第99話 憂いある者 百の手
「この世界は歪んでいる」
かつて幸運の旅人と呼ばれた者が両手で顔を覆い。だが、指の隙間から赤い目で俺を睨み。侮蔑するように言い放った。
「貴方も旅人ならば分かるだろう。この世界は、私達の知っている世界とは違う。全てが歪んでいて、全てが捻じ曲げられている」
『……知っているのと違う部分は、確かに沢山あるさ』
返事をすると、自然と機関砲を握る右手に力が篭る。言葉の端々に、この世の全てに対する憎悪を感じられたからだ。聞いていて気持ちの良い物ではない。
同時に。ミルファとシルベーヌ、余所者達が声を立てずに頷き合い。車を進めて隅に止め、いかにもな階段を登っていった。俺が目の前に居る旅人の相手をして、皆は水門を開くか破壊するべく行動するのだ。
「全てが偽りだ。人は薬瓶で生み落とされた肉を喰らい、営みをひずまされた木々が地に蔓延る。鉄の車が道を走り、叫ぶ矢が人の命を奪う。こんな世界は違う。俺達の知っている世界は、全てがかつて主がお造りになられた、よきもの達の末裔だった」
ざわりとした違和感が、俺の身体を駆け抜けた。
言葉の前提が違うのだ。あの人が言っているのは、”俺達の知っている世界”じゃない。”あの人の知っている世界”だ。俺の知る世界とは違う。時代か、場所か。それとも価値観か。そもそも根本から違うのか。ともかく違う世界の事を言っているのだ。
沢山の疑問が浮かぶが、旅人は戸惑う俺を気にせず、一方的に言葉を続ける。
「僕達の知っている世界は、日にひとかけらのパンと一口の葡萄酒しか無くとも、心には祈りがあった。王も貴族も、平民も奴隷も。みなに祈りがあり、天の光は世の果てまで満ちていた」
『アンタ正気か?』
聞けども返さず。旅人は顔を上げ、顔から手を離す。
「だが、この世界は違う。人では無いものが人を騙り、地には魔物が満ち溢れている。ここには天球すらも無く。動かざるべき地が動き、私の足はずっと浮いている。俺の信じて来た全てが否定され、歪に変えられ。正しい信教すら無い」
旅人が、倒れるように両膝を着いた。続けて祈るように、助けを乞うように。再び両手で顔を覆う。
そして今度は、今までの侮蔑や憎悪の篭ったものではなく。寂しさと悲痛さしかない、震えた声が静かに吐き出される。
「それでも私は、僕が出来る事をして来た。俺が旅人であると知った人々が、私に願を掛けてくれたから。僕は応えなければいけなかった。何もかもが違う世界に、自分の記憶や信教すら否定されながら」
嗚咽を堪え、旅人が胸の内を吐く。
「でも俺は、全てに応える事が出来なかった。応えれなかった私を、助けてくれていたはずの人々が虐げるようになった。僕の力が及ばないから、俺には背負いきる事が出来なかったから……」
灰色の身体に光る赤い目から、黒い滴が流れ落ちる。
「父さんに会いたい。母さんに会いたい。兄弟に会いたい。誰でもいい。僕を知っている人と、私の知っている物に会いたい。でも、俺を知っている者は何処にもおらず、私の知る物は何処にもない。救いを求めて祈っても、人も、天すら救ってはくれなかった。僕は、望まれていなかったんだ」
涙と嗚咽が止まり、再び赤い目が俺を見た。
睨みつけるのではない。全てを達観したような、重く据わった視線が注がれる。
「そんな時。私の前に白い御使いが現れて下さった」
延々と続く悲哀と絶望の告白から一変し。歓喜と希望に満ちた、熱の有る声が発せられた。
「御使いは、俺に啓示を下さった。答えを与えて下さった。私の使命と、この世に生を受けた意味。僕が旅人である本当の意味を」
『本当に何を言っているんだアンタは……?』
異常な程の熱に当てられ、俺は戸惑いの声を上げた。だがその声は、旅人に聞こえていない。
それにさっきからずっと。俺、私、僕と。一人称が変わっていくのがいよいよ薄気味悪い。
「白い御使いは、私を導いて下さった。主の言葉を僕に告げ。俺がこの世界で生きる答えを教えて下さった。僕は書ではなく、御言葉によって答えを与えられた。だが答えは。私が欲しいものでは無かった」
憎悪と妬みのある視線が俺へ向けられ、棘のある言葉が叩き付けられる。
