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 はるかを高野組に奪われた勝が来る場所は、先程はるかと共に訪れた平山組本部の事務所である。表玄関から暗い表情で入ってくる勝の姿は、事務所に待機している組員にとって恐怖の何ものでもなかった。組員達は、深々と頭を下げ挨拶するが、勝は眉一つ動かすことなく通り過ぎていった。

 そして、勝が深々と頭を下げる相手はこの世で唯一人、北原元蔵である。静かな室内が緊張する空気を表すように、二人を取り巻いていた。

 「勝」

 普段から重圧のある低い声が、更に低くなり勝を呼んだ。

 北原は硬い表情のまま、怒るわけでもなく話しかけた。

 「お前ほどの男がどうしたというのだ」

 「申し訳ありません。全て私のミスです」

 下げた頭を上げることなく、はっきりした口調で勝は謝罪した。

 「儂は理由を聞いているのだぞ?」

 「何を言っても言い訳にしかなりません」

 勝に言えるはずがない。

 敵対関係にある高野の娘に気を取られていて、はるかを奪われたなど口が裂けても言えなかった。

 「儂はお前を可愛がっている。それは解るな?」

 「はい、もちろんです」

 「では、儂を失望させないでくれ。お前は自分のミスを自分で補うことの出来る男だ。そうだろう」

 北原は厳しい瞳で、勝を見つめていた。

 下げていた頭を起こし、勝は北原の瞳を見つめ返した。それは、日本の暴力団組織の頂点に立つ男、自分の魂を動かす男の瞳だった。

 普段は穏やかな振りをしているが、やはり唯の凡人には何万という組員はついて行かない。

 その組長が、勝にもう一度チャンスをくれたのだ。自分を信頼してくれているのだ。はるかを奪われたという事は平山組の、いや、組長の顔に泥を塗ったと同じ事。なんと情けないことをしてしまったのか…。

 勝は北原の信頼を裏切ってしまった事を後悔していた。自分のミスを恥じるより、北原に対しての懺悔の気持ちが大きかった。

 次は、決して失敗は許されない。

 「はい。はるかを無事に救い出し、この抗争に決着をつけます。組長の信頼を裏切るような不様な真似は決して致しません」

 「うむ。欲しい武器があれば持っていくがいい」

 北原の言葉を聞き、深く一礼して勝は事務所を出た。

  お気に入りのベンツに乗り込み、勝はアクセルを踏んだ。しかし、いつものように軽快な気分にはなれない。不満げに勝は運転していた。

 「勝さん…」

 後ろのシートから勇次が身を乗り出して勝の名を呼んだが、反応は無かった。

 そしてもう一人、後ろのシートにいた由美子が嘆いた。

 「ごめんなさい…私のせいで…なんて謝ったらいいか…本当にごめんなさい」

 勝は、二人が乗っていることを忘れていた。由美子の声で、やっと二人の存在を思い出した始末である。それ程、勝の不機嫌、落ち込み加減は深かった。

 「いやっ、俺のミスです。由美子さんが気にすることはない。親父さんも名誉挽回の機会を与えてくれた事だし…本当に、あなたが気にすることはないのです」

 勝は自分を責めるような口振りで、重く語っていた。

 豪華な車内には、小さなエンジン音が聞こえる程度の静けさが漂っていた。

 「ほら!何も暗くなることはないって!俺が忍び込んで、はるかちゃんを助けてあげたらいいし!」

 沈黙が耐えきれないのか、勇次が陽気に口を開いた。だが、それは勝の一喝で見事に粉砕するのである。

 「馬鹿者!高野邸は今や緊急事態体制に入っているだろうから、そんな簡単に忍び込めるか!それに、高野組を何とかしなければ、またはるかが狙われるだけだ…」

 「山崎さん…はるかさんのこと、好きなんですね…」

 ぽつりと呟いた由美子の言葉に、勝は一瞬言葉を失った。

 「…、違います!違う…違うんだ!」

 声が大きくなるにつれ、由美子の言葉を肯定しているようで、勝はいつしか黙り込んだ。

 ──違う、俺のミスだからだ。俺の汚点を消すためにはるかを助けるんだ…。組長のために…どうしたら信じてくれるだろう…。

 由美子に妙な誤解を植え付けながら、車は神戸の繁華街にある勝の部屋に向かっていた。

 

