降りると、そこは地下遺跡の大動脈。地下川の川辺である。
俺が飛んだり跳ねたりしても十分な横幅と高さのある空間で、ぼんやりと明るい照明も点いている。地下川の幅は、以前見た川よりも広いけれど。深さは俺の脛の中程まで。対して苦になるものではない。
川幅に比例してか岸辺も広く。戦車だって余裕をもってすれ違えるだろう。
地図では確認していたけれど、改めて周りを見ると中々に壮大に感じた。
「ブラン、川は浅いみたいだけど、一応岸辺を歩いて行って! 先鋒には舞踏号が。その後ろに私達が軽トラで続くから!」
シルベーヌが明るく言い。余所者の運転する軽トラの助手席に乗り込んだ。
今回はミルファも軽トラの荷台で機関銃を構えつつ、1本の追加腕でライフルを構え、残る1本の追加腕で荷台の縁を掴んでいた。いわば、軽トラの荷台で支援砲台役をする予定になる。
シルベーヌとミルファの乗る車両も含め、軽トラは3台居る。色も形状もバラバラだが、不思議な一体感がそこには存在した。
深呼吸を一度。
全身のダクトから暖かい呼気が鋭く噴き出した。
それに呼応するように、3台の軽トラにエンジンが掛かる。
『それじゃあ、行きましょうか!』
正面を見据え。機関砲を握りしめた俺が言うと、軽トラから明るい返事が響いた。
巨人の戦士が歩みを進める。地中と海の境目を目指し、何人ものヒトを従えて。
だが道中は思った以上に静かで、生体兵器の影も形も無い。
不気味な程に静かな中。しばらく歩いて到着したのは、地下川の根元である。川は水だけが通るようにしてあるが、岸辺の道は、巨大な扉が進路を塞いでいた。
『こりゃあまた……』
「……両引き戸型のシャッターかしら? 昔の人は変な物作るわねホント。ブラン、こじ開けれそう?」
『よし来た』
俺は一度右手の機関砲を床に置き。腰に付けていた手斧を左手で抜き放つと。外さないように気を付けながら、真ん中の隙間に斧の刃をめり込ませた。
刃が少し引っかかったのを利用し、斧を捻って隙間を作る。そこで今度は一度斧を置き。隙間に指を掛け、渾身の力を込めて引き戸を開く。
硬い抵抗があったものの。巨人の腕力が唸りを上げ、錆びた車輪が無理矢理に動く悲鳴と共に、シャッターは左右に大きく開かれた。
奥に広がっていたのは、天井が高く奥行きのある、まるで聖堂のような広い空間だ。すぐ右側には古びているものの頑丈な階段があり。階段に釣られて少し視点を上げれば、右手には薄汚れたガラスで仕切られた階層が見える。
そして聖堂の最奥には、壁一面全てを使った巨大な両開きの扉が佇んでいた。錆が浮いて微かに苔が生え、扉の隙間からは、海水が僅かに染み出している。
まさしく、目指すべき水門で間違いない。
だが。水門の前には朽ち果てた巨人がこちらを向き。両膝を付いて項垂れていた。
錆びた鉛色の甲冑を纏う、朽ち果てた巨人。
打たれてへこんだであろう兜と、覆面をしたような頭。光の無い双眸。朽ちた装甲で逆三角形に見える体型は、聖堂を守る騎士の如く勇ましいが、反して腰が儚い修道女のように細く。痩せ衰えた四肢が、貧困を物語っているように見えた。
異様ではあるが威容は無いものの。巨人の膝元には、今にも崩れそうな木材で、十字のシンボルも立てられている。
そしてその十字の前に、灰色の”人”が跪いている。
こちらが問いかける前に”人”が口を開いた。
「本当に来るとは。やはり御使いは嘘を仰らない」
ひどく疲れた。生気の無い男の声。だがその声には、ぬめった嫌な感触がある。
灰色の”人”がこちらをゆっくりと振り向く。今にも崩れそうな歪な双眸には、赤い光が灯っていた。
そしてこの”人”は、あの時俺とミルファが出会ったスライムで間違いない。根拠など無いが、心と体が、あれを同一個体だと言っているのだ。
『貴方は……一体誰なんです?』
「誰? 貴方はもうご存じでしょう」
思わず問いかけた俺に、”人”が答えた。
「私はかつて、幸運の旅人と呼ばれた者。俺はここでは無い何処から来た、世を超え時を超えた、幸運ぶまれびと」
そして”まれびと”が自分の両手で顔を覆い。赤い瞳が、指の隙間から俺を睨みつける
「僕は そうはなれなかった者 世を憂う者」