「ぼくは、選ばれたはずなのに選ばれなかった! わたしは、力があるはずなのに発揮できなかった! おれは、期待をされているのに応える事が出来なかった! 何も出来なかった! 何も……! 何も出来なかった!」
『……誰にだって失敗は――』
「ああそうだ! 失敗ばかりだ! 間違い続けた私の手には、もう何も無い! 世の人々もそうだ! 唯一全てに平等であった信仰すらも無い! 私の知っているモノなど、この世界には何も無い!」
色々な事への経験が少ない俺の言葉など、届くはずもない。
次いで、無数のスライムが周りの隙間やヒビから染み出し。油が地面を流れるように、朽ち果てた巨人へ集まって行く。灰色の粘液達が、統一された意思を持ち。朽ちた巨人の傷へと染み込んでいる。
「この世界は歪んでいる! 人でない者が人として歩き! 地には魔物が満ち! 星々にすら人が住む! 神への祈りすらも偽りだ! かつて主の作りたもうた天地と海など、もう何処にも残っていない! それでも私は……私は……!」
旅人の叫びに呼応するように。後ろに跪いていた朽ちた巨人の左目に、赤い光が灯った。
朽ちた巨人は鈍い音を立てて動き出す。膝元に居た旅人をその手に優しく握りしめ、硬い音を立てて開かれると、自らの背に誘う。
かつての旅人は朽ちた巨人の背に立つと、俺を一瞥し、脊髄にあるであろうコクピットに滑り込んだ。
古の巨人が立ち上がる。痩せた四肢に力を漲らせ、身体から白い息を吐きつつゆっくりと。
更に。巨人の痩せた両腕の付け根からは、無数の黒く、細長い腕が生え始めた。黒く固まったスライム達が、百にも及ぶ腕を形成して伸ばしているのだ。
四肢に加えて、腕の付け根から百を超える細長い腕が伸びる多碗の巨人が、低く轟くような唸り声をあげる。
『我は憂う者! 天を憂い地を憂い、人を憂う者! 我こそは憂いある者!』
唸りに続き、朽ちた巨人が名乗りをあげた。何人もの声が折り重なったような、歪みの有る声が地下空間に響き渡った。
身体が叫ぶ。あれは倒すべき敵であり、あれは憎むべき敵であり、あれは殺すべき敵だと。
同時に身体の記憶が頭に流れ込み、頭の脳髄に焼き付いた。
『……ヘカトンケイル……! そうか、火星の連中か……!』
「ブラン、どうしました? 声が変で――!」
『仲間のように殺してやる!』
一瞬無線に聞こえたミルファの声を、自分の叫びが掻き消した。
焼き付けられた記憶が。消えない熱を持った憎しみが。血沸き肉躍る衝動が。
全身を駆け巡り、心身を揺さぶった凄まじい衝動に、理性の手綱が引きちぎられた。
舞踏号が機関砲を抱え、迷いなく引き金を引く。砲口が唸りを上げ、殺意の塊と化した弾丸が多腕の巨人を貫いた。胸の装甲を穿つ金属音に続いて粘りのある音が響くが、多碗の巨人はビクともしない。
すぐさま武装を手斧に持ち替え。突進しながら機関砲を地面に投げた。
接敵すると同時に。渾身の力を込めて手斧が振り下ろされる。多碗の巨人の鎖骨に斧が食い込んだが、更にそのまま力任せに腕を引き。胸の装甲を引き剥がした。
『弱いぞォ!』
斧を握った手で、多碗の巨人の顔を殴りつけた。悲鳴にも似た金属音が鳴り響く。
ヘカトンケイル本来の痩せた主腕と、その付け根から無数に生えた黒い副腕が抵抗するが。舞踏号は再び顔を殴り付けた後、装甲の外れた胸を蹴り飛ばす。
『屑め!』
倒れ込んだ多碗の巨人に追い打ちをかけるべく飛び掛かる。だが、風を切る音と共に、無数の副腕が舞踏号を押し留めた。
一瞬つんのめった舞踏号に、痩せた主腕が真っすぐな拳を叩き込む。額に鈍い音と衝撃が走ったが、痩せ衰えた拳には、湧き上がる殺意と破壊の衝動に突き動かされる舞踏号を止める力が籠っていない。
それでもヘカトンケイルは無数の手で縋るように舞踏号を掴み、叫びを上げる。
『どうせお前も僕のようになる! 周りの期待は膨らむばかりだ! 微かな達成の先には、大きな失敗しかない! どうせ世界は歪んでいる! 全て無駄だ!』
『ガラクタが!』
舞踏号が叫び返し。無数の腕で掴まれたままヘカトンケイルを殴り、蹴る。手斧はいつの間にか遠くへ飛んでいた。
舞踏号の拳がめり込む度に装甲が割れ、蹴りが身体を抉る度に死んだスライムが血のように滴る。
ヘカトンケイルの無数の拳が殴り付け。装甲を掴み、柔らかい部分を引っ掻けば。白いタンパク燃料が飛び散った。