 「さて、どうするかが問題なんだよな」

 四〇畳ほどの広い室内の柔らかなソファの上に、何気なく座っている勇次が呟いた。

 「おい、勇次。誰がお前をこの部屋に入れていいと言った?」

 黒を基調とした室内には塵一つ無く、勝の几帳面な性格を表していた。

 その整った室内に似つかわしくない茶色い髪と軽薄な声が勝には許せなかった。

 「勇次。誰の許しを得たんだ!」

 「まぁまぁ、勝さんと俺の仲じゃない」

 「どんな仲なんだ!お前とは赤の他人だ!」

 「そんなことを言ってる場合じゃないのでは…無いのでしょうか…」

 由美子の仲裁で勝は冷静さを取り戻すが、やはり勇次が部屋に存在することは許せなかった。

 「私はこんなこそ泥に力を借りなくても、はるかを助け出せます」

 由美子にそう告げると、勇次を玄関から放り出し、冷たくドアを閉め由美子の隣りに腰を下ろした。

 「山崎さんは、高野組を解散…または壊滅させなくてはならないのでしょう?」

 勝は無言のまま頷いた。

 「私にいい考えがあります」

 強い意志を秘めた瞳が勝に向けられた。

 二人きりの空間に緊張した空気が流れ、由美子は話しだした。

 「私は父が憎いのです。母を苦しめた父が、私を孤独にした父が…。今から私は恐ろしいことを言います…。それは、余りにも父を憎み、軽蔑しているからです」

 一呼吸おき、黙って聞いている勝に続けて話し始めた。

 「病床の母を置き去りにして、幹部会や商売女…愛人の所へ行って…私と母を暗闇に残して…。私から恋人も友達も…全てを奪っていった。やくざの娘なんかにした…あんな人なんて…。私がどうなっても、もう悲しむ人もいない…。母の葬儀の時だって、抗争中だからって…。私が…私が、高野組を…父である高野真治を…」

 「何を言おうとしているんだ!由美子さん?あなたは何を言おうとしているか解っているのか?」

 勝は由美子の細い肩を揺さぶった。

 「だって、だって、私は…あの人が憎い…そして…そして…」

 由美子の強かった瞳から、不安が溢れるように、透明な涙の滴が流れた。

 白い肌を透かし流れる涙が美しかった。痛ましい姿が綺麗だった。勝はこれほど涙の似合う女性に出会ったことはない。

 由美子が余りにも儚く、か細く、悲しげだった。

 由美子は取り残された暗闇の中で、父親を待っていたのだ。心細い時の中で、支えてくれるはずの父を…暖かな時を待っていたのだ。しかし、彼女の待っていた父は、前組長が逝去した下克上の世界を渡っていたのだ。

 由美子は支えてもらえないまま、震えながら寂しい時を過ごしていたから、儚く見える事を勝は理解した。

 だから勝は、由美子を暖めたくて抱き寄せた。

 「あなたは自分の心を見失っている。それは、余りにも悲しすぎる…」

 ──あなたは…父を憎いと言いながら…父親の愛情を欲している。自分が死んでも誰も悲しまないと、全ての人を拒絶しながらも、父親だけは…父親だけを欲している。きっと父親の愛を欲している。それが叶えられなかった分、憎しみへと姿を変えたのだ。

