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零ゆる花のシャングリラ  作者: 瀬川月菜
第五章 我が扶翼 わがふよく
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我が扶翼 4

 アンバーシュは暁の離宮まで馬車を走らせ、空を行く乗り物はこうなると便利で、誰にも見つからずに降り立つことができた。馬車を返さなければならないからとそこで別れ、凝った肩を揉みほぐし、扉を開ける。早朝だから、まだレイチェルたちはいないだろう。

 そう思ったのに、机の上には湯気の立つ汁物が準備されていて目を丸くした。透明なだし汁に小さく刻まれた野菜が浮かんでいる。かなり煮込まれているらしく、野菜が透明に透き通っていた。さらには柑橘の果実。水は、どうやら檸檬を絞ったものを混ぜてある。

 レイチェルだろうと察しはついた。いちるが帰ってくる頃を見計らって、湯気の立つ物を準備するのは骨が折れたろうに。

(そういえば、あの時別れたままだったか)

 かなり焦った顔をして手を伸ばしていた。普段は冷静で表情が変わらないため少しめずらしい気持ちになったのだが、もし一晩休ませてやれない状況に追い込んでいたのなら悪いことをした。

「…………」

 とりあえず、食事をする。酒で疲労した胃に、塩味のきいたあたたかい野菜汁は心地いい。

 橙の果実の皮を剥いていると、寝室の扉が開く音がした。少女の姿が現れ、一直線にやってくる。膝にぽすりと顎を載せて、いちるを見上げた。

[オカエリ。しゃんぐりら]

[ただいま、エマ。この部屋で寝ていたのか?]

[心配ダッタカラ]

 ふわふわの髪の毛があちこちに跳ね上がっている。剥いた果実を口に放り込み、残りは二人で半分ずつ食べてしまうと、手巾で手を拭いてから、フロゥディジェンマを鏡台へ誘った。

 固い白い毛の櫛で、髪を梳いてやる。

[エマの髪は、こしがあって艶もあっていい髪だな]

 実感がないらしく首を傾げている。見た目は絶世の美少女なのに一枚ものの衣装に素足をぶらぶらさせているから、東の人間であるいちると一緒の鏡に映っていても、フロゥディジェンマの方が浮世離れして見える。

[しゃんぐりら。髪]

 鏡ではなく直に顔を見ようとするので、ぐっと首を逸らしてくる。

[髪が?]

[切ラナイ?]

 まとめていたので忘れてしまうが、エリアシクルとの一件で、髪が一房短いままだった。まだ誰にも手を入れさせていないのは、神馬との取引に使えると分かったために、容易に切ることができないだろうと考えたからだ。

[切ってもいいか、アンバーシュに聞いておく]

 寝癖が収まるまで櫛を入れていると、ようやく女官たちの来訪があった。入れ替わりにフロゥディジェンマが彼女たちの横を音もなくすり抜けていってしまう。

 三人が揃って朝の挨拶を述べて頭を下げた。

「おかえりなさいませ」

 レイチェルが顔を上げた瞬間、いちるは反射的に居住まいを正していた。

 だが、レイチェルは普段と変わらぬままに言った。

「ただいま、本宮にナゼロフォビナ神がおいでになられております。お休みになられたら本宮にお越しいただきたいと、クロード様、ロレリア宮廷管理長官が仰っておられました」

「……ええ」

「それでご支度なのですが、お帰りになられると思って、お湯浴みのご用意をしております。お湯をお使いになられますか?」

「頼みます」

「かしこまりました。お衣装や装身具はわたくしどもが決めてもよろしいでしょうか。ご意向などはございますか?」

「華美ではない、礼式に準ずる物を」

「では薄紫と茶色のドレスにいたしましょう。装身具は金の木春菊で」

「髪型も任せます。……レイチェル」

 はい、と濃淡のない応答。あまりにも素っ気ないので、いちるは言葉を見失ってしまった。相手の顔や立ち姿を見て、なんとか何を考えているか読み取ろうとしたが、いつもなら働く直感がうまくいかない。接触すれば読心できるが、レイチェルに近付くことができない。見えない壁や、線が立ちふさがっているかのようだ。

「何でしょう、姫様」

「…………髪……」

 東の言葉で答えを返していた。頭を振って言い直す。

「……髪を切りたいと思っています。アンバーシュに許可をもらってください。一人で切ることは、できない、ので……」

 西言葉だけに、しどろもどろの具合がひどい。己の出来の悪さに頭痛を覚え、深くため息をつき、きっぱりとレイチェルの顔を見た。後ろに控えているジュゼットとネイサが目を瞬かせている。

「レイチェル。ネイサ。ジュゼット」

「はい」

「心配をかけてすみませんでした」

 ネイサがそのまま硬直した。

 ジュゼットが両手の行き場を見失った状態で顔色を失う。

 レイチェルは、ゆっくりと一度瞬きをした。

 いちるは言った。

「素直に謝罪したのだからそのままの意味で受け取りなさい。それから、食事をどうもありがとう」

 顎を上げ、腕を組み、眉間に皺を寄せて。どういう顔をしていいか分からなかったせいで、謝っている空気など微塵もない態度になってしまった。

 ジュゼットとネイサは混乱の顔で目を回しているが、レイチェルが両手を前で揃えたままいちるをじっと見るので、今度はどうしていいか分からなくなる。

(この態度はまずかったか?)