互いにもつれ合い、体勢を崩しながらも殴り合う姿は、洗練された戦いではない。まるで巨人同士が、互いを喰い殺そうとしているようだ。
『何が幸運だ! 勝手に期待して勝手に絶望して、俺の全てを否定していく!』
ヘカトンケイルが悲痛な声で叫び、主腕で舞踏号の顔を殴りつけた。さらに続けて無数の副椀が身体中を殴り、掴み、引っ掻き続け。ガリガリと塗装が削れて、身体中にエラーが走る。
『お前も必ずそうなる! そうしてやる! お前だけを特別にしてやるものか!』
多腕の巨人が必死な声と共に、舞踏号の顔面に拳が叩きつけた。
今までで一番威力のある拳が、まともに舞踏号の頭を揺らし。一瞬だけ視界が消え、意識が飛ぶ。
しかし。俺はすぐに意識を取り戻した。というより、正気を取り戻したと言って良いだろう。
ヘカトンケイルの無数の腕に掴まれたままだが、何とかもがいて身体を離し。思い切り蹴り飛ばして距離を取る。
床を転がった多腕の巨人を警戒しつつ、深呼吸を一度。
全身の痛みを再確認すると同時に、熱く白い息が全身のダクトから噴出した。
『……落ち着け、落ち着け……!』
自分の身体に言い聞かせるように、俺は呟く。
さっきの一瞬まで、俺は舞踏号の叫びに呑み込まれていた。敵味方とかそういう次元ではなく、体の奥底に刷り込まれたかのような憎悪と殺意に、異常な破壊衝動。絶対におかしい。おかしくない訳がない。
そして俺は理解した。人型機械が作られた目的の1つは、さっきのような戦いの為で間違いない。
人と同じ形をした、古い巨人の名を冠する戦争の遺産。彼らが生み出された意味。用意された答え。
『何でお前は明るい顔をしてるんだ……!』
ヘカトンケイルが、ゆっくりと立ち上がりながら俺に言った。
理性が優先順位を付け、舞踏号に関する疑念は後回しにされると、思考が戦いに集中する。
『お前の後ろに居た連中……あいつらも、どうせお前に期待をしているんだろう! お前を使って利益を得たいだけの連中だろう! この世界の連中なんて、みんなそうやって身勝手な奴らばっかりだ!』
『それは偏見だ!』
『事実そうやって私は捨てられ! 失意のままにこんな場所へ流れ着いた!』
威圧するように全ての腕を広げ、多腕の巨人が俺を睨む。
『何をしたって無駄だ。どうせしばらくすればこの島の連中は裁かれる。白い御使いが喇叭を鳴らす! 歪んだ世界を正しく直す! 俺はその一翼を担うのだ! 僕を身勝手に打ち捨てた者達に、世も人も歪んでいる事を理解させる!』
『ふざけるな!!』
歪な叫びに、俺は全身に力を込めて叫び返した。
『アンタに何があったのか分からないさ! それでも分かろうと、アンタの話を黙って聞いてれば……! 身勝手なのはアンタじゃないか! 当たり散らすのも大概にしろ!』
『分かった風な口を……!』
『いいや! 俺はアンタの事を何も分かっていない! 言葉は足りないし時間も足りない! それに俺とアンタは、別の人間なんだからな!』
ヘカトンケイルが一瞬身を屈めると、床面のコンクリートを引き剥がし、瓦礫を投げつけて来る。無数の腕で行われる投石が、弾幕のように俺に襲い掛かった。
それらをかわし。時には殴って壊し。装甲で受けながらも、俺は叫ぶ。
『話を聞く限り、アンタも俺も同じ”幸運の旅人”なんだろうさ! だけど、それでひとまとめに出来るほど俺とアンタは同じじゃない!』
『同じだ! お前も私と同じようになる! 今までの旅人がそうであったように!』
『未来は決まってる訳じゃない!』
『どうせそうなる! お前が成功すればするほどに、お前への期待は膨らむんだ! それに押し潰されるのが遅いか早いかの違いしかない! 俺と同じ様にな!』
『違う!!』
投げ飛ばされる瓦礫の間隙を縫い、身を低くして接近する。加速の付いた拳を振るうが、ヘカトンケイルの腕に防がれた。
防いだ拳を無数の細く黒い手が掴み、沼に引きずり込むように引っ張った。俺とヘカトンケイルは額をぶつけ合い、火花が一瞬散る。
『お前の言いたい事を当ててやろうか。あの連中の事を仲間だって言うんだろう。あの連中は違うって言いたいんだろう! 信頼だの結束だなんてモノは偽りだ! 気分次第で変わるものだ!』