 「あなたに、そんなことはさせられない…」

 勝は自分の胸の中で、小さく泣く由美子に優しく言った。

  「でも、でもはるかさんが捕まってしまったのも、半分以上は私のせいです。私は…私はあなたの役に立ちたい…」

 由美子の言葉は勝の言葉を奪うのには十分だった。

 「由美子さん…」

 「お願い…」

 涙の訴えに、勝は由美子の希望に答えた。

  「爆弾を仕掛けます。それで、運悪く高野を殺ってしまうかもしれません。それで…いいですか?」

 「ええ、私に仕掛けさせて下さい。そうでないと私の気が済みません」

  二人の落ちついた雰囲気が部屋を包む中、窓の外ではにぎやかな何かが揺れていた。


 「ったく!ひどいや!勝さん。由美子ちゃんと二人っきりで二〇分間も過ごすなんて…」

 妖しい雰囲気が勝と由美子の間に流れたとき、一五階の窓から侵入しようとした勇次が現れて、由美子が勇次を部屋へ受け入れた。

 「なんだ!お前こそ人の部屋に…なんて所から現れるんだ!ここにはベランダなんて無いビルなんだぞ?それを…窓からなんて…」

 深い溜息を一つ吐いて勝は話題を変えた。

 「今回…はるかを救出するにあたり…お前の…その、勇次の力を…ほんの少し借りようと思う…」

 言いにくい言葉を、勝は必死に述べた。

 「最初っから素直に言ってくれればいいのになぁ」

 「最初はお前がいなくても出来るはずだったんだ!俺が一人で侵入してだなぁ…」

 「ごめんなさい…私のせいで…山崎さんが私のわがままを聞いて下さったから…」

 由美子の言葉で、勝は自分が大人げない態度を取ったことに気付いた。

 「まぁ、そんなことはどうでもいい。勇次は由美子さんの友達…と言うことで、高野邸に入ってはるかを救出。由美子さんは時限爆弾を設置して下さい」

 「えー、今の状況で友達なんて通用するの?…あ!ねぇねぇ、俺が由美子ちゃんの恋人で、結婚する報告に行く!というのはいい作戦だと思うけど!」

 「何を言ってるんだ…」

 呆れる勝の横で、由美子は勇次の提案に賛成していた。

 「いいかも…その方が自然ですよね…。全く帰らなかった娘が、いきなり友達を連れて家に帰るより、結婚の報告の方が…。それに、父と喧嘩別れになって部屋に閉じこもってる…って事にすれば動きやすいし…」

 「そうだろう!へへん!俺の意見がどれだけ奥が深いか解った?勝さん!」

 「なにか…お前の場合…違う気がするが…」

 勝は少し不機嫌に、彼女の意見に賛成した。

 「はるかを救出して脱出するときは、屋敷の裏側に逃げてくれ。俺の部下を配置しておく」

 「勝さんの部下って…怖い人?」

 「いや、顔が知れてない下っ端の奴にしようと思ってるが…」

 「なんだ、和夫君かぁ」

 「…」

 簡単に考えが読まれてしまい、勝は少しむくれたが大人として、そしてクールな男として、端正なポーカーフェイスを崩すことはしなかった。

 「では、今日の夕刻に…」

 勝は自分の部屋の玄関の外で言った。時は既に朝日が昇ろうとしている。

 一騒動の後に、勝の部屋で由美子が休み、勝は勇次の部屋に行くことになった。

 「なんて…部屋に住んでいるんだ…」

 それは、勇次の部屋に入った勝の驚きの声だった。

 勇次の部屋は、勝と同じくらい広いはずだが、汚いわけではない。妙なのだ。

 絵画、仏像、彫刻が部屋を占領し、壁を覆い隠す本棚には医学書が並び、人体模型などが置いてある。

 「俺にこの奇妙な部屋で寝ろというのか?」

 「いい部屋でしょ?これだけの美術品に囲まれて寝るなんて、そうそう体験できるものじゃない」

 勇次は得意気に言っているが、勝は呆れて言葉も出なかった。

 「ねぇ、勝さん。由美子ちゃんのこと…どう思ってんの?」

 奇妙な部屋の中で、真剣な勇次が果てしなくおかしく見えたが、勝は笑いをこらえた。

 「いい子だと思うが?」

  「それだけ?」

 「何なんだ?…あ、さっきの二〇分間の事を気にしてるのか?たった二〇分では何もできないぞ」

 ──やっぱり、昔のクラスメイト…って事は知らないんだ…知らない方がいいのかなぁ?こんな時、はるかちゃんがいてくれたら相談…いやいや楽しむのに… 

 勇次の奇妙な部屋で、奇妙な関係の二人の男は眠った。

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