 凍れる美貌の女官は、いちるに頷きを返した。

「こちらこそ。わざわざ謝罪いただきありがとうございます」

「…………」

「それでは、お湯浴みのお手伝いをさせていただきます。ネイサ、ジュゼット。お願いします」

「は、はい!」

 二人は今度はこわごわ上司をうかがっている。だが仕事の手が滞ると注意されるからか、早々に目を逸らして、いちるを浴場へ先導した。けれどいちるは見た。ジュゼットによって扉が閉められるまで、レイチェルが会心の笑みで見送っていた。そこでいちるは、自分の行いが間違っていないことを確信したのだった。

(謝ってなかったいたらどうなっていたか……)




 風呂に入り、着替えをして、案内されたのは本宮だ。物々しいお仕着せの男女に見守られ、扉をくぐる。壮麗な調度で整えられた部屋に似つかわしくない大声が「あんなぁ!」と子どものような言葉遣いで言った。

「てめえはそれでいいかもしれねえが、こっちの身にもなってみろってんだよ。こちとら顔を売るのが商売ってわけじゃねえんだから」

「東神と交渉したのはあなたでしょう。何があったか聞けばいいじゃないですか」

「気軽に言ってくれる……」

「ほら、お待ちかねの方が来ましたよ。イチル。ナゼロフォビナです」

 ぱっと勢いよく振り返った男が、みるみる顔を輝かせるのにいちるは顎を上げた。あちこちに跳ねた髪は、フロゥディジェンマよりはましという具合で、背が高く肩幅もがっちりしているが、緑の目がつぶらで真円を描いている。虹彩が鱗のようになっており、一目で人外の物と分かる。

 それが人懐こく笑う。そうして、彼はするりと膝をつき、いちるの足下で頭を下げる。

「大地の子たる東の御方、千年姫にお目通りいただけるとは恐悦至極。噂に違わずお美しい。わたしは川神ビノンクシュトと神蛇シッチロクタの子、ナゼロフォビナと申します。どうぞ、お見知りおきを」

「お初にお目にかかります。いちると申します。ようこそいらせられました、ナゼロフォビナ神」

 ナゼロフォビナはいちるの右手を取った。何をするのだろうと見ていると、手の甲にかるく唇を触れさせる。軽く目を見張ったが、そういえばこれは西の挨拶だったかと当然と受け入れた。

 アンバーシュが呆れた声を出した。

「人間の、それも古風な挨拶なんて。気があるんですか?」

「もちろん。一目見たときからわたしは姫の虜なのです」

「……失礼ですが、ご挨拶をしていただいたのは初めてのように思います」

 ええ、と頷かれる。

「遠目ですが、姫のお姿を拝見したことがあります。アンバーシュがあなたを陣幕にお連れしたときに。その時、あれが千年姫かと、わたしの胸は小鳥のごとく震え、破裂しそうなほど高鳴って……」

「ナゼロ。もう止めなさい。いちいち寒いです。彼女はそういう美辞麗句を使う人間は信用しない信条です」

「何を言う。本当のことを言っているだけだ」

 きりりと表情を引き締められての宣言だったが、いちるは軽くため息をついた。

[失礼ながら……]

「おや、姫は念話の力もお持ちとは。ますます素晴らしい。さらに魅せられてしまいます」

[この力を使った方が機微が伝わりやすいのでこちらで失礼する。アンバーシュの言う通りだ、ナゼロフォビナ神]

 晴れ晴れとした笑みで告げる。

[心にもないことを言うとその舌切り取らせていただく]

 穏やかなくらい粛然とした空気になった。そっとアンバーシュが目をそらす。

 ナゼロフォビナは表情と言葉の落差に虚をつかれたそぶりを見せる。

「……えー……っと」

[誰ぞ、鋏を持て。一度痛い目を見ていただかねば妾の苦言は聞き入れられまい]

 扉に目をやって言えば、アンバーシュが割って入った。肩をつかんで、諭すように叩いてくる。

「イチル。イチル。さすがに言葉がきついです」

[馬鹿を言うな。冗談に決まっておろう。本気だったら本当に人を呼んでおるわ]

 目を向けると、ナゼロフォビナはまだぽかんとした顔だった。この神は頭の回転が鈍いのだろうかと心配になる。

「失礼いたしました。つい言葉が過ぎてしまいました。お許しください。どうぞ、わたくしに気をお使いにならないでください。さきほどの会話を聞かせていただくと、どうやらアンバーシュとは親しいご様子でしたから」

 ナゼロフォビナが噴き出した。

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