『そうかもしれない! 人間、そういう一面だってあるはずだ!』
俺は額をヘカトンケイルとぶつけたまま、グッと首に力を籠める。
『だけどそれはあくまで一面だ! 人の心が移ろいやすいのは、アンタの言う通りかもしれない! 俺だって失敗したら切り捨てられるかもしれない! でも俺は嫌だ! 俺に善くしてくれた人達を、そんな事をする人達に思いたくない!』
『嫌だからで現実から目を背けるのか!』
『ああそうさ! 自分が嫌なだけだ! それに俺は本当に幸運で! 善い人達に巡り合えてるから、こう思える部分もあるんだろうさ!』
気圧されるようにヘカトンケイルが一歩下がった。額が一瞬離れたが、俺は大きく一歩前に出て再び額をぶつけ、火花を散らす。
『世界が歪んでいるのだって、アンタの言う通りだろう! 実際見た事無い物はいっぱいあるし、文化だって知らないものがいっぱいだ! だけど、これもありなんだ!』
『受け入れろというのか……! 正しくない、ねじ曲がった道理を! 歪な信仰を!』
『何が正しいのかは分からない! だから無理だったら無理でも良い! それもありだ! でも、アンタがやってる事で一番面倒なのが――!』
俺はヘカトンケイルを押し、壁にその背が当たるまで突き進む。
『最初から歪んでるって、自分から斜めに見て絶望してるとこだ! 世の中悪い事は沢山ある! けど確かに善い事ってのもある! どっちもあるのに、貴方はきっと悪い方ばっかり見てるんだ!』
『聖職者でもない者の説教なんて効くか! それにどうせ僕には、もう行く所なんて無い!』
『いいやある! 俺が居る!』
ふと額を離し、俺はヘカトンケイルの手を取った。
スライムの固まった、黒い副腕では無い。この朽ちた巨人本来の四肢。痩せ衰えた両手を。
『俺達は”幸運の旅人”なんです。だったら名前の通り、偶然良い事が起きたって良いじゃないですか。それに俺は。どんな人にも救いがあるって思いたい』
『救いが……』
『幸運を運ぶ役が俺達だったらなおさらです。俺は、世の中全部に善い事があって欲しい。貴方にも、これから善い事が起きて欲しいと想うんです。おこがましいかもしれないけど、貴方を救えるのなら救いたい。できれば一緒に、貴方が納得できる世界との折り合い方を探したい。俺は、探索者だから』
じりっとした感覚が、ヘカトンケイルから伝わった。頭の奥で何かが焼き切れたような、何かが千切れたような感覚。俺も一度感じた事のある感覚だ。
すると、みるみるうちにヘカトンケイルの光る左目から赤色が抜けていく。ものの数分もしないうちに、赤く爛々と輝いていた左目は、海のように青い色で縁どられた、白く輝くものに変化した。
『救いが、あっても良いんでしょうか。僕は色々な人に酷い事をしたし、今だって、この島の人を沢山殺す計画に加担を……』
『良いんです。それもありです。だって、人の心は移ろいやすいんですから』
無数の手が、一斉にしおれて脱力する。
今まで猛っていた戦意が無くなり。朽ちた上に殴られ、ボロボロになったヘカトンケイルの顔に、どこか安らぎにも似た表情が浮かんだ――瞬間だった。
「うーん。下手なお芝居ね。俳優の才能は無し。演説もダメ。せっかく舞台に上げたのに、本当最低」
甘い声が響き、俺とヘカトンケイルは同時に声のした方へ向き直る。
この聖堂のような部屋の最奥。水門の手前に。髪も肌も白く、だけれど赤い目をした、天使のような子供が膝を抱えて座り込んでいたのだ。
『エミージャ……!』
『白い御使い……!』
俺とヘカトンケイルが驚嘆の声を上げると、エミージャは天使のような顔に、悪魔のような笑みを浮かべた。
「本当。お芝居としては最悪よ。無理矢理書き上げた即興の物だとしても酷い。特にそっちの旅人さん。貴方はクビよ」
そう言うと、エミージャは心底つまらなさそうにくるりと指先を回す。
すると途端にヘカトンケイルが脱力して膝を着き、鈍い声を上げて喉元を掻きむしり始めた。思わず助け起こしても、朽ちた多腕の巨人はぶるぶると震えて喉を触るだけだ。
「貴方の旅はここで終わり。何者にも成りきれないまま。私を楽しませなかった罪を悔い、苦しみ悶えてのたうち回りなさい。死にかけのまま、絶対に死ねないまま。ずーっとね」




